<戻る



waiting



 新八と神楽の二人が歌舞伎町内でガラの悪いちんぴら共と喧嘩をしていたら、運悪く真選組に(しかも鬼の副長に)見つかり、結果――新八は真選組屯所まで連行された。
 相手の大半をノックダウンさせたのは、当然ながら神楽だ。
 新八はほとんど何もしていないと言っていいだろう。
 それでも、一人だけ手を出してしまったから結局は同罪かなと新八はそっと考えた。
 そう言えば、神楽ちゃんは無事に万事屋に帰れただろうか。買い物袋をぶんぶん振り回したりしてはいないだろうかと、少し心配になる。
 袋の中には、安売りされていた卵が入っているのだ。卵の値段が高騰して久しい中、地獄のような争奪戦を勝ち抜き、手に入れた貴重な安売り卵。
 尖っている方を下にして、冷蔵庫にしまってくれただろうか。
 思考は喧嘩の事から卵へと移り、どうにも信用できない二人の顔を思い浮かべる。
 溜息が零れた。
「溜息つきてーのはこっちだ」
 その声に、ハッと新八は顔を上げる。
 目の前では、眼光鋭いマヨラーが書類らしき紙を片手に立っていた。
 真選組屯所に着くまでは着ていた上着は脱ぎ捨てたのか、白いシャツと黒いベスト姿だった。白いスカーフは、今も首周りに鎮座している。
 鬼の副長は煙草を銜え、イライラしたような表情でどっかりと新八の正面に座った。
 この様子だと、どうやら副長自ら(しかも一人で)調書を取るらしい。一体真選組は忙しいのか暇なのか、判断しかねた。
 鬼の副長こと土方は、短くなった煙草を慣れた手つきで卓の上の灰皿に押しつけた。
 煙草が男の口元から灰皿へと移動したためか、紫煙がぶわりと新八の顔を襲う。煙なので避けるのも難しく、少し吸ってしまった。
 煙たさと苦さに、眉が顰められる。
 普段周りで煙草を吸う人物はせいぜいお登勢さんぐらいのものなので、新八にとって煙草はあまり馴染みの深いものではない。
 煙草が甘かったら、きっとうちの上司もこうして吸っていただろうなと、どうでもいいことが頭を過ぎったが、すぐに思考の波に呑まれていく。
「ちっ、面倒くせぇな」
 土方は卓の上に調書を広げ、ペンを持つとそう吐き捨てた。
 本当に面倒そうに吐き捨てるものだから、少しだけカチンときた。
「こっちだって面倒ですよ。さっさ始めたらどうです?」
 新八にしてみれば、食事の時間を割いてまでこうして屯所についてきたのだ。本来ならトンズラしたいところを、わざわざだ。
 そこにあの態度では、こちらの態度が多少悪くても仕方ないと言えるだろう。
 屯所までの車の中での土方は、新八から見た限りそう機嫌が悪そうでも態度が悪いわけでもなかった。
 むしろ、ぶっきらぼうなだけの良い人なんじゃないかとさえ思った程だ。
 ところがこの変わりようはなんだろう。自分のテリトリーに戻ってきた事で、態度が更にでかくなっただけだろうか。
 そんな新八の考えを余所に、土方は新たに煙草を取り出し火をつけると、最初の一息をフッと新八に向けて吐いた。
 嫌がらせだ。
「言われなくたってやるに決まってんだろうが。名前、年齢、生年月日と住所、電話番号を言え」
「えーっと、志村新八、十六歳……」
 ごく事務的な質問に、新八もまた事務的に答えていった。
 それを紙に書き込む土方の様子を、新八は見詰める。普段剣を握っているその右手がペンを持ち、新八の名をガリガリと強めの筆圧で綴っていく。
 単純な名前だからだろうか、漢字が間違われる事はなかった。
 ただそれだけの事を、ほんの少し嬉しく思うのはどうもおかしい気がしたが、名前自体を間違われる事の多い新八にとっては嬉しいことに違いない。
 さっきの小さな嫌がらせは、水に流すことにした。
 そうしていくつか事務的な質問が続いた後、質問は喧嘩についてになる。
「理由は」
「始めは一方的に因縁をつけられただけです。神楽ちゃんの傘が当たったの当たってないの、謝れだの謝るわけないアルだの。先に手を出したのも向こうですよ。神楽ちゃんを殴ろうと大人げなく腕を振り上げて……」
 そして、あの顛末だ。
 ちんぴら共は、喧嘩を売る相手が悪すぎたのだ。
 結局ちんぴら側において無傷で済んだのは五人中一人だけ。
 他はもれなく病院送りと相成った。今頃は病院で治療を受けていることだろう。
 これに懲りて、今後はあんな馬鹿な喧嘩のフッかけをしなければいいのだが。
 土方は調書から顔を上げ、新八に視線を合わせてくる。避ける理由も見当たらなかったので、しっかりと視線がぶつかった。
「そういや、足はどうだ」
「あ、お陰様で今は何とも。しっかり手当てしてもらいましたから。元々そう大したことありませんでしたし、早めに冷やしていたから、すぐに良くなるって言われました」
 湿布もタダで数枚頂きましたしと、新八は嬉しそうに笑った。
 土方はそうかと、ほんの少し表情を緩める。笑うと言うほどではない。眉間の皺が取れた程度だ。
 それでもそのほんの少し柔らかくなった表情に、新八の鼓動が速まる。
 ドクドクと、体中を血が音を立てながら駆け巡っていくかのようだ。
「なんだ?」
「いえ、何でも……」
 急に黙ってしまった新八を訝しげに見下ろして、土方はゆるりと紫煙を吐き出す。
 そんな風に何でもないように見える土方の左手が、苛立たしげに小さく揺れていた事を新八は知らない。
「まあいい。……調書もこんなもんでいいか」
 薄っぺらい紙を、適当にファイルに押し込んで土方は椅子に座り直した。
「で、お前はどうすンだよ」
「は?」
 土方の意図する所が判らず、新八は首を傾げた。
 調書が終わったのなら、勿論帰るに決まっている。今さら尋ねる必要も無いはずだ。
 それをわざわざこうして問い質すという事は、何かあるのだろう。
 意図を汲もうと考え込んでいた新八の態度をどういう風に取ったのか、土方は座り直したばかりの椅子から立ち上がると、新八の左側に回ってきた。
 煙草は銜えたままだった。
 顔を上げると、銜え煙草のガラの悪い土方が新八を真っ直ぐに見下ろしていた。
「立て」
 新八の左腕を、土方の左手が掴む。
 無理に立ち上がらせようとしたわけではないらしい。その証拠に、掴まれはしたものの力は入っていない。
 けれど、それは無言の圧力だった。新八はのそりとパイプ椅子から音を立てて立ち上がる。
 土方の手は、離れない。
「土方さん?」
 無言で相変わらず見下ろしてくる土方の表情が読み取れなかった。
 何を思って新八の腕を掴んで離さないのか。そのまま引っ張って歩き出すのかと思いきや、それもない。
 ただ、見下ろしてくるだけだ。
 瞳孔が開き気味の鋭い瞳は、獲物を観察する野生の獣のようだった。
「…………」
 沈黙が室内を支配している。
 口を開くことが、新八には何故か出来ない。男の目のせいであったのだと気付くのは、後になってからだ。
 この時はただ、土方の意図する所を知ろうと、どこか痺れたように動かない思考回路で思考を巡らすだけだった。
 土方の手が新八の腕を離れ腰に回った時も、新八の思考はそちらに奪われていたので咄嗟に反応をすることが出来なかった。
「……え? は? はぁぁぁああ!?」
 気付いた時には、新八は土方の左肩の上に乗せられていた。
 そう広く大きいわけではない肩の上なのに、こんなにも安定するのは何故だろう。
 いやいやいや、今はそんな事を考えている場合じゃない!
「な、何やってんすかアンタ!!」
「抱えてんだよ。見りゃわかんだろーが」
「人を米俵か何かと勘違いしてんすか!」
「んな訳あるか。この方が運びやすいだろうがよ。それとも前で抱きかかえられてーのか」
 所謂お姫様抱っこをされている自分の姿を想像して、ブンブンを大きく首を横に振る。
 そんな事をされるぐらいなら、まだこの荷物のように運ばれる方がマシというものだ。
 新八の顔は後ろを向いているので、土方の顔は見えない。それはお互い様だから、土方にも勿論見えていない。それでも動く気配で察したのだろう。
「なら大人しくしてろ」
 新八の動きを止めるように、一言そう言った。
「わっ、ぎゃ、ちょっと!」
 新八の腰を、肩にしっかりと腕で固定してから、土方はおもむろに歩き出す。
 荷物のように抱えられ、一歩歩くたびに揺れる体。
(落ちる……!)
 落ちたって構わないはずだし、むしろこの状態から解放されるのだから落ちた方が良いとはこの時には反射的に思えず、新八はぎゅっと土方の隊服の背中を掴む。
 そんなに伸びない素材だからか掴みにくい事この上ないが、掴まないでいるよりはずっとマシだ。
 掴んだ瞬間土方の動きがどこか不自然に止まりかけた気がしたが、気のせいだったのかすぐに元のように歩き出す。
 ゆさゆさと揺れながら、新八は屯所の奥の方へと誘われる。
 両手はしっかりと、土方の背中へ。
 多少の余裕が出てくると、腰に回されている土方の左手が気になって仕方がなかった。
 固定する為だろうが、強く掴み過ぎじゃないのかと思わずにはいられない。
 途中で誰かとすれ違う事もなく、奥の部屋へ辿り着くと無造作に下ろされた。
 土方の肩と腕から解放された先は、日に焼けた畳張りの和室。
「なんて事するんですかっ!」
 新八はぺたりと座りこみながら、立ったまま煙草を吸っている土方に食ってかかる。
 土方はそんな新八の言葉など何処吹く風で、聞いているのかどうかすら怪しい有様だった。
「そもそも、なんでこんな抱えられなきゃいけないんですか」
 新八の怒りというよりも寧ろ羞恥心に溢れた言葉も聞き流す土方は、左手を握っては閉じ握っては閉じを繰り返している。
 挙動不審だ。
「土方さん聞いてるんですか!」
 新八が怒鳴れば、ようやく新八の方へと視線を投げてくる。
「あ? ああ。……怪我してんだから少し休んでいけ。帰りは送ってやるよ」
 返事になっているのかいないのか、土方はそれだけを言うとさっさと部屋から出て行ってしまう。
 屯所の奥にあるこの部屋に一人取り残された新八は、呆然とするしかない。
 殺風景な部屋は、文机が一つあるきりだった。
「何なんだよあの人」
 土方が去って行った方をじっと見詰めるが、土方が戻ってくる様子はない。
 不意にずきりと足が痛んだ。
 捻った足が、また傷みを訴えだしたのだ。
 そこではたと気付く。
 土方は、自分の体を気遣ってくれたのではないかという事に。
(って、そんな訳、ないか……)
 足を軽く捻った程度で、そんなに気遣われるとは思いにくい。相手はあの真選組副長だ。
 しかしそうすると、なぜわざわざこんな部屋に抱えてまで運んできたのか。
 新八の存在は仕事の邪魔にしかならないのだから、さっさと帰してくれればいいものを。
 土方の考えている事は、やはり新八にはよく判らなかった。
 ただ、挙動不審だった土方はやたらと左手を気にしていた。
 怪我でもしているのだろうか。なのに新八を抱えたものだから、怪我が酷くなったのだろうか。
 新八は知らず土方の心配をしてしまっている自分に気付いて、少し愕然とした。
 それもこれも、土方が訳の分からないことばかりするからだと、自分にしっかりと言い聞かせ新八は首を振った。
 僕のせいじゃ、ない。
 彼の様子が気になっているのは、彼がおかしいからだ。
 だから、彼が戻ってきたら聞こう。
 左手、どうかしたんですかと。
 そうして、疑問をすっきり解決してから晴れて万事屋に帰るのだ。
 だから、彼が再びこの部屋を訪れるまで
「待ってるか……」
 溜息と一緒に零した一言で、新八は自分をこの部屋に留める。
 土方が戻ってくるその時まで、疑問と、戸惑いと共に。



end
<2006.06.25>
<戻る