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歌舞伎町内をいつものように見回っていると、何かを取り囲むように人垣が出来ていた。
「なんだ?」
男がそう口に出すと、後部座席に座っていた隊士が見てきます!と声高に宣言をして、小走りに人の群れに近付いていった。
何事かと囲んでいた人々を適当に散らして、中を覗いた男はそのまま跳ねるように男の所へと戻ってくる。
「ちんぴらが子供相手に喧嘩をしています!」
隊士が叫ぶと同時に、周りの野次馬達がわあっと歓声を上げた。
いいぞー、お嬢ちゃん!やっちまえ!と、無責任な野次馬達の声援が飛び交っている。
何があったのかは分からないが、大方どちらかの攻撃が相手に当たったのだろう。
ちっと舌打ちを一つして、結局男自ら車を降り、人垣に近付いていった。
往来のど真ん中で迷惑にも喧嘩をしている連中は、まとめてしょっ引いてやる。
男はそう思いながら、自分の前に立つ野次馬達を睨み一つで散らして、諸悪の根元である中央の人物に視線を向けた。
野次馬達から綺麗に隔てられたその場所に、四人の人間が立っていた。
ガラの悪い、いかにもちんぴら風の男が二人。
その男等に挑むように仁王立ちをしている少年と少女。少女はこの快晴にも関わらず、傘をさしていた。見覚えのある、その出で立ち。
よく見れば、少女の足下には、三人ほどちんぴらの仲間らしき男が倒れ込んでいた。
さっきまでの歓声は、この三人が倒れた事によるものだろう。
「まだやるアルか?」
ニマーっと笑う少女に、残っているちんぴらのはらわたが煮えくりかえる。
こんのやろおおぉおと無様に叫びながら、ちんぴらは少女ではなくそのやや後ろに立っていた少年の方へと襲いかかった。
「死ねええ!」
男は叫び、拳が繰り出される。しかし、拳は少年に当たることなく空を切った。
同時に、バシッと小気味いい音が響く。少年が手にしている木刀で、男の手首を打ち据えたのだ。
「なめんな!」
少年の威勢の良いかけ声に、ほんの少し心臓が揺れた。
左手が疼いたような気がするのは、きっと気のせいだろう。
ぎゅっと左手を握りこめば、疼きなど微塵も感じなくなる。気のせいだと、思うことが出来る。
「私に敵わないからって、弱いメガネを狙うなんて卑怯ネ!」
そう言いながら、少女は少年に襲いかかった男の後頭部を跳び蹴りをかます。
ドサッと、倒れる男がまた一人増えた。
立っているのは、残り一人だけだ。
少女は残りのちんぴらに向かってさっと身構え、少年は竹刀を握り直す。
一方ちんぴらは、右手を尻の方へと回している。何かを取り出すつもりなのだろう。
刃物が出たら洒落にならない。男は溜息を一つ吐いて、燻らせていた煙草を落とし靴で揉み消した。
「いい加減にしとけ」
もういいだろうがと、男は足を一歩踏み出す。
男を目にした野次馬達が、さっと散っていく。
黒地に金のボタンの上着と、首元には白いスカーフ。男の身につけている制服は、歌舞伎町の者達にあまり良い印象は与えていない。
真選組だ、鬼の副長だと、野次馬達の間から囁き声が漏れ聞こえる。
遠巻きになる野次馬達とは対照的に、少女はずいっと男に向き合うと両腕を胸の前で組んで男を睨んだ。
「これは私らの喧嘩ネ。口出しするなんて無粋アル」
「こんな往来のど真ん中で喧嘩すんなっつってんだ。やるならもっと裏でやれ」
「多串に指図される覚えは無いヨ」
「だから誰が多串だってんだこのチャイナ」
「お前以外に誰がいるネ。そんなんで江戸を守ろうなんて、十年早いアルよ」
「いい度胸だ。……全員しょっ引け」
男の言葉に、後ろの方で成り行きを見守っていた他の隊士らがさっと周りを取り囲む。
ちんぴら側で唯一立っていた男を真っ先に取り押さえ、倒れた男等の周りも固めた。
少年と少女の周りにも、隊士が二人ほど寄ってきた。
「大人しくついてこい。怪我したくなかったらな」
「断るネ!」
「やましい所がないんだったらついてこい。軽く調書を取るだけだ。それに、手当ても必要だろうが」
「何言ってるネ。怪我なんてしてないアルよ」
少女は傘を肩に引っかけながら、器用にひらひらと両手を上げて振ってみせる。
ぷらぷらと、少女の小さな手が振り子のように揺れていた。
「お前じゃない」
男は傷一つ無く、日焼けもしていない少女の腕には目もくれず、少女の後ろで所在なさげに立っていた少年の方へ視線を走らせた。
その視線に気付いたのか、少年が顔を上げて真っ直ぐに男の方を見てきた。
眼鏡の奥に見えるその黒い瞳は、曇りがない。
「放っておくと腫れるぞ。さっさと冷やせ」
「よく、気付きましたね」
少年の心底驚いたような表情に、男は小さく唇の端を歪めた。
「見てりゃ分かるさ」
「何だ新八怪我したネ? ほんっとにトロいアル」
「悪かったね! 怪我って言ったって、ちょっと捻っただけだよ」
少年は袴の裾を少し持ち上げて、右足首を確認する。
赤くなっているが、今のところ腫れはないようだった。今すぐに冷やせば、そんなに腫れずに済むかもしれない。
少年は確認を終えると、袴の埃を払いながら少し心配そうな色を浮かべている少女に向かって笑う。
「僕が真選組に行ってくるから、神楽ちゃんは先に帰ってていいよ。銀さんお腹空かせてるだろうし」
少年は人だかりの向こうに視線をやり、あっちの路地に買った物置いてあるから、回収してってねと少女に向けて言った。
少女は少年の視線を受け止めて、こっくりと頷く。
「分かったアル。銀ちゃんは私に任せるネ」
「おい、勝手に……」
「僕一人いれば、十分ですよね」
少女から男に、その黒い瞳に映す相手を変えて、少年は有無を言わさない口調で言い放った。
眼鏡の奥に意固地そうな瞳が見えて、男は妥協することにした。ここで不毛な言い争いをしても、時間が無駄になるだけだ。
少年の言うように一人いれば確かに十分だし、チャイナ娘よりは、まだ眼鏡の方が話も出来るだろう。
「いいだろう。車に乗れ」
「じゃあ、行ってきます」
「寄り道すんじゃねーヨ」
少女と少年は互いに軽く手を振って、その場を離れる。少女は荷物を回収して、真っ直ぐ家路を急ぐ。
少年は、男に先導されてパトカーへと近付いた。
そして、当たり前のように助手席側に回る少年に、男は少し目を眇める。
「普通は後ろに乗るもんだろうが」
「はっ、あ、そうですよね、すいません」
少年は慌てたように、助手席のドアにかけていた手を離して、居心地が悪そうに後部座席へ回ろうとした。
その足を、男は止める。
「別に構わねーよ。助手席がいいならそのまま乗ってろ」
すぐに戻ると言い置いて、男は未だ残る人垣の中へと戻っていった。隊士にちんぴら共の扱いを含めた、いくつかの指示を出すためだ。
少年は暫く逡巡した後、再び助手席のドアに手を掛け、大人しく助手席にその未発達の体を収めた。
少年の体がこの助手席に落ち着くのは、二度目のことだ。
指示を出し終えた男は、倒れたちんぴらを回収しに来た救急隊員から、氷嚢を借りた。
それを持って、少年の待つ車に戻る。
少年は大人しく、助手席に座っていた。どこか居心地悪そうに、時折体をもぞもぞとさせている。
ガチャッと運転席のドアを開けると、少年が顔をこちらに向けられる。
その少年の表情の中に、安堵の色を見た気がして男は何故か落ち着かない。
ホッとされる理由が見当たらないからだろうと自分に言い聞かせ、いつも通りに振る舞う。
「これで冷やしとけ」
借りた氷嚢を少年に手渡すと、黙って素直に受け取った。
そのまま前に屈んで、足首に氷嚢を当てるとぶるりと少年の体が震えたのが見て取れた。
よほど冷たかったのだろう。さっきまで氷嚢を持っていた男の左手は、そういえば右に比べて随分冷えているようだった。
冷えた手を軽く握っては開いてを繰り返してから、ハンドルに触れる。
「動くぞ」
一応声を掛けてから、男は車をゆっくりと発進させた。
他の隊士は現場に残し、とりあえず二人だけで先に屯所へと向かう。
屯所はここからならそう遠くはないので、時間はかからないだろう。
隣で足首を冷やす少年を、無意識のうちに時折視界に収めながら、男は車を走らせた。
会話は全くなかった。
男はいつかも、こんな風にこの少年と二人で車を走らせていた事を脳裏に浮かべる。
忘れたことがあったわけでもないと言うのに、まるで今まで忘れていたかのように自分自身に振る舞うのは何故だろうか。
そんな必要が、どこにあるのか。
「クソッ」
小さく呟いた声は、隣に座っていた少年にはしっかりと聞こえていたらしい。
「土方さん?」
どうかしましたかと、当たり前のように問うてくる少年は屈み続けていたせいか顔がほんのりと上気していた。
「なんでも無ぇよ。いいからちゃんと冷やしとけ」
「はい」
素直な返事が、耳に心地良い気がした。
男の周りに、こんな風に素直な返事をする者が少ないせいだろうか。そうだ、きっとそうに違いないと、男は一人で納得する。
まだ幼さを残した少年は、男に言われた通りにじっと足を冷やし続けている。
体勢がきついのか、時折体を揺らす事はあるがそれ以外に支障はなさそうだった。
赤信号に差し掛かり、ブレーキを踏む。
キッと音を立てて車は止まったが、いささか勢いがついて、体を屈めたままだった少年はそのままダッシュボードへと頭を突っ込んだ。
「っだー!」
ゴンと鈍い音がして、少年は思い切りぶつけたらしい額を掌で押さえながら、呻いていた。
ぐぐっと体を丸めているのは、痛さ故か。
「馬鹿、気をつけろ」
男は少年の右手首を取って、半ば無理矢理顔を上げさせる。
驚いたような顔の少年を無視し、額に視線を向ける。
特に切れたりはしていないようだが、一部がほんのり赤く色づいていた。
「ったく、そそっかしいにも程があるだろ」
「すみません」
しゅんと項垂れる少年は、心底情けないというような顔をしていた。
男は少年の額へ左手を伸ばし、そっと色付いた箇所に触れる。同時に、びくっと少年の体は揺れた。
気にせずに障り続け、瘤が出来るほどには強く打ってはいないらしい事を確認すると、そのまま手を戻す。
暫く、離れていった男の手を少年は追い掛けていたが、車が青信号になって走り出すと何事もなかったかのように、取り落としていた氷嚢を拾い上げた。
そのまま足を冷やし続けていた少年は、ふと男に向かって口を開く。
「土方さんの手、随分冷たいんですね」
「…………」
「何でか、もっと温かいと思ってました」
触った事なんて、ないのに何ででしょうねと、少年は照れたように笑った。
ざわりと、男の内側で何かが蠢いた。
男の頭を過ぎるのは、いつかの真夜中の出来事。
今隣に座っている少年は、あの時も同じようにそこに座っていた。
今と違うのは、あの時の少年は眠っていた事ぐらいだろうか。
その眠る少年の手を、何となく握ったまま男も眠った事に少年は気付いてはいないはずだった。
握っていた少年の温かな手を思い出す。
男の左手が、疼いた。
「すいません、変な事言って。……あれ、今屯所通り過ぎませんでした?」
少年の言葉に、急ブレーキをかける。
今度は、少年が頭をぶつけることはなかった。
窓の外を見れば、確かに屯所を少し通り過ぎているようだった。
チッと舌打ちをして、男は車をゆっくりとバックさせる。
車の通りがほとんどないために出来る行為だ。
所定の位置で駐車してエンジンを切ると、男は知らず溜息を一つ零した。
「降りるぞ」
まだ足を冷やしている少年に手を伸ばそうとして、やめる。
伸ばし損ねた左手をぐっと握って、そのまま車を降りようとドアを開けた。
降りようと体をずらすと、ぐいっと引っ張られる感覚に襲われ視線を左手に向ける。少年が身を乗り出して男の上着を掴んでいた。
「何だ」
「あの、これ、有り難うございました。もう少し、借りててもいいですか」
少年の左手に握られている氷嚢に目をやって、好きにしろと言い捨てる。
元々、男の物ではないしそんなに感謝される程の事でもない。
「はいっ、じゃあお借りします」
少年は元気にそう返事をすると、何の未練もなく男の腕を解放した。
男はそれを、心のどこかで惜しいと感じ、そしてそのままその感情を丸ごと封印した。
end
<2006.04.26>
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