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産声



 窓の外では今も夜の闇を退けるかのように街の灯りが煌々としているのだろうが、遮光カーテンで遮られたこの部屋には灯りは入ってくることが出来ない。
 高級ホテルのスイートルームは、最初のうちこそ自宅に戻るのが億劫な時に使用しているだけだったのだが、気付けば自分のもう一つの家になりつつある。既にこの部屋は自分好みにその設えを替えさせてあり、自分以外が宿泊する事はない。
 今日も個人的なハントを首尾良く終わらせたものの、戻ってくるのに予定よりも時間が掛かってしまった為に、別邸と化したホテルへと慣れた足取りで赴いた。自宅に向かっていたのでは就寝時間に間に合わないからだ。
 部屋に置かれているベッドは一つだが、代わりにサイズはどでかく、フレームは勿論マットレスもシーツも枕も使われているものは全て一級品。肌で直接触れても不快感は微塵も感じさせず、心地よい眠りへと誘うように出来ている。
 時刻は十時をとうに過ぎ、じき日が変わるだろう。このままでは肌に深刻なダメージを与える事になってしまう。普段なら何が何でも眠っている。眠る為にこのホテルへとやって来たのだし、美肌にとって質の良い睡眠は切っても切り離せない重大事項なのだ。
 それなのに眠る事が出来ない。理由は判っている。いつもはいない、イレギュラーな同衾者の存在のせいだ。
 このホテルへ誘ったのは間違いなく自分で、それは汚れに汚れた彼をそのまま帰すのは許せなかったのと、明朝の食卓を今回ハントした食材達で彩りよく美容にも良く調理する事を彼に自分が望んだからだ。それだけの理由だった。それなのにだ。
 一つのベッドで眠るその背中を見つめながら、何の冗談だろうと思った。あり得ないと思った。これはあってはならない事で起こり得るべきでない事だとただそ れだけを思ってはいた。心は頑なに拒否をしている。あり得ねーあり得ねーぞと何度も何度も繰り返すが、これが現実なのだとも思っていた。
 自分は確かに求めているのだ。だから体が動く。勝手にだ。
 獲物を捕捉すべく伸びるのは触手ではなく手だった。手は迷いなど微塵も見せることなく、導かれるように誘われるように獲物へと向かっていく。それはあまりにも当たり前に見えて、一瞬自分の行動に何の疑問も湧く事はなかったが、一瞬の後には激しい違和感ばかりが残った。
 それでも手は止まらない。寝息に合わせて上下するその小さな肩へと触れる。ビリッとした刺激が体中を駆け巡っていく。指先から全身へと伝わる電流のような甘い痺れの名前は緊張と至福だ。
(っにしてんだよ!)
 そう思う。それでも止まらない。まるで自分の体ではないようだった。意思とは違う何かが自分を動かしている。
 こんな事はあり得ない。
 このまま"何か"に支配され続けるなど真っ平御免だ。許されることではない。
 今すぐに"何か"を振り払い、"何か"を抹殺し抹消しなければ自分はもう今の自分ではいられなくなるだろう予感が背中に重くまとわりつく。そしてこの予感 は外れない。ココの占いよりも高い命中率から逃げるには、とにかく自分の意思を体に伝えなくてはならない。逃げるなんて美しくないことをしたくはないが、 ここで"何か"に捕らわれることはもっと美しくない事だ。とにかくこの状況を変えなければならない。
 これ以上触れないように。その腕に、獲物を抱き込んで離せなくなってしまう前に。
 そんな切なる願いになど気付く素振りも見せず、"何か"に支配された体は獲物の体を揺らし、引き寄せる。
 止めろ止めろ何してやがるっざけんな!声を出したつもりはなかった。しかし必死になるあまり、声は脳内だけでなく声帯を震わせて獲物の鼓膜に伝わってしまったのかもしれない。獲物は己の腕に収まる前に体をもぞもぞと億劫そうに動かして、こちらに向けていた背を寝台に押しつけた。
 同時に向けられる首。それはひどく重そうだった。深い眠りの中にいたのを無理矢理引きずり上げたのだろう。意識はほとんどないようだった。瞼も糊付けされているかのように重く開く事はなかったが、それでもその口だけは小さく蠢いた。
「サニーさん」
 小さな声だった。
 うまく呂律の回らない美しさの欠片もない声だった。
 それでもその一言で"何か"は自分を吹き飛ばし、歓喜の悲鳴を上げながら獲物をその手中へと落としたのだ。
 心の底から溢れ出る感情の嵐。汗が噴き出るのを感じる。髪は勝手にぞわりと広がり、触覚が乱れる。
 腕の中に収まってしまうほど小さなその体を抱き締めて、強く強く抱き締めて、全身が喜びに打ち震えた。
 獲物が素っ頓狂な悲鳴を上げても気にせずにただひたすら抱き込んだ。のめり込むように、触れた場所から溶け出してしまいそうな程に、求めるままに抱き締め続けた。
 自分の中の“何か”が上げた勝ち鬨に、もう抗う事は出来ないのだと震える体で思った。



「サニーさんどうしたんですか」
 腕の中で彼は随分と戸惑っているようだった。先程まであんなに重そうだった瞼はしっかりと開き、意識も眠りから覚醒へと移行している。ただ、向こうからこ ちらは見えていないだろう。それは救いだった。美しくない自分を見せる事など出来ない。絶対に見られないように、さして抵抗もせず抱き込まれたままの彼の 頭頂部に顎をすり寄せれば、彼はくすぐったそうに身を捩ったが抱き込まれているのでうまくいかなかったようだ。
「んでもねーし」
「何でもないって……ビックリして目が覚めちゃったんですけど」
「つか何あの悲鳴。も少し美しい悲鳴にしろ」
「上げさせたのはサニーさんじゃないですか! ……寒かったんですか?」
「ん……」
「暖房つけます?」
「いらね。乾燥するし」
「乾燥もお肌に良くないんですよね。フロントに言って加湿器借りてきます」
「松でいーっつってんの」
 自分の腕から逃れていこうとする体を離すまいとがっちり抱き込んで、そのまま瞼を下ろしてしまう。
 視覚情報をシャットダウンしても触覚はゆるゆると松に触れているから、僅かな身じろぎ一つ見逃しはしない。
 鼓動がいつもより早い事も、息を整えようとしている事も、顔に熱が集まっている事も(もっともそれは抱き込んでいるから熱が籠もっているだけかもしれな い)、僅かに震えている事さえも、手に取るように判る。緊張に身が固くなっているのをどうにか解してやりたかったが、自分を意識して居るが故だと思えば今 の状態もまた美しく感じ始め、そうなるともう動く事が出来なかった。
「さすがにこの状態はどうかと思うんですけど……ボク眠れませんよ」
「んなのオレもだし。こんな時間に起きてるとか信じらんねー! オレの美肌どうしてくれんの松」
「ボクのせいですかー!? 寝てたところを湯たんぽ代わりにしてきたのサニーさんじゃないですか。あ」
「あ?」
「そういえばボク小さいですけど湯たんぽ持ってますよ。お湯ならありますし使いませんか」
 それならお互い安眠出来ますよねとにこやかに言われてしまうと面白くない。面白くはないし、本当は人肌を求める程寒い訳ではないのだから湯たんぽなどいらない。“何か”の求めるまま抱き締めて、満たされて、離したくないそれだけだ。
 しかしそんな事を口に出せるわけもない。自分が“何か”に負かされてしまったなどあまりにも美しくない。
 取ってきますねと今にも懐から出て行ってしまいそうな松を抱き締める腕の力は弱めず、不審そうにこちらを窺っている気配を無視して、じっとしていた。
 真っ暗な部屋の中、シーツの中に二人で埋もれている幸福を逃したくはなかった。
「サニーさぁん」
 情けない声が聞こえてくるが、それもまた無視だ。
「となしく寝てろ。オレが良いって言ってんだからイんだよ。大体、取りに行ってる間はどーすんだ?」
「子供じゃないんですからそのぐらい我慢して下さいよ」
「我慢なんて美しくなくね?」
「我慢にも美しさはあると思いますけど」
「オレ的には美しさゼロ。判ったらさっさと寝ろ」
「だから、この状態じゃ緊張しちゃって眠れませんってば!」
「離したくないんだから無理。諦めた方がいんじゃね?」
「離したくないって……サニーさんって本当罪作りですよね。ボクはまだ男だから冗談で済みますけど、女の人にしたら洒落じゃ済みませんよ」
「は? 冗談とか冗談じゃねーし! っまえオレがどれだけ苦労したと思ってんだ?」
「苦労って何ですか意味わかりませんよもう! 離してください!」
 言うやいなや松は腕を突っ張りぐっぐっと胸に手を当てて離れようとしているが、その程度の力でどうにかなるはずもない事は判っているはずだ。美しくない逃げ方をすればいいのだ。そうすれば簡単に逃げられる。今までの自分からなら、それで間違いがない。
 そもそも今の姿だって充分美しくないはずだった。顔を歪めて、怒っているくせにどこか泣きそうなその表情はブサイクだ。なのに何故、自分はこんなにも胸が痛むのだろうか。
 拒絶されている事にだろうか。そんな表情をさせている事にだろうか。
「松……」
 名前を呼んだのは自分ではなく“何か”だった。“何か”はまた、自分の意思などどこ吹く風で勝手に体を動かしている。
「……頼むから、じっとしてろ」
 抵抗する松の肩口に顔を擦り付け、絞り出すような声はこれ以上ないほど美しくない。美しく無さ過ぎて絶望しそうだ。
 それは松も同じだったのか、抵抗する腕の力がぱたりと止んだ。
「なんでそんな、泣きそうな声するんですか」
 サニーさんらしくないですと、ボクが悪いみたいじゃないですかと、松は小声でぶちぶち言いながらもじっとしていた。
 ゆっくりと松の右腕が動いた時にはまた抵抗されるのかと警戒したが、その手はそのまま自分の背中へと回った。
 ぽんっと背中を優しく叩かれる。
 そんなたった一つの動作で、己の内を暴れ回っていた“何か”がしゅるしゅるとおさまっていく。
「松、悪ぃ」
「もういいですよ。頑張りますから、このまま寝ましょう。朝ご飯作れなくなっちゃうと困りますし」
「ん」
 松の体温を今までよりもずっと近くに感じる。緊張するのに、ひどく落ち着く。今日の自分は何て格好悪いのだろうか。
 あり得なさすぎて、いっそ夢なのではないかと疑うがこの体温まで夢だとは思いたくなかった。
 目を閉じ、触覚も引っ込めて、腕の中にある存在に全ての感覚を集中させると、これは夢ではないと実感出来る。
 背に回された手から伝わる熱が、眠気を引き連れてきていた。ようやく眠れるかもしれない。肌がボロボロになる事は否めないが、明日の朝食で取り戻せるはずだ。
 眠りに引きずられながら、“何か”が自分の中に溶けていく感覚がじわりと広がってくる。
 全く言う事を聞かない忌々しい“何か”は、間違いなく自分の一部だった。認めてしまえば何て事はない。
 これは、『本能』だ。



「おはようございます、サニーさん」
 カーテンは開け放たれ、朝日がキラキラと差し込んでいる。芳しい香りと、心がざわめく声に導かれて目を開ければ、松がベッドサイドに立っていた。
「はよ」
「朝ご飯出来ましたよ。コラーゲンとビタミンいっぱい摂れるようにしたつもりなんで、起きて食べませんか」
「ったりまえだし。寝不足の分補わねーとな」
 重い頭を持ち上げて、朝日を浴びる。
 昨夜のような獣じみた感情は収まりを見せ、今はひどく晴れやかな気持ちだった。
 気付いて、認めたのだからこれからはあんな不格好な姿は決して見せられない。昨夜の事を夢だと思っていてくれればそれが一番だが、残念ながらそうはいかないようだ。ベッドから抜け出し松の隣に立った途端に、松の頬の朱が差したからだ。
「んで照れてんだ」
「て、照れてないですよ!」
 否定はしていても瞬間的に上がった体温と、吹き出る僅かな汗からそれは一目瞭然で、隠しようもない。
 そんな松を見ているとこみ上げてくるこの感情の正体を、今は知っている。
 だから素直に思えるのだ。
 愛おしいと。
 精一杯の気持ちを込めて、松の頭を一撫でしてから洗面台へと向かう。
 足取りは軽く、自覚したばかりの恋心を如何にして美しく相手に伝えようかと考えるが、まずは最高の朝食にありつく事だ。
 全てはそれからでいい。




end
2009/05/28

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