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あめのひよりも前のはなし



「これはやっぱ問題だろ」
「そうですね。大問題である、と言えます」
 シグとグントラムはデスクを隔てて顔を突き合わせ、深刻そうに悩んでいた。
 ファラモン城の一室、グントラムが前王に仕えていた時分に与えられた仕事部屋は、誰の目から見ても今の役職には見合わぬ狭さであったが、本人はこの部屋をいたく気に入っており別室へ移動するつもりはない。しかし、各種資料や書類が書架一杯に並べられきちんと整頓された部屋は、片付いてはいても物の多さは否めなかった。
 こぢんまりとした部屋の窓際には、大きなデスクが一つ置かれている。厚く丈夫なオーク材で作られた執務用デスクは、よくよく見れば側面に上品で細かな飾り彫りが施されているが、ぱっと見ではわからない程に謙虚な設えで、持ち主の控えめな気質とよく似ている。山積みの書類がいくつも乗っている天板上のちょうど真ん中には、一枚の紙がぺらりと置かれていた。いくつかの文字と大量の数字が整然と並んでいる紙の正体は暦だ。
 二人が真剣な顔で眺めている暦は、その大半がバツ印で消されていた。双葉の季節を皮切りに、つぼみの季節、花の季節と続き、また双葉の季節へと戻る。三十日ごとに季節は切り替わるが、そんな事はお構いなしに日付を消しているバツ印は連続して百二十個以上ついている。
 正確には百三十一個で、バツ印はそこで止まっていた。ちなみにバツの途絶えた百三十二日目は今日である。
「折角恋人になってもこれじゃ意味ねえよなあ」
「……はい」
 シグが眉を寄せれば、グントラムは対照的に頬を赤く染める。悩みは互いにとって深刻なものであったが、シグの口から『恋人』と言われて照れずにはいられなかった。
 そう、二人はれっきとした恋人同士なのだ。
「毎回言ってるけど、これぐらいで照れるなっての」
「すみません、喜びが抑えきれませんで……。こうして閣下と二人きりで過ごせることも、未だに信じられない気持ちなものですから」
「そりゃ、百三十一日も会ってねえからなぁ。恋人っつっても、オレもあんまり実感ねぇよ」
 暦につけられた印は、二人が顔を合わせなかった日々の証だった。バツ印を改めて眺めればその長さがよく分かる。百三十一個の連続するバツ印はいっそ壮観だ。そもそも連続する前とて十日に一度ほどバツ印のついていない日があるだけで、基本的に暦はバツで埋め尽くされていた。
 付き合い始めてから一年近い月日が経っているにも関わらず、二人の距離は恋人になる前と殆ど変わっていない。
 忙しいと言い訳をするのは簡単だ。実際に二人は目が回るほどに忙しい日々を過ごしている。とりわけグントラムは祖国の復興に心血を注ぎ、寝る間もない毎日を過ごしていた。そんな中でシグと思いを通わせたのは奇跡とも言えたが、いざ付き合い始めるとそこから先に進むことが出来なかった。思いが通じたことで、どこか安心してしまったのは間違いがない。
 ファラモンとレーツェルハフト城にそれぞれ住まう二人は、本来であれば数日の距離をかけなければ会えない関係だが、この二カ所はトビラで繋がっているので距離など無いに等しい。一つの城だと言っても決して過言ではない程近いのに、それでも会うことが出来なかった。
 原因の一つは、依頼で何週間もレーツェルハフト城を留守にする事のあるシグと、宰相という仕事柄アストラシア国内を飛び回るグントラムでは生活が合わない事にある。グントラムに時間が出来たとしても、シグがレーツェルハフト城にいなければ会うことは出来ないし、シグに時間が出来てもグントラムは会議に視察にと忙しなく、すれ違う事が続いた。決まった休みがある訳でも、会う約束をしたとしても仕事柄必ず守れるという保証も無い中では、顔を見ることすら難しいのだ。
 グントラムにとってアストラシアが如何に重要であるかをシグはよく分かっている上、未だ復興の途中である事を思えば仕事を邪魔する気にはならない。そしてそれはグントラムも同じだ。互いを思えば思う程、距離はどんどん離れていってしまう。その事に危機感を抱き、ようやく会えたのが今なのである。
 ようやくの再会が果たせたのはたまたまだ。たまたまグントラムが執務室で一人仕事をしていて、たまたまシグがそのタイミングでやってきた。実際、シグがやって来るタイミングがあと一時間早くても遅くても、グントラムは執務室にいなかったので、運が良かったと言えるだろう。
 そうして再会した二人が一番に行った事が、バツ印で埋まった暦の確認だった。
「とりあえず、バツ印を減らすのが最優先だよな」
「異議はありませんが、具体的には如何いたしましょう」
「今まで会おうと思っても会えなかったのは、時間とかタイミングが合わなかったからだろ?」
「そうですね、私は日中この部屋にいる時間はあまり長くはありませんし、閣下も同じくフィルヴェーク団への依頼で各地に赴いていらっしゃるので、明確なお約束がない限りは顔を合わせるのは難しいかと存じます」
「でも、約束したって飛び込みの仕事とかしょっちゅうだからあんま意味ねぇしな。だから、日中は諦めようぜ」
「と言いますと、夜でしょうか。しかし夜は……」
「あんたが書類に埋もれる時間だろ? それは知ってる。だから夜よりもっと遅くか、あとは仕事が始まる前の早朝とかなら会えねえか? ホツバのおっさんとかにはオレから話つけておくし、どうしても顔が見たいって思った時だけでいいからさ」
 今まで日中に拘っていたのは、相手への思いやり故であったし、またトビラを管理しているランブル族への配慮でもあった。恋人に会うために、わざわざ深夜や早朝にトビラを繋いで貰わなければならないとなると、グントラムはもとよりシグとて遠慮の一つもしようというものだ。
「しかし、それでは結局毎日赴く事になってしまうのではありませんか?」
 グントラムの表情は至極真面目だった。毎日シグの顔が見たいと、そう思う事が当然であるという態度にシグは僅かに面食らい、同時に喜びと照れ臭さが湧き上がってくる。グントラムは意識的にか、あまりシグへの思いを口に出すことはないので、素であろう発言が余計に嬉しく感じた。
「なら毎日会えばいいじゃねえか。ホツバのおっさんには悪いけど、オレもあんたに毎日会えば悶々としないで済むかもしれねえし」
「も、悶々と、されておられましたか」
「そりゃ、好きな奴とずっと会えなきゃな。あんただって、オレと毎日会いたいって思っててくれたんじゃねぇの?」
「……暦の数字を塗り潰していく度に、閣下のお顔を拝見したくてたまらなくなりました」
 数字をバツ印で消していくだけの行為が、気付けば随分とグントラムの心を削いでいた。一日の終わりに、ため息と共にバツを描く日々は既に定番となっているが、シグを恋しく思う気持ちは日毎増している。実を言えば、仕事が終わった真夜中レーツェルハフト城へ赴く事を考えたことだってある。
「じゃあ約束だな」
 グントラムに向かって、シグは小指を突き出した。
「顔が見たくなったら、夜中でも早朝でも昼でも好きな時に会いに行く。毎日は無理だろうけど、そんでもバツ印減らせるようになるべくいっぱい会おうぜ。それと、オレの部屋はドアが閉まってる時でも、あんただけは勝手に入っていいからな。遠慮はなしだ!」
 グントラムはシグの小指に、自身の小指をそっと絡ませる。自信がないのか、指は辛うじて引っかかる程度だ。
「では、私の部屋へもそのように。念のため、寝室の鍵をあとでお渡し致します。……ですが、本当に会いに行ってもよろしいのでしょうか」
 尚尋ねてくるグントラムの小指をしっかりと絡め取って、シグは大きくその手を振る。驚いているグントラムに思いきり笑いかけて見せた。
「当たり前だろ! それとも、会えない方がいいのか?」
「いえっ、それは!」
 それだけは絶対に無いと言いかけ、グントラムは途中で口ごもったが、シグは言わんとしていたことを察して頷いた。全てを口に出さないことに対する怒りや失望を見せるようなことは全くなく、むしろグントラムを励ますように笑みを絶やさない。
「じゃあ、何の問題もねぇよ。あとはオレがランブル族を説得出来れば解決だな」
「その件ですが、出来れば私もお供させてください」
「そりゃグントラムが居た方が心強いけど、オレだけじゃ信用できねぇか?」
 一転して困ったような表情になるシグに、グントラムは晴れやかな笑顔を向けて言った。
「いいえ、閣下のことは信用しております。しかし、これは私と閣下の事なのですから、私からもお願いするのが筋というものです」
 二人の未来のために、とグントラムはシグの小指を優しく握りしめた。


end
2014.01.12初出

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