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一つの影



 影が長く長く伸びている。
 真っ赤な夕焼けを背にしながら、ユーリはゆっくりと歩いていた。
 顔を横に向ければ、ユーリに歩調を合わせて夕焼けにも負けないオレンジ色の髪が揺れていた。
「どうしました?」
 ユーリの視線に気付いて、男はユーリを見下ろす。
 この身長差が恨めしい。
 ユーリは男を見上げ、その青い瞳を覗き込んだ。自分の姿が映っているそこだけ、まるで青空のようだった。
「グリ江ちゃんは、影も逞しいんだなーって思っただけ」
 二人で足を止めて、足下に視線を落とす。
 長い長い影は、ユーリのものよりも隣に立つ男のものの方がずっと長く、なおかつ逞しい。
 ユーリよりも高い身長、がっしりとした体躯は、本来の形からは歪んでしまう影にもしっかりと反映されていた。
 ユーリお気に入りの上腕二頭筋は、影よりも本物の方が何倍も何十倍も素晴らしかったが。
「うーん、オレにはこれぐらいしか、取り柄がありませんからねえ」
「何言ってんだよ、ヨザックには女装もあるじゃんか。おれがグリ江ちゃんにどれだけ癒されてきたか、知らないな?」
「あら嬉しい! 坊ちゃんってばそうやってグリ江を口説くつもりねー?」
「口説いてない口説いてない!」
 勘弁してくれよと、ユーリは項垂れる。
 そんなガックリしなくても……とユーリの様子を見ていたヨザックは、ほんの少し寂しそうに笑った。
 しかし顔を下げているユーリには、そんなヨザックの表情は見えていないし、ヨザックの気持ちも伝わってはいなかった。
 ヨザックからも、ユーリの顔は勿論見ることが出来無い。彼の顕著な特徴の一つである黒い髪と、あまり日に焼けていない白いうなじが見えるだけだ。
 ヨザックの視線は、歩きながらもユーリの首筋に固定されている。
 影を追うように歩くユーリは、それを自然と知ってしまった。
 見られているなと思う。それは、自意識過剰だとかそういう事じゃなくて、ただ影に現れていただけのことだ。
 ヨザックの逞しい影のちょうど頭の部分が、自分の方を向いていたから、判っただけのこと。
 どんな表情をしているかとか、どんな気持ちでいるのかと言うことは、影からは伝わってこない。これが名付け親相手であればきっと判るのだろうが、御庭番相手ではそうもいかなかった。
 だから、ユーリは顔を上げた。真横を歩く男の顔を、まっすぐに見つめた。
 ヨザックがどんな顔をしているのか、知りたかった。
「どうしました?」
 柔らかい笑顔が、そこにはあった。
 ただ優しいだけの瞳が、ユーリを見ている。この男には珍しいことだった。
 いつもどこか、野生の獣の色をその青い瞳にたたえているのに、今はその獣がどこかになりを潜めている。
「いや、ヨザックがどんな顔してんのか見たくて」
 素直に言えば、ヨザックはピタリと足を止めてしまった。
「ヨザック?」
 二歩ほど足を進めてしまってから、ユーリも足を止める。二人の影の頭部分が、ちょうど同じぐらいの位置になった。ヨザックとユーリの影は、二歩分の身長差があるらしい。
 けれどその身長差も、すぐにまた詰められる。
 ヨザックが、大股で一歩近寄ってきたからだ。
 ユーリの横ではなく、真ん前に。
 横に並んでいた影が重なって、影は道に一つきり。おれは本当に小さいんだなと、ヨザックの影に覆われてしまった様を見て、悲しくなった。やっぱりもうちょっと鍛えないといけない。その前にまずは身長を伸ばすべきか。
 目の前にやってきたヨザックに顔を向けると、ヨザックはにやにやと笑っていた。
「オレの顔、よっく見ておいて下さいね」
 ユーリの両頬を、ヨザックの大きな手が包む。
 顔を少し上に向けられ、視界にはヨザックの顔とオレンジ色の髪しか入ってこない。
「うわっ、近いよグリ江ちゃん!」
「これだけ近ければ、よく見えるでしょ」
「…………まあ、髭が伸びてきてるのもよく判るけどさ」
「そういう所は見て見ぬ振りをしてくれないと!」
 でないとキスしちゃいますよと、訳の分からない事を言ってくる。間近に迫る青い青い瞳の中、なりを潜めていた獣が少し姿を現した気がした。
 目の前の男から視線をずらし、ちらりと下の方へ向ける。
 相変わらず、足下から暗い影が伸びていた。
「陛下は、体毛が少ないんですかね」
 産毛ぐらいしか見えませんよと、ヨザックは顔を近づけたままでそんな事を言う。
 ユーリが視線を外している間も、ヨザックはじっとユーリを見詰めていたらしい。
「一応おれだって男だから、朝は髭が伸びてることもあるよ。毎朝どうにかしなきゃいけない程じゃないけど」
「でも本当に、男の子にしちゃあ綺麗な肌ですよ。日焼けはしてますけどね」
「野球やってるからね」
 ヨザックに向けて、にぃっと笑いかける。
「でもねぇ、陛下。日焼けが一番お肌には良くないんですよ」
 判ってますかと尋ねられ、頷こうとしたがヨザックに顔を固定されているので出来ない。
 だから、口を開くほか無かった。
「前に、ヴォルフラムにも言われたな。お前は気を遣わなさ過ぎる!って」
「でも、そういう所も陛下の魅力といえば魅力なんですよねえ」
 ヨザックはそうして、一つ呼吸を置いて目を細めた。
 間近にあったヨザックの顔がほんの少しずれたのと、頬に何らかの感触があったのは同時のことだった。
「!?」
 一瞬のことだったとは言え、頬には確かに柔らかな何かが当たっていた。
 頬に当たったものが何かなんて、今の状況を考えたら一つしか思い浮かばない。
 たった一つ思い当たる事実に固まっていると、ヨザックは相変わらず人の悪い笑顔を浮かべてこちらを見詰めていた。
「オレは、そういう陛下が好きで好きでたまりません」
 あ、これは愛の告白ですよーなんて嘯くヨザックから目をそらして、ユーリはヨザックの腕から逃れる。
 足下に視線を落とすと、相変わらずの影。
「陛下ー? 怒っちゃいましたか?」
 心配なんて微塵もしていない声色。ヨザックは知っている。ユーリが驚きこそすれ、嫌悪感を滲ませたりしていないことを。
 ユーリもまた、嫌だという気持ちが湧いてこない事を自覚していた。
 ただ、一つだけ勘弁してもらえるなら。
「怒ってないけど、こういうトコで、そーいう事すんのは禁止! あと告白も禁止だからな!」
「えー」
「えーじゃない! 恥ずかしいんだってば!」
 すたすたと歩き始めるユーリを、ヨザックは笑いながら追い掛ける。
「かーわいいですねー、ホント」
 ヨザックの声を無視して、ひたすら歩く。すぐに追いついたヨザックは、ユーリの右手をぎゅっと握ってきた。
 ユーリの視界には、仲良く手を繋いでいる影が、一つ。



end
2006.06.26
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