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前夜



 少しでも、僕の事を想っていて。



 深夜一時を過ぎた頃、こそこそと少年が闇の中を歩き回っていた。
 閑静な住宅街において、その姿は異質としか言いようがない。
 大人が通りかかれば面倒な事になる事を十分に承知していた少年は、周りの気配に気を遣いながら歩いている。
 誰かを見かければ、その小さな体を生かしていくらでも隠れることが出来た。
 こんな住宅街にこそ、闇は多いのだ。
 けれどそんな心配をしなくても、少年はそのまま誰にも邪魔されることなく目的地に到達する。
 さすがに深夜一時に出歩く人はいないらしい。この時間にして良かったと思いながら、少年は顔を上げた。
 目の前には、ごくごく普通の二階建ての一軒家。
 この家を目にしたのは一体どれぐらいぶりか。
 少年は胸にあたたかなものが溢れてくるのを感じた。
「ただいま……」
 表札にこつんとその丸い頭を当てて、そっと目を閉じた。
 周りの空気はじっとりと体にまとわりつくようなのに、表札だけがひんやりと冷たくて、心地良い。
 頭を表札から離して、小さな細い指先で表札の文字をなぞった。
「沢田」
 声に出すと、この家で過ごした日々が思い起こされ、ぎゅっと胸が詰まる。
 ここは、この家は、本当に温かかったのだ。追われるだけの生活をずっと強いられてきた少年にとって、この家は宝物だった。
 少年以外にも本当の家族でない子供たちがこの家には居着いていて、毎日ぎゃーぎゃー騒がしくて、本当に良い家だった。
 この家の母親は、いつもニコニコ笑っていて、優しかった。
『あら、みんなうちの子だもの』
 そう言って、皆の頭を撫でて、抱き締めて、愛情を注いでくれた。
 この家の本当の子どもである彼は、子供たちのケンカの仲裁をしたり、一緒になって遊んだり、何だかんだで構ってくれた。
『ったくー、しょうがないなー!』
 そんな風に言いながらも、側に寄っても怒らず、かと言って少年に備わっている特別な力を無理矢理使わせたり、悪用したりすることも無い。
 少年は自分が普通の子どもになったようで、本当に嬉しかったのだ。
 この家は特別だ。この家に集う全ての人が、少年にとって特別だ。
 そして、今後この特別な空間に足を踏み入れることは出来ないだろう。
 今日が、最後だと少年は決めていた。
 少年はぎゅっと拳を握りしめ、音を立てないように慎重に合い鍵でドアを開けた。
 この鍵も、この家を出る時に置いていこうと思った。
 自分が持っていていいものではない。
 少年はゆっくりとドアを開ける。見慣れた玄関を通り抜け、足音を忍ばせて階段を上がる。きっと、この家に住まう史上最強の殺し屋には既に気付かれているだろう。
 それでも、少年は歩みを止めない。
 階段を上がりきり、これまた見慣れたドアの前に立つ。
 ドアノブに触れるまで、きっかり一分の時間を費やしてしまった。緊張しているのだ。
 がちゃりと、ドアを開ける。
 常夜灯の薄暗い橙の灯りが、ぼんやりと部屋を照らしていた。
 真っ暗だと眠れないのだと、この部屋の主が言っていた事を思い出し、少年の顔にほんの少し笑顔が灯る。
 視線を部屋に吊られているハンモックに移すと、殺し屋はこちらに背を向けて眠っていた。本当に眠っているわけではないのだろう。
 彼はきっと、自分に時間をくれているのだ。少年はそう確信している。
 だから、少年はその猶予を一分たりとも無駄にする気はなかった。
 そっと、狭いベッドに近付く。
「ツナ兄……ただいま」
 呟く声は、思っていたよりずっと弱々しい。
 名前を呼ばれた当人は、すやすやと気持ちよさそうに眠っている。
 彼と二人だけで、このベッドで眠ったこともあった。この家の子供ら全員で、この狭い狭いベッドでギュウギュウ詰めになって眠ったこともあった。
 思い出せるのは温かな記憶だけで、少年は泣きたくなる。
 これから自分が何をしようとしているのか考えると、怖くてたまらない。このまま泣いて彼に縋りたくなってしまう。
「ツナ兄」
 ベッドの上で眠る彼の手が、ベッドからだらんとはみ出していた。
 その手をそっと掴んで、少年は己の額に押し当てた。
 手は、あたたかだった。
「ツナ兄、ツナ兄」
 泣きそうな声を出している事は、少年自身理解していた。けれど、何がこんなにも己の心を乱すのかは分からない。
 このあたたかな手が、己を見ないその閉じられた瞳が、少年の心を掻き乱すのだろうか。
「ツナ兄、大好きだよ」
 少年の小さく薄い唇が、言葉を紡ぐ。
 彼のあたたかな手を空中で固定して、少年はそっと指先に唇を落とした。
 指先まであたたかいのだと実感すると、もう泣かずにはいられなかった。
 自分を撫でてくれていたこの手に、もう触れる事が出来なくなるかも知れない。
 少年は非力で、あまりにも非力で、他人を頼らねば何も出来ない。
 けれど今回の事だけは、自分でけりをつけねばならない。自分の力で、どうにかするしかないのだ。どれだけの恐怖が待ち受けていようとも。
 少年は彼の手を解放し、ベッドの上に乗せてやる。
 彼の顔をその網膜に焼き付けて、幸せそうなその寝顔を消せなくなるぐらいに焼き付けて、少年は立ち上がった。
 ベッドに背を向け、殺し屋にぺこりと頭を下げて、彼の机の上に首から下げていた合い鍵を乗せる。
 この合い鍵は、この家の母親からもらったものだけれど、彼に返したかった。
 そうしていつか、またこの家に戻ってくることがあるならば、彼に渡して欲しかった。
 少年は部屋を出る。
「行ってきます、ツナ兄」
 階段を下りて、家を出る。合い鍵は置いてきてしまったから、鍵はもうかけられない。
 少年は最後にもう一度家を見上げ、表札に触れて、それから転げるように走り去った。
 手に、抱えきれないほど大きな一冊の本を持って。
 少年の孤独な、闘いが静かに始まった。



 不正に流出してしまったデータの回収。それが、少年の闘い。
 あのデータを回収しなければ、この家に、彼に、迷惑がかかるに違いないのだ。
 非力な少年が、力を持つ者に対抗することは、命にかかわる。
 それでも、少年は自分でやり遂げると決めてしまった。そして、決めてしまったからには、実行するしかない。
 少年の走る道の先は、ただ暗かった。



end
2005.09.14
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