千貫さんと葉佩くんの話
五限目も終了した教室内で、九龍は一人机に頭を直接のせて項垂れていた。
「はぁー」
周りの喧噪に紛れながら重い溜息を一つ吐いて、視線を手の方へと向ける。
硝煙の匂いが染みついた手の中には一枚の写真。
探偵を使ってカメラを手に入れ、本人の承諾を得て撮影した後、再び探偵を使って現像した後ろ暗い所などどこにもない、思い人の写真だ。
写真の中では思い人がいつものようにこちらへ微笑みを向けてくれている。
風呂に入る時以外は、常に持ち歩くほど大事にしている写真だというのに、今はなぜだかあまり見ていたくなかった。
もう一度溜息を吐いて、九龍は写真の人の事を思う。
会いたい。
昨晩会ったばかりだ。ほとんど毎日会いに行っている。それでも、会いたいと思った。
(どんだけ飢えてんだよ……)
ほとんど毎日会いに行ってはいるものの、迷惑をかけたくはないので長居はしない。
本当はもっと一緒にいたいと思ってはいても、鬱陶しく思われては元も子もない。
それに、自分にはやらなくてはならない事もある。プロとして本業を疎かにするわけにはいかない。
これ以上写真を眺めていても虚しくなるだけだと、九龍は丁寧に懐へ写真をしまった。
自分がこんな風にじめじめした気持ちを抱く事になるとは思いもしなかった。
人を好きになるという事は、もっと幸せで楽しい事だと思っていたし、実際今まではそうだった。いつだって笑顔でいられた気がする。
だと言うのに、どうして今回だけはこんな気持ちになるのか。この想いは間違っていたのだろうか。
更にじめじめとしそうな事をつらつら考え続ける。マイナス思考に歯止めは掛からず、放っておけばそのままどこまでも沈み込んでいきそうだった。
上から声が降ってきたのは、その時だ。
「九チャン? どうしたのー?」
ずるずると重い気持ちを引きずったまま、ゆっくりと視線を向けると八千穂が心配そうに覗き込んでいた。
彼女まで心配させるとは、つくづくどうしようもない。
食べる?と差し出された飴玉にずるずると手を伸ばして受け取る。
ころんとした飴玉の包みにはミルク味の文字が見え、同時に浮かんでくるのは先程まで考え続けていた思い人の事だ。
「千貫さん不足で死にそう」
ここで取り繕ったところで意味はなく、素直に自分の状況を一言で告げれば、彼女は困ったような顔をした。
「ケンカとかしちゃったの」
「それはない。俺が、千貫さんに迷惑かけたくないだけなんだ」
「迷惑?」
「ん。時間が短いとはいえ毎日のように会ってるのに、これ以上会いたいっていうか独占したいなんて、迷惑以外の何物でもない」
口を開くたびに、憂鬱になっていきそうだった。
こんなのは自分らしくないと思うのに、思うようにいかない。
出来る事なら浮かれていたかったし、思うだけで温かい気持ちになりたかった。
少し前まではそうだったのに、最近はそれが出来なくなってしまい、歯痒い。
「それに、千貫さんって忙しいだろ。阿門の家の執事だし、バーもやってるし、マミーズの手伝いまでしてる。邪魔したくないんだよなー。嫌われたら、怖い」
最後は語尾が消えそうだった。嫌われるなんて考えただけで絶望だ。
想像だけで頭を抱えそうになったが、ぽかりと頭を叩かれて嫌な想像から解放される。
嫌な想像から救ってくれた八千穂を見れば、彼女は怒っているようだった。
「もう! なんか九チャンらしくないよ!」
眉をつり上げ、彼女は真っ直ぐに九龍の目を見てきた。聞き分けのない子供を諭す母親のような目だと、九龍は思った。
「会いに来るなって言われたわけじゃないんでしょ」
「そんな事言われたら俺、死んでるかもしれない」
「なのに何で遠慮しちゃうのかなあ。誰にでも遠慮無くガンガン行くのが九チャンじゃない」
「……俺ってそんなに無遠慮な人間だったっけ」
「そうだよ! だから、行きなよ」
八千穂の声は力強く、九龍の心に発破をかける。
心も体もだれきっていた九龍が、思わず顔を上げてしまう程にだ。
「もし千貫さんが九チャンに会いたくないなら、そう言ってくれるよ。迷惑だって思ってたら、そう言ってくれるよ。あたしにだって、それぐらい分かる」
彼女の瞳は真剣そのもので、その瞳を見ているだけで鬱々とした気持ちが流れ去ってしまうような気がした。
「行こう、九チャン!」
だから、彼女のその一言で踏ん切りがついてしまった。
イスを蹴倒す勢いで立ち上がり、九龍は教室のドアへと向かった。
「行ってくる! ありがと、やっちー!」
廊下へと出る直前に振り返れば、八千穂はいってらっしゃいと手を振っていた。
良い友人を持てたことに感謝しながら、九龍は飴玉一つ握りしめ、人で溢れる校内を全力で疾走する。
階段を一段ずつ降りるなんてまどろっこしい事が出来るわけもなく、踊り場から踊り場へ軽く跳んでいく。
移動教室の群れを掻き分け、靴を履き替える時間すら惜しいがために上履きのまま昇降口を駆け抜けた。
上履きなんてあとで洗えばいい。
今はとにかく彼に会いたかった。
会いたいと、会ってもいいのだと思ったら、もう我慢なんて出来ない。
始業を知らせるチャイムを聞きながら、スピードを緩めることなく九龍はまっすぐバーへと向かう。目的地が視界に入ってくれば気持ちは更に逸るが、足の方はこれ以上早くはならない事がもどかしい。
逸る気持ちをどうにか抑えながらバーの扉に手をかけるが、鍵がかかっている為いつものように自分を迎え入れてくれる事はなかった。
どうやらここにはいないらしい。そうなると、探す場所はあと二つ。
とりあえず目と鼻の先であるマミーズへと、九龍は体を翻した。
地面を蹴れば、上履きが土埃をあげて九龍を前へと押し出す。
飛び込むようにマミーズへ足を踏み入れると、いつもの声が投げかけられた。
「いらっしゃいませ、マミーズへようこそー! 九龍くんお一人ですかぁ? っていうかまだ授業中なんじゃ」
「ごめん、奈々子ちゃん、千貫さん、いるかな」
「いますけど、大丈夫ですか?」
「うん、俺は、大丈夫だから、悪いけど、呼んでもらっても、いい?」
息も絶え絶えに尋ねれば、わかりましたーの軽い声と共に、奈々子はキッチンへと消えていく。
九龍はこの間に息を整えるべく、深呼吸を繰り返した。
吸って、吐いて、吸って、吐いて。
彼にはこんな格好悪いところを見せたくはなかった。
自分の行動を考えれば、既に格好悪い事この上ないがそれでも彼の前ではなかったので良しとする。
吸って吐いてを繰り返し、これを最後の一呼吸にしようとしたところで、キッチンから白髪が覗いた。
途端に高鳴るこの心臓を、どうにかして欲しいと九龍は心から思う。
いつでも冷静でいなければならないトレジャーハンターがこんな事で一体どうするのだ。
「お呼びですか、九龍さん」
落ち着いた物腰、落ち着いた声。自分の体に幸福として染み込んでくる。
姿を見るだけで、こんなにも満たされる。
写真だけではやはり足りない。自分には本物の彼が必要なのだ。
彼を思うことは間違ってはいないと思える。彼を好きなのだと思う気持ちを止める事も出来ないのだと、実感する。
迷惑でも何でも、好きなのだ。
「千貫さん……」
「貴方がそこまで慌てるような事でもありましたかな」
こんな時間に、上履きのまま走ってきた自分をいつもの微笑で迎えてくれることが嬉しくて、幸せで、心が温かい。
会えた事が、言葉をかけられた事が、こんなにも嬉しい。
昨晩だって会ったのに、こんなにも焦がれていた。
「千貫さんに会いたかっただけです」
「さて、今日はあと六時限目を残すだけでしょう。それすらも我慢出来ませんでしたか」
「すいません、出来ませんでした。一刻も早く千貫さんに会って、名前を呼んで欲しかった」
素直に告げれば、彼にしては珍しく少しだけ目を丸くしたようだったが、すぐにいつもの微笑に掻き消された。
「また随分と可愛らしい事を仰る」
「すいません」
「では、もう用件はお済みですね。とりあえず授業に戻られてはいかがですか」
すっと、彼の表情が冷えるのを感じ取った。
非常識なことをしていると自覚はあった。迷惑をかけている事にも自覚はあった。
それでも会いに来るのを止められなかったのは、八千穂の発破のせいではなく、何よりも自分が彼に会いたいと願ったからだ。
そして、分かっていて、会う事を選択した。
だから彼の声音が少し厳しくともきちんと受け止めなくてはならない。
「ご迷惑をおかけしてすいませんでした。もう戻ります。でも一つだけ」
「はい、何でしょう」
「俺は自分勝手なんで、千貫さんに迷惑をかけると分かっていても、会いたかったです。反省はしますけど、後悔はしません」
声が震えそうだったが、自業自得だ。自分は本当にどうしようもない。
だが、言いたい事は言ったと思う。
会いたかったのだ。会いたかったのだ。ただただ会いたかったのだ。
今回の仕事が終われば、自分はこの場所から去らなくてはならない。だから少しでも多く、会っておきたかったのだ。
自分勝手な願いだけれど、会いに来た事を後悔はしない。それで嫌われてもだ。
とは言え、目の前でふぅと息を吐かれて、少しだけ心がざわめいてしまうのはもう自然現象のようなものなので、諦めるしかない。
ここで嫌われて平気でいられる程、頑丈な心は持ち合わせていないのだ。
「仕方のないお方だ。そうですね、エスケープは推奨致しかねますが、放課後ならいくらでもお付き合いしますよ。ホームルームが終わりましたら、私はバーにおりますのでそちらにいらして下さい。貴方のために、開けておきます」
叱責を、最悪嫌われるかもしれない事を想像していた九龍に向けられたのは、予想外の言葉だった。
「は、え?」
「わざわざご足労頂き、ありがとうございました。それを嬉しいと思いこそすれ、迷惑とは思っておりませんのでご安心を」
言葉は耳から脳へと伝わっているのに、脳はそれを理解する事が出来ず、ただ彼の言葉を聞いているしか出来ない。
間抜け顔でぽかんとしている九龍に向かって、老いて尚鋭い手が伸ばされる。
「フフ、貴方は些か真っ直ぐすぎてこちらとしては照れてしまいますが、私は貴方のそういう所を好ましいとね、思っておりますよ」
伸びてきた右手は九龍の髪をくしゃりと撫でて、また戻っていく。
自分の髪がもっと長ければ、もっと触ってもらえていただろうかと自分でも訳の分からないことを考えてしまう。
それ程に、与えられた言葉たちの威力はもの凄かったのだ。
かけられた言葉をじんわりと脳が理解していくにつれ、顔が真っ赤になっていく自覚はあった。耳まで熱く呼吸もまともに出来ない。
「放課後、お待ちしております」
最後に最高の微笑みをつけてそう言われては、九龍に断れるはずもない。
わき上がるこの気持ちを、どうしたら彼に伝えられるだろう。こんなにも、こんなにも激しい気持ちにさせるなんて、罪作りにも程がある。
九龍はギュッと己の手を握り混むと、一歩彼に近付く。
彼の手に握っていた飴玉を滑り込ませ、必死の思いで彼の頬へと口付けた。
自分が今どんな気持ちか、少しでも伝わればいい。
少し乾燥した肌は、冷たくて気持ちが良かった。
「また、後で!」
手だけでじゃあと格好良くポーズを決めるが、真っ赤になった顔で格好付けたところで、ちっとも効果はないだろう。
それでも余裕があるように見せたい男心だ。
九龍はそのまま振り返ることなく、校舎へと向かって走り出す。
この後会いに行かなければならないのに、まともに顔を見る事も出来ないかもしれない!
そう思いはしても、キスした事を後悔はしない。
冗談ではないのだ。
本気なのだと、少しは伝わっただろうか。
顔の火照りが一刻も早く引く事を願いつつ、彼と過ごせる放課後を待ちわびる。
まずは上履きを洗う事から始めようと、九龍は昇降口へと足を踏み入れた。
今日最後の授業は、まだまだ終わりそうにない。
end
<2009.05.11>
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