小川で、魔王の体と己の体を清め、汚くてすいませんねと謝りながら自分の上着で魔王の濡れた体を拭った。
そして、何事もなかったかのように、衣服を整えた魔王を血盟城まで送り届ける。
血盟城ではそれはもうパニックが起きかけていたが、その騒ぎで魔王の意識が戻ったために、パニックは絶頂を迎える前に終息を迎えた。
「いやー、心配おかけしました」
悪かったと謝る魔王に、婚約者は全くだ!と憤慨し、王佐は汁という汁を垂らして己がどれだけ心を痛めていたかを切々と語った。
婚約者の兄二人は、何も言わずにその様子を眺めている。この二人は、魔王の状態に気付いているかもしれない。
しかし、今のところ問いただす気はないようだった。後で、発見者という事になっている男が、上司に呼ばれる事はあるだろうが、どうにでも誤魔化すつもりでいた。
真実は、当事者だけが知っていればいい。どんなに魔王に近い存在であっても、知らなくて良いこともある。
今回の事は、魔王自身が彼らに語らない限り、男は決して口を割ることはしないと、既に心に誓っている。
そして……。
「陛下! あたくし本当に心配しましたのよー」
女は、今回の事の裏側など知らないかのように、魔王に振る舞う。
王佐によって魔王から引き剥がされた女は、あーんと不満そうにしながらも、それ以上魔王に触れるようなことはしなかった。
去り際、男に意味深な微笑みを投げかけて、女は部屋を出て行った。
男が女に呼び出されたのは、騒ぎがすっかり収まった、数日後のことだった。
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「全く、口が堅いんだから!」
情事後、女は憤慨していたが、その美貌が損なわれるような事はなかった。美人は、何をしていても、美人なのだ。
高級なベッドの上、一糸纏わぬ女は美術品のように美しかったが、男には今素直にそう思うことが出来ない。
「少しぐらい話してくれてもいいじゃなくて? あたくしにだって、知る権利はあるはずだわ」
「そう言われましてもね」
男はすっかり服を着込んで、いつでもこの部屋を出られるよう準備万端だ。
ここを出たら、一度上司の所へ戻って、次の仕事を受け取りに行かねばならない。
「お膳立てをしたのは、貴方に良い思いをさせるためじゃあないのよ」
「それは分かっちゃいますがね。でも、今回は少しやりすぎです。陛下の意思を尊重して、オレからは何も喋りませんよ」
「陛下にお聞きできないから、貴方に聞いているのに、意地悪ね」
「そもそも、ご自分でお試しになれば良かったんですよ。オレにやらせることはないでしょう」
男ははあとこれ見よがしに溜息をつくが、女はにんまりと口角を上げただけだ。
「何です?」
訝しがる男に、女は笑ったまま答えようとはしない。
サディスティックな色が、その瞳に宿っていた。
「なんでもなくってよ。陛下の事を教えてくれない貴方には、あたくしも、貴方を選んだ理由は教えてあげないわ」
別に構いませんよと男は嘯いて、豪奢な扉へ向かう。
行為が終わった以上、いつまでもここに居る理由はない。
「グリエ」
振り返ると、女はベッドに腰掛け、真っ直ぐに男を見詰めていた。
「あたくし、これでも陛下の事をお慕いしているのよ。それだけは、知っておいてもらえるかしら」
妖艶な微笑みを浮かべる女の本意を、男は掴みきれない。
「ええ、胸に刻んでおきます」
心にもないセリフをするりと投げかけ、男は部屋を出た。
女は男の出て行った扉を見ていたかと思うと、ベッドに体を投げ出して、くすくすと笑い出した。
「もう、グリエも呼べないわねえ。まあ、陛下がお望みなのだから、仕方ないわ」
女はその宝石のような瞳を閉じて、親愛なる魔王陛下を思い浮かべる。
綺麗な黒髪、綺麗な双眸。出来ることなら、自分のものにしてしまいたかった。けれど、彼はそれを望んではいなかった。
彼が望んでいたのは、他の人間だった。自覚があったのかなかったのか……きっとなかっただろう。
恋愛至上主義の女には、直感で判る。
そう、魔王は、自覚がなかった。
自覚無しに、彼を欲していた。
夕焼けのような、オレンジ色の髪をしたあの男を、魔王は知らずに欲していた。
恋する瞳を、彼女は今まで数え切れないほど見てきた。
魔王がその瞳を向けていたのは、あの男だったのだ。
そして、男もまた、魔王を思っているようだった。こちらも、自覚はしていなかったようだが、女から見れば丸わかりであった。
最も男は、わざと自覚しないようにしていた節もある。
しかし、それを知ってしまったなら、手助けをしてやりたいと思うのが愛の狩人というものだ。
半ば強引な手段だったとは言え、目論見はほぼ成功したと言ってもいい。
しかし、肝心の二人がお互いの心に気付くのはいつのことか。
体を繋げても、未だ心は通っていないように、彼女には見えていた。
けれど、それも時間の問題だろう。体を繋げてしまったら、意識せずにはいられない。
それに……。
「意地悪されたのだから、これぐらいは自分たちで気付いてもらわなくっちゃいけないわね」
うふふと、女はまた妖艶に嗤った。
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