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あめのひ(サンプル)



 目が覚めた時、シグはそのあまりの静けさに自分がまだ夢の中にいるのかと錯覚してしまった。
 まだ重い思考の中、聞こえてくるのは少しくぐもった雨音ばかりで、それ以外の音と言えば自分が身動ぐ度に起こる衣擦れの音ぐらいのものだ。部屋の入り口に設置されている大きな扉は開け放たれているのに、部屋の外から人の立てる音は何も聞こえてこない。
 曇天のせいで部屋の中も薄暗く、シグには時間の感覚も掴むことは出来なかったが、真っ暗ではないので多分朝だろうと判断して上半身を起こす。昼ではないと思ったのは、まだ誰も起こしに来ていないからだ。
 もしシグが寝過ごしているのであれば、誰かしら起こしにやってきている筈だ。その日の用事の有無は関係なく、それがシグにとっての常だった。
 起こしにやってくるのは幼なじみ達であったり、仲間達であったりとその時々によって変わるが、いずれにせよシグが目を覚ますまでしっかりと起こしてくれるので、誰も来ていないという事はまだ寝過ごすとは言えない時間なのだろう。
 そのままベッドの上で暫くぼーっと過ごしていたが、いくら待っても足音一つ聞こえてくることはなかった。まるで城の中にいるのが自分一人であるかのように静かだ。
(……あー、そっか)
 そしてシグはようやく、幼なじみ達を始め団員の多くが出払っていることを思い出す。
 数日前からリウはレン・リインと共にサイナスへ、マリカはシスカと共にシトロ村へ、ジェイルはロベルトなどの腕の立つ者を数人引き連れて遠出の依頼へと出掛けていた。他にも依頼が立て込み、団員達の多くはそれぞれ遠方へと出かけていた。いずれも戻るまであと数日から数週間はかかる予定だとモアナから聞いている。
 ほとんど人のいないレーツェルハフト城を襲うならば今だとばかりに、警備なども殆ど機能していない。もっとも、実際にこの城が賊などに襲われようものなら、残っている者だけでも十分戦える事は間違いなく、更にトビラで繋がっているアストラシアから王室騎士団の面々がすぐに飛んできてくれる事も間違いがない。腕に自信のある者が多く集い、金銀財宝があるわけでも無い、そんな襲うにはあまりに旨味の無い城なので、心配するまでもなく賊が近付いてくるような事はなかった。あちこちで小さな小競り合いやトラブルは起これど、基本的に世界は平和だ。こうした平和な時間が続いているからこそ、皆安心して城を空けていられるのだ。
 シトロ村を出てこの城で暮らすようになってからは、シグの周りに幼なじみ達がいない時間というものも珍しくは無くなったが、協会との戦いを終えすっかり人数の減ってしまった城に一人残されるのは、考えてみれば随分と久しぶりのことだった。フィルヴェーク団として活動を始めてから、やれ依頼だ戦闘だと各々で出かける事は多くなったが、それでも一人か二人はシグと行動を共にするのが当たり前であっただけに、今の状況にどこか物足りなさは感じている。
 とは言え、幼なじみ達を筆頭に団員の多くが出かけているだけで城内が完全に無人になっている訳ではない。いくら静かであろうと、前述の通り多少の賊を相手にする事が出来る程度の人々は残っているので、部屋から出れば誰かしらには遭遇出来るだろう。そろそろ朝食だって食べに行かなくてはならない。
 しかしなぜだかベッドから降りる気にはなれなかった。目は冴えているのに、全く動き出す気にならないなんてシグには珍しい事だ。二度寝をする気にすらならず、シグはベッドの上で一人ほのかに遠い雨音を聞き続けていた。
 シグの部屋には窓は無く、外に大きく迫り出したバルコニーとの境はカーテン代わりの鮮やかな布だけだ。それも大きく開いているので、外との隔たりは無いに等しい。もし外とシグの間に障害があるとするならば、バルコニーからベッドまでの距離だけだろう。
 雨音はそう強くはない。優しい音は心地よくすら感じた。目を閉じて意識を音に集中させれば、雨粒が木の葉に当たるパタパタとした軽やかな音も聞こえてくる。
 雨によって沸き立った土と緑の濃い匂いが、ベッドの上で胡座をかいているシグを包んでいた。もともと城は木々に囲まれているし、レーツェルハフト城自体、その内に巨木を抱え込んでいるので緑の匂いは城に住まう者にとって決して珍しいものではない。だが、雨が降ることによって普段は乾いている場所からも生き生きとした存在感が強く感じられた。それはシグが――百万世界の星を宿す者達が力を合わせて守った世界の匂いだ。
 すぅっと辺りの空気を大きく吸い込み、同じようにゆっくりと吐き出していく。何度か深呼吸をくり返すと、シグは閉じていた瞼を開き、ベッドの上からまっすぐに外を見た。外の濃い緑を映しこんでいるその灰の瞳には、木々に勝るとも劣らない生き生きとした輝きが点っていた。人々はこの輝きにこそ希望を見出し、世界の敵と戦い続けることが出来た。敵を倒しても、その輝きは未だ多くの者を惹き付けている。
 シグはよし、と小さく声を零し両手で頬を軽く叩いた。
「起きっか!」
 扉を叩く控えめな音がシグの耳に届いたのは、気合いを入れたちょうどその時の事だ。出入りがしやすいよう全開になっているドアをわざわざノックし、尚且つ住人の睡眠を邪魔しないように軽く叩くような者は、シグの周りにそう多くは存在しない。レーツェルハフト城に住まう者は、ドアが開け放ってあればノックはせずにその場で大きく声をかけてくる者が大半であった。もっともその対応を望んだのは誰あろうシグ本人なので、団員たちのマナーがなっていないという訳ではない。そして、朝にこの場所を訪れる者はシグを起こしに来る者であり、起こさないようにだなんて配慮をする筈がなかった。だからやってきたのは、シグを起こさないような配慮をする人間という事になる。誰が来たのか、シグは既に薄々と感じ取っていた。
 シグは首だけで扉を振り返り、その影からひょっこりと顔を出す人物を見た。


end
2012/01/12発行
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