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おとな



 コンコンと、扉をノックする音が静かな廊下に響き渡る。そして、自分の心臓の音も廊下に響き渡っているような気がして、ツナは少し気が気じゃない。
 勿論、聞こえるはずのないことは分かっている。それだけ、自分が緊張しているのだと思うと心に疑惑が浮かび上がった。
 どうして、そんなに緊張を強いられているのかということ、だ。
「どうぞー」
 甘い声が扉の向こうから聞こえてきて、ツナの心臓はドキリと一際大きく跳ねた。
 巨大マフィアのボスに就任して、この世界にもいくらか慣れ始めてきたというのに、この様はなんだ。
 弾丸の嵐も、沢山の死体も、まだ慣れてはいない。けれど、こんなに緊張はしない。
 なぜ、彼の部屋を訪ねるだけで、こんなにも……こんなにも――。
「誰?」
 いつまで経っても扉を開けようとしないツナに焦れたのか、扉が内側から開けられた。
 不意をつかれ、ツナの体がぎゅっと固まる。
 扉を開けた先には、鳶色の瞳の青年が驚いたような顔をして立っていた。
 けれどその顔はすぐににこやかな笑みに変わる。
 くすりと小さく笑ってから、彼はその整った唇を開いた。
「いらっしゃい、ツナ兄」
 大人のようなその微笑みに、ツナの心に嵐が吹き荒れた。



 促されるまま部屋に足を踏み入れ、促されるままソファに座る。
 彼のために設えた部屋は、全体的に物が少ないが、落ち着いた空間に仕上がっていた。
 彼が入居してから、ツナはこの部屋には一度も足を踏み入れたことがなかったので、仄かに漂う生活感にドギマギしてしまう。
 自分の知っていた部屋が、知らない部屋になってしまったかのようだった。
 だから、動揺しているだけだとツナは自分に言い聞かせる。
 決して、目の前に座る彼-フゥ太に対して動揺しているわけではないのだと、何度も何度も心の中で呟くが、効果があるようにはとても思えなかった。
 ツナは重い溜息をつき、仕方なく顔を上げる。
 いつまでも下を向いていたら、怪しまれてしまう。
 しかし、そんなツナの心境を知ってか知らずか、顔を上げるとそこにはじっとツナを観察する二つの瞳。
 物言わず、じっとツナの挙動を観察していたらしい。
 あの鳶色の瞳に見られていたのだと思うと、ツナの体に電気のようなものが駆け抜ける。
 恥ずかしくて、今すぐこの部屋を飛び出したくなるのをグッと堪えるも、フゥ太の視線からは逃れられない。
「どうかしたの? 顔、赤いね」
 そう指摘され、ツナの頬に余計に朱が走る。
 その様を見て、フゥ太は笑った。
「おかしなツナ兄。今、お茶をいれるよ」
 くすくす笑ったまま立ち上がり、フゥ太は隅に置いてある電気ポットの方へと向かった。
「今インスタントコーヒーしかないんだ、いいよね?」
「ああ」
 もともとリボーンの様に味の分かる男でもないので、インスタントだろうが挽き立てだろうがツナには大した問題はない。
 だからか、自分の声が上擦っていやしないか、ツナの心配はそちらに向かってしまう。
 声を出すのが億劫だった。自分の動揺を、きっとあの青年は分かっているはずだ。
 それがまた、ツナをいたたまれない気持ちにさせる。
「本当に、風邪でもひいたの? 顔は赤いし、なんだか体調悪そうだね。医者に診せた方がいいよ、ツナ兄」
 そうして、フゥ太は両手にコーヒーカップを持ちながら当たり前のようにツナの横に腰を下ろした。
 いくら二人掛けのソファとは言え、ツナの正面にも同じようなソファは設えられており、実際先程までフゥ太はそちらに座っていたのだ。
「なん、で」
「ん?」
「わざわざ隣に座らなくてもいいだろ!」
「ここは僕の部屋で、これは僕のソファだし、僕はツナ兄の部下じゃないよ」
 だからどこに座ろうと、僕の自由でしょうとフゥ太は悪びれもせずに笑った。
 ガラステーブルの上に乗せられたコーヒーカップの中では、静かにコーヒーが揺れている。
「じゃあオレがあっちに座るよ」
 立ち上がろうとしたツナの腕を掴む、力強い手。
 細いくせに、その腕には予想以上に力が詰まっているのだ。それは、この家に彼を呼ぶ前に十分知ったはずなのに。
 また笑っているのだろうかとフゥ太の顔を見れば、そこには予想外の真剣な表情。
「どうして」
「どうしてって……そりゃ男同士でこんな密着して座ることないだろ、狭いし」
 あまりに真剣な目でフゥ太が見つめてくるものだから、ツナは太刀打ちが出来ない。
 言い訳も精彩に欠け、心なしか言葉は揺れている。
「僕はツナ兄の隣に座りたかったんだよ。ツナ兄の側に、いたいんだよ」
 鳶色の瞳は、真っ直ぐ、ツナに向けられている。
「ねぇツナ兄」
「なんだ」
 ツナの口の中はカラカラだった。コーヒーは未だ波を立て続けていて、ほんのり湯気が立ち上っていた。一気飲みは、出来そうもない。
「僕がツナ兄の屋敷に来てから、初めて訪ねてきてくれたね。僕はね、とても嬉しかったんだよ。扉を開けたらツナ兄が赤い顔して立っているなんて、思いもしなかったから。だけど、前にも言ったよね」
「何をだよ」
 一拍置いて、フゥ太はソファから立ち上がる。
 立たれてしまうと、フゥ太はツナよりも頭一つ分は大きい為に、圧迫感が急に増したようにツナには思えてならなかった。
「ボスはもっと堂々としていなくちゃいけないって。ましてや僕はただの情報屋だもの。そんな僕に、そんな顔を晒すなんて、やっぱりツナ兄はボスとしての自覚が足りないよ」
 顔が、ずいっと近付く。
 鳶色の瞳が、間近にあるのだと思うと、ツナの体はもう動かすことが出来ない。
「それとも」
 鼻の頭同士がくっつきそうな程に近い距離で、フゥ太は囁く。
 その声は、やはり、ひどく甘い。
 ツナの体に、再び電気が走る。
「僕のこと、意識しているの?」
 鳶色の瞳は細められ、そのまま当たり前のように唇は重なった。
 薄い唇は、思いの外温かく、柔らかだった。
 そっと離れていくその温もりを、ツナはどこかで惜しいと感じている。
 そんな自分に気づき、ツナは羞恥でいっぱいになってしまう。そして、自分がどんな顔をして、彼の前に立っているのか意識出来なくなってしまった。
 フゥ太は、ツナの真っ赤に染まり惚けたような表情を目にして、それからそっと、言葉を流し込んだ。
「また、痛い目見たいんだね」
 ずっと子どもだと思っていたこの青年は、やっぱりどこをどう見ても大人の男で、そうしてそんな大人の男の前で、ツナは子どものようになってしまう。
 いつの間に、立場は逆転してしまったのか。
 それは、三年ぶりの邂逅の時に、もう決まってしまっていたのかも知れない。
 あの時あれだけフゥ太の変化に戸惑いながらも、心の底で彼を意識してしまったこと。あの後の彼の腕の中の心地よさが忘れられなかったこと。
 そんな感情から、今日まで逃げていたこと。そうして、今彼の言う通り彼を意識してやまないこと。
 全て認めてしまうしかない。
「フゥ太、オレは……」
 なあにと、フゥ太は笑う。
 彼の瞳の中で、星が輝いたような気がして、ツナはその目から視線を離せなくなった。
 ツナは今、フゥ太に囚われている。
 そうして、これからも、きっと囚われ続ける。
 コーヒーはまだ、揺れ続けていた。




end
2005.09.18
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