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ジャーファルおにいさんとたぷたぷアラジン




 アラジン、アリババ、モルジアナ。
 この三人をバルバッドからシンドリアに招いてそろそろ半年が経とうとしている。
 来たばかりの頃はバルバッドでの出来事が尾を引いて、まともに食事すら出来なかったアラジンとアリババだったが、最近は三食きっちり食事をとっているし、以前のような笑顔も見せるようになってくれた。実に喜ばしいことだと、ジャーファルは白羊塔から緑射塔へと向かいながら思う。夕暮れの道は心地よい風が通っていき、この後に待っている楽しみを思えば心も体も軽い。
 コツコツと一定のリズムを刻み続けていたジャーファルの足音がピタリと止んだのは、緑射塔の一角に辿り着いた時。そこからは賑やかな笑い声が響いてきていた。
「お待たせしました」
 衝立の向こうにいる人物らに向けて声をかければ、それまで聞こえていた笑い声や咀嚼音がぴたりと止まる。顔を覗かせれば、パッと花開くような空気がその場に生まれた。
「やあ、ジャーファルおにいさん」
「おかえりなさいジャーファルさん、お仕事終わったんですね」
 今日も、アラジンとアリババの二人はにこにこと笑って、現れたジャーファルを迎え入れた。この場に姿が見えないモルジアナは、未だマスルールと共に鍛錬を続けているのだろう。朝に見かけた時も、日中に見かけた時も、二人は黙々と鍛錬をこなしていたから多分今もしている可能性が高い。マスルールにはまだまだ及ばないながらも、彼女は彼ら二人のために強くなろうと日々努力している。その直向きさが眩しい。
 そんな思いを向けられている男子二人の歓迎を受けながら、ジャーファルはアラジンの正面の席、いつの間にやら自分専用と化した場所へと腰を落ち着けた。緑射塔内に自分の居場所が出来るとは、少し前までは思いもしなかった事だ。
 ジャーファルは政務終了後の楽しみとして、すっかり回復した彼ら――今日のように二人の場合もあるが、モルジアナを含めた三人であることの方がずっと多い――と、夕食前の軽いティータイムを過ごすことにしている。
 提案したのはジャーファルで、彼らは皆二つ返事で頷いてくれた。何かと忙しく集合時間に遅れてしまうこともあるけれど、彼らはいつだって笑顔で待っていてくれる。無邪気な笑顔に迎えられ、彼らとのんびりと過ごす時間はジャーファルにとって憩いだ。
 国王が国を空けている今、政務官であるジャーファルにはやらなければならない事も責任も山積みであった。仕事自体は苦ではなく、むしろ仕事がない方が苦痛なジャーファルだが、このティータイムはそれと同じぐらい大事な時間となっている。どうしても仕事を抜けられぬ時、今までであればプライベートな時間などそう必要としていなかったのでそのまま無心で仕事に取り組んでいられたが、最近はティータイムを逃してしまうと思うと残念でならなかった。自分から申し出た事を守れない申し訳なさもある。
「今日はあまり切羽詰まった状況ではありませんでしたから、早めに片付けてきました。それに、あまり遅くなると私の食べる分がなくなってしまいますからね」
 実際、テーブルの上のおやつというおやつは、粗方食い尽くされている。申し訳程度に残っている分は一枚の皿に綺麗に避けられていて、彼らがジャーファルの為に残してくれていた分だと知る。皿を見たジャーファルが微笑めば、テーブルの前で二人も笑う。
「いやだなぁ、ちゃんと残してあるよう」
「そうですよ、俺達だってまさか全部食べたりしませんって」
 そう言う二人の後ろからさり気なく現れた侍女は、にこにこと微笑みながらジャーファルの分のお茶をゆっくりとカップへと注いでいく。ゆらめく琥珀色の液体を眺めながら、ジャーファルはやっと人心地つくことが出来た。
「フフフ、疑ってなどいませんし、いくらでも食べていいんですよ。さあ二人とも、よろしければこちらもどうぞ」
 ジャーファル用に取り分けられていた皿の上から、お菓子をいくつかアラジンとアリババそれぞれの皿へと平等に移してやる。
 ジャーファルの手元には小さな焼き菓子が一つ残っただけだがそれで十分だ。
 二人はわーいと声を上げながら、早速与えられた菓子に手を伸ばした。その間に侍女に命じて、新しい菓子を持って来させることも忘れない。
 ジャーファルは手元に一つ残った菓子を少しずつ囓り、お茶をゆっくりと啜りながら、一生懸命口を動かしている二人の様子を見守った。
 そう、丸々と太った、彼ら二人の様子を。
 一時は本当に食事が喉を通らず、見るからに憔悴していた二人がここまで元気になってくれた事に喜びを隠すことが出来ない。食べられるだけ食べて欲しいと、ジャーファルは止めること無くむしろ率先して二人に食料を与え続けていた。
「ここは食事もおいしいですけど、お菓子も本当においしいですよね」
「本当だねえ! 僕はこのお団子がとても好きなんだ」
「ああ、パパゴレッヤ果汁を包んだお団子ですね。パパゴレッヤは我が国の数少ない特産品なんですよ。お口に合ったようで良かった」
 アラジンが美味しい美味しいと口に運んでいるのは、酸味と甘みの調和したパパゴレッヤの濃い味を存分に楽しめるように果汁にとろみをつけて固め、それを柔らかな生地で包み、蒸したものだ。半透明の餅生地の下に見える、パパゴレッヤの鮮やかな果汁の色が食欲をそそる。その収穫量から高級品となっているパパゴレッヤだが、傷物などの規格外品も当然出てくる。王宮ではそれらを買い取り、パパゴレッヤ料理や菓子の開発を進めていた。アラジンが気に入っているパパゴレッヤ団子は、王宮の料理人が考案した菓子でシンドリア王宮内でも人気が高い一品だった。
「遠慮せずに、好きなだけ召し上がれ」
「うん!」
「はい、いただきます!」
 侍女によって運ばれてきたお菓子がこんもりと盛られたおかわりの皿から、奪い合うように二人は食べ続ける。食べ続け食べ続け、このあと更に夕食も食べるというのだから驚きだというぐらいに食べ続けた。そんな二人を眺めつつ、その合間合間に三人で談笑を楽しんでいれば時間はあっという間に過ぎ去っていく。やって来た時には夕暮れ時であったが、いつの間にか辺りは夜の闇に包まれていた。
 アリババが立ち上がったのは、ジャーファルがそろそろ帰る事を二人に告げようとした丁度そのタイミングのこと。
「どうしました?」
「すいませんジャーファルさん、俺そろそろ戻りますね。今日もありがとうございました、すごく楽しかったです」
「いいえ、こちらこそ。また明日も会えるといいですね」
 そのままアリババはアラジンにもじゃあなと別れを告げて、出て行ってしまった。アラジンは相変わらずおやつを頬張り続けている。
「急いでるみたいですが、彼はどうしたんでしょうか」
「うーん、アリババくんはトイレじゃないかなぁ」
 うふふと楽しそうに笑いながら、アラジンは更に新しい菓子を手に取った。口元はおやつの食べかすや汁でべたべたに汚れ放題だ。微笑ましくはあるが、あまりの状態に見かねたジャーファルは立ち上がり、アラジンの正面の席からすぐ横の席へと移動する。その途中に侍女から受け取った布で、アラジンの口周りを拭ってやる。丁寧に丁寧に、痛みを与えることに無いようにと労るその手つきは、優しさと慈愛で満ちていた。
 アラジンは食べる手を止めて、されるがままになっていた。むしろ、ジャーファルの方へ顔を向けているので協力的だ。目を閉じて、顎を上に向けて唇を突き出してくる姿は幼さを強調して可愛らしく、布越しではなく直に触れたくすらなる。
 肉付きのすっかり良くなった頬や口周りは驚くほど柔らかな感触で、その柔らかさときたらパパゴレッヤ団子にも引けを取らない。
「終わったかい?」
「いいえ、もう少し綺麗にしましょうか」
 控えていた侍女に汚れた布を渡し、新しい布を受け取る。そしてそのまま、ジャーファルは何故か言葉をかけることなく、ジェスチャーで侍女達を下がらせた。侍女達はジャーファルに向けて緩やかに頭を下げて、音もなく去って行く。目を閉じているアラジンは、その事に気付いている様子はなかった。
 侍女らを視界の端で見送り、ジャーファルは自身の行動の不可解さに疑問を抱く。彼女らがこの場に居たって構いはしない筈だ。アラジンはまだおやつを続けているし、お茶だって新しいものを飲みたくなるかもしれない。けれどジャーファルは、この空間から人を払ってしまった。一体それが何を意味するのか……。自分で自分の考えを読み切ることが出来ない。ジャーファルには珍しいことだ。
「ねぇねぇ、ジャーファルおにいさん」
「なんですか、アラジン」
 自身の僅かな動揺を隠すように、ジャーファルはつとめて穏やかな表情でアラジンの口周りを再び拭い始めた。眼前にはつやつやの唇や、ふっくらとした綺麗な頬がある。
 食べかすは全て落とす事に成功したけれど、口横についたカピカピに乾いている汚れだけは取り切れていなかった。あまり強く擦っても痛くなるだろう。濡れた布が欲しいところだが、ジャーファルはたった今自分で侍女達を下げてしまった事を思い出し、やはり明かな判断ミスだったと悔いる。侍女達を呼び戻そうとしたその時、アラジンはジャーファルのクーフィーヤの端を軽く掴んできた。引っ張られ、そのまま視線をアラジンへと戻せば、彼はにっこりと笑っている。
「僕は、毎日こうしておにいさんとおやつをするの、楽しみにしているんだ」
「おや、それは嬉しいですね」
「ふふふ、本当だよ。おにいさんと仲良くなれた気がして、嬉しいのさ」
 目尻が下がっていくのを自覚せずにはいられなかった。願わくば、鼻の下が伸びていない事を祈るばかりだが、子どもに素直な好意を寄せられて、嬉しくないはずがない。
「僕だけじゃない。アリババくんも、モルさんも、この時間が好きなんだ。だからジャーファルおにいさん、明日もきっと来ておくれよ。明日はみんなで待っているからね」
 口端に汚れをつけたままのアラジンの真摯な表情に、ジャーファルは吸い寄せられていく。口端に注がれた視線に気付いたのか、アラジンは自分の口へ手をあてようと動かした。その手をすんでの所で捕らえ、アラジンの体毎自分の方へと引き寄せてみるが、すっかり重くなった体は斜めになる程度だ。しかしそれで十分だった。
 アラジンが来てくれないのであれば残りの距離は自分から詰めて行けばいいだけのこと。ジャーファルはアラジンの口端めがけて、顔をずいっと近付ける。アラジンの顔にジャーファルの影が懸かり、アラジンはぱちくりとその大きく青い瞳を瞬かせた。
 ぺろりと彼の口端を舐め上げれば、甘い味が口の中に広がる。アラジンの顔についていたのは、他国より取り寄せた酸味の強いリンゴで作られたジャムだろう。そのリンゴ独特の芳醇な香りと、砂糖と果肉の渾然となった甘さが、ほんの少しだけれど感じられた。彼らがジャーファルの為に残しておいてくれた菓子の中に、そういえばリンゴジャムの使われた焼き菓子も混じっていたなと思う。言うなればこれはお零れという事になるだろうか。
「少しじっとして」
 軽く舐めた程度では、乾いたジャムは取りきれはしない。アラジンの輪郭も危うい顎に手を添えて、ジャーファルは再びアラジンの口端を舐めた。ぷよぷよの柔らかな感触を舌で感じる。舌先を尖らせて、ジャムがこびりついている部分を丁寧になぞっていけば次第に甘みは薄くなっていった。甘みが消え、次に舌にのったのは自分の唾液と僅かな塩気。
 顎と思しき場所に手は添えたまま、ジャーファルはゆっくりと顔を離す。アラジンは驚きで目を開いたままだった。先ほどまでアラジンの口周りを拭っていた布で、再び同じ場所を拭う。今度拭うのは食べかすや汁ではなく、舐めることによってついたジャーファルの唾液だ。そうしている間、アラジンはただぽかんと口を開けていた。呆然としているのかもしれないと思うと、心が痛む。
 拭い終わり手を引けば、アラジンはジャーファルを見つめてぽつりと言葉を零した。
「おにいさんは、本当はおねえさんだったのかい?」
 おっぱいはなかった気がするんだと子どもは首を傾げている。彼と親交のある者なら誰でも知っている事だが、アラジンは女性が好きだ。特に女性の柔らかな部分を好んでいる。そしてジャーファルの体には当然、彼が好むようなパーツはついておらず、苦々しい気持ちをこめて笑うしかなかった。
「残念ですが見ての通り、男です。嫌な気持ちにさせてしまったでしょうね。君の好みを、私は知っているはずなのに」
「うん、とても驚いたよ。ジャーファルおにいさんは、こういう事をする人だと思っていなかったからね」
 アラジンの言葉に、自分でも思っていなかったとジャーファルは深くため息をついた。なぜこんな事をしてしまったのだろう。年端もいかぬこんな子どもに手を出すなんて、女性とみれば誰彼構わず大なり小なり手を出してしまう王の事をとやかく言えぬ。
 汚れを拭うだけなら他にいくらだって方法はあった。けれどジャーファルは他のどれでもなく、自らの舌で拭うことを選んでしまった。選んではならない手段であった事は間違いがない。実際、ジャーファルは現在ひどく落ち込んでいる。布をテーブルの上へと置き、両手で顔を覆って、出来る事ならこのまま埋もれてしまいたいと願う。死ねと言われれば本当に死にたいぐらいだ。この命はシンドリア王国、そして王のものである為実際には出来ないけれど、気持ちとしてはそれ程に沈み込んでいた。
「ねぇおにいさん」
 そっとアラジンの手がジャーファルの落ちている肩に触れる。アラジンの声音は優しく、それが余計にジャーファルを追い立てて行く気がした。
「すみませんアラジン。できる事なら、今の事は忘れて……」
「なぜ? おにいさんにさっきみたいな事を、今までされた事がなかったから驚きはしたけれど、僕は驚いただけだよ?」
 アラジンの言葉に、ジャーファルは顔を上げる。アラジンは微笑んでいた。後光が差して見えるのは気のせいだろうか。
「嫌では、ありませんでしたか……?」
「勿論おねえさんの方が柔らかいし、とても良い匂いもするけれど、僕はジャーファルおにいさんの事も、ちゃんと好きなんだ。だからかな、嫌だなんてちっとも思わなかった。おにいさんはいつも遊んでくれるし、それにとても優しいものねぇ」
 ニコニコとしているアラジンに、ジャーファルは思わず腕を伸ばしていた。ぎゅっと抱き込めば、くすぐったいよぅとアラジンが身を竦める。以前とは比べものにならぬぐらい全体的に大きくなったとは言え、元が小さいので抱き込むことは出来た。腕いっぱいに包めばその肉の柔らかさが心地よく、逆に包まれているような心地になっていく。
「あ、おにいさん、ちょっとじっとしていて」
「どうしました?」
 アラジンはその顔をジャーファルの方へ向けて、そうして口端へと、ゆっくりと唇を寄せた。ちぅっと軽く吸う音が、ジャーファルの鼓膜を揺らしていく。
「うふふ、ジャーファルおにいさんのお口にも、何かついていたからお返しだよ」
「ああ、アラジン……」
 ぎゅうぎゅうと押しつぶす勢いで抱き締める。なんと可愛らしいのだろう。なんと愛らしいのだろう。この子どもから与えられる温もりが、優しさが、いじらしくてたまらない。
「おにいさんってば、本当は甘えん坊だったんだね。でもちょっと、くるし……」
「これぐらいなら、どうです」
 腕にこめる力を弱めれば、アラジンがホッと息を吐くのが分かる。苦しそうな表情から一転、にこりと表情を緩めてくれたので、多分苦痛を与えてはいないのだろう。
 安心して、ジャーファルは自身をアラジンのふくよかな体に埋めていく。ずぶずぶとどこまでも沈んでいけそうな、柔らかな肉と脂肪の塊。温もりは確かにあるけれど、体自体はどちらかと言えばひんやりとしていてそれがまた心地よく感じる。
「気持ちがいいですね。とても落ち着く」
「うん、僕も気持ちがいいよ。優しいおねえさんにして貰う抱っこ以外にも、気持ちいい抱っこってあったんだね」
 蕩けるようにアラジンの相好が崩れていき、それを目に入れたジャーファルもまたとろとろと相好が崩れていった。いつの間にかアラジンの短い腕も、ジャーファルの体の方へと回ってきている。侍女達が捌ける前に置いていったランプの炎は、ゆらゆらと二人の影を壁や床で踊らせていた。

 ***

 「走れ」
 四ヶ月ぶりに帰国したシンドリア王国の王・シンドバッドの命により、アラジンとアリババは半ば強制的に減量に励むことになった。シンドバッドに言われた通り走り、走り、ひたすらに走り続ける。当然の事ながら食事量も減らし、その量は今までの半分以下にまで落ち込んでいた。それでようやく常人の一人前になるのだから、今までどれだけ食べまくっていたかが良く分かるというものだろう。
 食事量の減少に比例して、仕事終わりのティータイムもまたその頻度を徐々に減らしていく事となってしまったけれど、二人の減量の為ならば仕方がないとジャーファルは諦めていた。うっかりお菓子を与えてしまいそうになる自分を自覚しているので、ティータイムの縮小は、最初にティータイムを設けようと持ちかけた時同様、ジャーファルから彼らに告げた。必死に減量に励んでいる二人の様子を見ているだけに、邪魔をしたくはなかったのだ。けれど、お菓子無しのお茶だけだったら構いませんよねと言ってくれたアリババにより、ティータイムの完全消滅は避けられた。毎日から週二回ほどと減りはしたものの、減量に効くというお茶を飲みながら四人でテーブルを囲むのは楽しかった。減量の進捗状況を聞き、こんな方法もいいらしいと得た情報を交換したりすることもあった。
 数週間減量に励んだアリババはすっかりと元の体型へと戻りつつある。また、アラジンも随分と顔がすっきりとしたようだ。あれだけ大きく丸かった体も小さくなり始めている。
 ――それを残念だと思う自分を、ジャーファルは見て見ぬ振りをしていた。
 なぜそんな事を思わなくてはならないのか。シンドバッドの言う通り、痩せた方がいい事はジャーファルとて分かっている。肥満を解消すればその分体を動かしやすくなるし、何より健康を害することがない。しかし、それでもあの丸いフォルムを、ぶにぶにと柔らかな感触を、ジャーファルは忘れる事が出来なかった。腕の中に抱き込み、抱き返されたあの感覚を失うことが寂しいのだ。そう自分の中で答えが出たからこそ、痩せてしまう事を残念だなんて思う自分から、ジャーファルは目をそらし続けた。
「ジャーファルおにいさん、どうかしたのかい?」
 アラジンに声をかけられたのは、黒秤塔から白羊塔へと向かう道すがらのことだった。走り込みの最中に廊下でぼうっと立っていたジャーファルを見かけ、様子がおかしいと感じ近寄ってきたという。君のことを考えていたんですよとは言えず、ジャーファルはにこりと笑いかけるに止めた。しかしアラジンはそれでは納得してくれず、ジャーファルの手を掴むと、引っ張るように歩き出した。向かっているのは緑射塔の中だ。
 アラジンに手を引かれ、後ろを黙ってついていく。ほぼ以前通りのアリババに比べ、アラジンは顔がかなりすっきりし、全体のボリュームこそダウンしているけれど、まだまだ丸いフォルムを維持している。その丸くて愛らしい後ろ姿を、ジャーファルはいつまでも見ていたい気持ちに駆られていた。
「さあ、入って!」
 アラジンに連れて来られたのは、彼らに与えられている一室だった。この部屋でアラジン達三人は日々を過ごしている。夜眠る時も三人一緒だと言うのだから、仲の良いことだ。
「私はまだ仕事の最中なので、戻らなければならないんですよ」
 白々しい自分の物言いに笑いがこみ上げそうだ。手を引かれるままついてきたのは、どこの誰だと言うのだろう。それが分かっているのか、アラジンは首を傾けて目を細めた。
「うん、分かっているよ。だけど休憩は必要だと思うんだ。だからおにいさん、はい!」
 アラジンは寝台に座ったかと思うと、両手を開いてジャーファルに向けて真っ直ぐに伸ばした。ここで行ってはいけないと分かっているのに、誘われるままジャーファルは足を進め、アラジンへと腕を伸ばしてしまう。以前に抱きしめた時よりは随分と締まった体になっているが、まだまだ柔らかなクッションでジャーファルを包んでくれた。目を閉じてその肉の感触に集中していれば、アラジンはジャーファルの頭を優しく撫でた。
「おにいさんは、実は甘えん坊さんだからねぇ。ふふふ。おねいさんはいないから、僕が代わりに甘やかしてあげるよ」
 君の代わりなど誰にも務まりはしないだろうとジャーファルは思う。思うけれど、口にすることは無かった。ニコニコと笑って、頭を撫でてくれる優しい子どもの労りを黙って受け続けることが今の正解だとジャーファルは知っている。
「あのね、抱っこって、する方もされる方も気持ちがいいと僕は思うんだ。ジャーファルおにいさんはどうだい?」
「ええ、とても気持ちが良いですよ。こんな気分になれるのは、アラジンに抱っこをしてもらう時だけです。私の方がずっと大人だと言うのに、甘えて恥ずかしいですね」
「恥ずかしくなんてないさ! おにいさんが望めば、僕はいつだっておにいさんを抱っこしてあげるからね」
 だから今はゆっくり僕に抱っこされててよと、アラジンは楽しそうな声を出した。調べ物の為に黒秤塔に行ったので、本当はすぐにでも白羊塔へ戻り仕事を再開しなければならないのに、子どもの放つ甘い誘惑に抗うことが出来なかった。こんなにもダメな大人にしてくれるアラジンの、いずれ……そう遠くないうちに無くなってしまうだろうこの柔らかな肉の感触を、ジャーファルが忘れる事は無い。
 元の体型に戻ったその時も、アラジンはこうして抱っこをしてくれるだろうか。ふと浮かんだジャーファルの疑問に答えるように、アラジンは笑った。
「僕は、おにいさんを包んであげたいと思っているんだ」
 ジャーファルは喜びと安堵に、目を閉じた。



おわり
2012/08/11初出
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