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hold hands



 土方が再びその部屋を訪れた時、部屋に放置していた人物はすやすやと寝息を立てていた。
 壁にもたれ掛かって、首をだらんと前に垂らしている。
 その姿勢は些か苦しそうで、目覚めた時首が痛むだろう事は容易に想像することが出来た。
 眼鏡の奥で閉じられた瞼。よく見れば、眉間には皺が刻まれている。
 そんな顔をするぐらいなら寝なければいいだろうがと思いながら、土方は煙草を銜え、音を立てることもせずじっと新八を見下ろした。
 仕事を早めに切り上げて、放置していた新八を回収しに来たはずだというのに、どうもこの時の土方に彼を起こすという選択肢は浮かんではいなかったようだ。
 ただ、鋭い眼光で、新八を睨め付けている。
 視線は少年の頭のてっぺんから、徐々に下へと移動していく。丸い頭、少しずれた眼鏡、時々開いては閉じる唇、首、そこから続く鎖骨。
 なだらかな肩のラインから伸びる腕は、真っ直ぐに畳へと下ろされている。
 手の甲が畳に触れていて、指は微かに開かれている。握り拳でも作りながら眠りについたのだろうかと考えて、どーでもいいことじゃねェかと頭を振った。
 そのまま視線も別のところへ向けるつもりだったのだが、何故か新八の手に真っ直ぐ注がれたままだった。
 よく見れば、指にはタコがついている。これでも道場の主なのだから、それも当然だ。
 もっとも、道場の構成員はこの少年と、そして姉の妙だけであるから道場として成り立っているのかどうかは甚だ疑問ではある。
 土方はどかりと腰を下ろした。
 目の前の少年は、相変わらず寝息を立てている。無防備にも程がある。今なら簡単に、こいつを殺すことだって出来てしまうだろう。
 勿論、そんな事をするつもりは全くないし、理由もない。
 頭痛の種である万事屋の一員という事を除けば、どうという事もないただのメガネ小僧だ。
 ただ、時々良い瞳をすることはある。
 その瞳を見たのがいつかなんて事は覚えていない。もしかしたら、蝮の一件の時だったかもしれない。あの野郎の為に蝮たちの前に毅然と立ちはだかる、メガネとチャイナの姿が、ぼんやりと浮かんでくる。
 とは言え、ぼんやりとしか浮かんでは来なかった。
 それでも、真横に立っていた新八の、その眼鏡の奥で真っ直ぐ光るその瞳だけは、しっかりと覚えている。
 灼きついてしまったのかもしれない。
 あの時こいつの手には、何が握られていただろう。
 そうして、視線はまた新八の手へと注がれた。
 彼は起きる気配を見せなかったので、土方は新八の正面から右隣へと己の体を移動させる。
 どっかりと座り込むと、目測を誤ったせいか手が触れた。
 この手には、今までにも何度か触れたことがある。土方にしてみれば小さな手は、そう言えばいつも少し汗ばんでいた。
 それを不快だと思ったことはない。しっとり柔らかく、けれど骨張っている手は心地良かった。
「……バカか」
 自分の迷走し出す思考を、土方は振り払う。馬鹿な事を考えてねェで、さっさとこいつを起こしてしまえばいい。
 そうすれば、こんな風にまじまじと新八を見詰めることもないし思考が飛んでいってしまうこともない。この忌々しい気持ちにさせるこいつをさっさと追い出そう。
 土方はそう思いながら、左手を動かした。
 ぎゅっと間近にあった新八の手を強い力で握りしめる。
「いたっ!」
 突然の刺激に、新八は勢いよく目を開いた。
 その後暫く視線を上へ向けたかと思うと、辺りをきょろきょろと見回し始める。
 そうしてようやく、隣に座っている土方と新八の目があった。
「え? え?」
 土方の顔と、自分の右手を何度も見ながら新八は軽くパニックを起こしていた。判りやすい顔にはしっかりと『何コレ、何コレェェ!? 一体どーなってんのぉぉぉ』と書かれていて、土方は少しだけ口の端を歪めた。
 自分をおかしな思考へと導いた罰だと、土方は実に勝手なことを思う。
 土方は新八の手を握りしめたまま、徐に立ち上がる。
 引っ張られた新八の体勢が崩れ、彼は横座りになった。
「あ? 何やってんだ。早く立て」
「アンタが引っ張ったんでしょーが! 立てって言うなら離してくださいよ」
 ごく当たり前の新八の言い分をもっともだと思える自分もいるのに、土方は自分から新八の手を離すことが出来なかった。
「土方さん?」
 新八が不思議そうな顔で土方を見てくる。新八は視線を繋がれた手に注いで、それから何かを思い出したのか、あっと声を上げた。
「あの、左手、どうかしたんですか」
 新八の言葉に、ドクッと土方の体内で血が大きく流れる。
「何がだ」
 けれどそれを新八に悟られないよう、土方はいささかぶっきらぼうに返した。
「今もですけど、今日ずっと気にしてるみたいでしたから、怪我でもしてんのかと思って」
 怪我をしているわけではない。痛みがあるだとか、痺れがあるだとか、違和感があるだとかという事は一切ない。と考えたところで、止まる。
 違和感は存在しているからだ。左手に残る、何らかの違和感。しかしそれは、精神的なものだ。身体的な異常は何一つ無い。
 だから、心配を含んだ表情をするなと、新八を見つめながら土方は思う。
「お前には関係のねー話だ」
 突き放すように言葉が滑り落ちる。関係なくないと、土方自身は誰よりも知っている。左手の違和感の原因は、誰あろう新八なのだから。
 しかしそれを悟られる訳にはいかない。左手を気にしている事自体、知られるべきではなかった。
 油断していたのか、それ程までに彼に気を取られていたのか……土方は情けねぇと心の中で吐き捨てる。
 これが真選組副長の姿だなんて、笑わせる。ガキ一人に振り回されて、おかしいったらない。
「か、関係ないかどうかなんて、それこそ関係のない話ですよ! 怪我人なら怪我人らしくして下さいって言ってるんです!」
 ぐいっと、繋いだままの手が引っ張られた。座り込んだままの新八が、土方の左手を引き寄せたのだ。
「あ、すみません。つい……。痛かったですか?」
 土方は表情など変えてはいないし、痛いとも何とも言っていないにも関わらず、新八はさっと顔を少し青くさせた。怪我をしているかもしれない左手を無理矢理引っ張ってしまった事を、迂闊だったと後悔しているらしい。
「痛かねェよ。痛みなんてねーんだ。だから気にするな。お陰様で五体満足だぜ」
「そんな事言われても、気になるもんはなるんです。土方さんって、見るからにやせ我慢しそうじゃないですかっ!」
「チッ……わからねーガキだな。怪我なんてねェって言ってるだろうが! 大体テメエが」
「僕が……?」
 きょとんと音がしそうな程目を丸くした新八に、土方はしまったと口を押さえるがもう遅い。
 新八の表情がみるみるうちに強張っていくのが面白いぐらい見て取れた。
 土方の左手に新八の力が込められる。汗ばんだ手の感触は、なま暖かい。どちらの手が汗ばんでいるのか、土方には判断がつけられなかった。
 新八に負けじと、土方も力を込める。簡単に握り込めるこの手が、ずっとずっと頭の片隅にちらついていた。
 思い起こせばそれは、車の中で夜を明かしたあの日からずっとだ。
 ずっと、この手を気にしていた。
「僕が、何かしたんでしょうか」
「…………いや。言葉のあやだ」
「アンタの嘘ぐらい、僕にだって判るンですよ、土方さん」
 強張った表情のまま、新八は真っ直ぐに土方を見つめてきた。眼鏡の奥のその瞳は、いつかのように光っている。蝮相手にではなく、土方に向かって。
「嘘じゃ、ねェ……。これは、俺の問題だ。お前は、関係ないんだよ」
「そんな顔で言われても、説得力なんかありませんよ! こうなったら、納得のいく理由を聞かせてもらうまでは動きません!」
 新八は、バカで、頑固だ。土方は思う。
 これでは、厄介ごとに自分から首を突っ込んでいるようなものではないか。
 後々、知らなければ良かったと後悔するに決まっているのだ。ならば、自分の名誉のためにも最初から知らぬ方がいい。ずっといい。
 そんな土方の思惑を、新八は少しも汲もうとはしない。
 頑なに、土方を視線で促す。自分の眼力がいかに有効であるか判っているかのように。
 左手を通して、新八の声すら聞こえてくるようだ。その聞こえもしないはずの声に押され、土方は瞳孔を少し開いてしまった。
「知らなきゃ良かったって、後悔する羽目になるぜ」
 うめくように、土方は新八へ言葉を向けた。新八の耳に、それが正しく届いたかどうかは定かではない。
 土方は力の込められた左手を軸に、膝を畳についた。そのまま左手を先程の新八のように引き寄せ、新八の体ごと抱き竦める。
 幼い体が、胸に納まった。左手は繋いだまま、右手で新八の背中を固定すれば拘束のできあがりだ。
 左手から、ドクドクと心音が伝わってくる。
「なっ、何……!?」
「だから言ったろうが、後悔するってな」
「訳が判りませんよ! 一体なんなんですか! からかうにしても、もうちょっとあるでしょうが」
「悪いが大真面目だ。なあ 教えてやるよ。左手はな、お前の右手が気になってしょうがねぇ。それだけの事なんだよ」
「は? 右手?」
 本当に判っていないのだろう。不可解そうな声が、真下から聞こえてくる。
 そして、そんな新八をこのまま抱き締めたくて仕方がなかった。かわりに、左手の指先を動かした。新八の手の感触を確かめるように、それは揉むように蠢く。
 この手が、気になって仕方なかったのだ。
 何がこんなにも惹き付けるのか、土方は自分でもよく判っていない。
 ただ、この手を握っていると体の中に温かな血が流れるのを感じるのだ。
 それが、忘れられない。
「土方さん……アンタ本当に訳が判りませんよ」
 溜息のような呟きは、間近にいるおかげでハッキリと聞き取れる。新八の声は、何かを諦めたような色を含んでいた。
「奇遇だな、俺もだ」
 皮肉そうに笑って、土方は新八の首筋に顔を埋める。
 蠢く左手を握りかえしてくる新八の右手は優しく温かく、これ以上ないほどに離しがたいものだった。



end
<2007.01.26>
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