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午後の執務室



 じっと見つめていると、不思議そうな顔をされた。
「おれ、何かした?」
「何故だ」
「いや、こっち見てるから。怒らせるような事したかなーっと」
 覚えはないんだけど、無意識のうちにそう言うことしてる可能性もあるだろ?だったら聞かないと判らねーじゃん!と、目の前の若き双黒の王は一気に喋る。
「何もない」
 グウェンダルは素っ気なく答えると、ユーリから視線を外した。
 それきりお互い顔を見合わせることもなく、会話も途切れた。
 もともと二人はそういう傾向にあるので、今の状態の方が当たり前と言えば当たり前ではある。
 ただ、二人きりという今の状況は、当たり前ではない。
 いつもなら、ギュンターやコンラートらの誰かしらが王の周りに陣取っているが、今回はその誰もがいない。
 王の執務室には王その人と、その王の補佐のためにいるグウェンダルの二人きりなのである。
 本来ならば、グウェンダルの今の役目は王佐のものだ。
 しかしその王佐は今、アニシナの"もにたあ"となったが故に、自室から一歩も出られない状態になっている。
 一歩間違えば、自室から出られなかったのは己の方であったのだと思うと、背筋が凍る。
 ならば、王の相手をしている方がまだマシだというものだ。
 噂では、ギュンターは鼻をやられたらしい。どういう症状に見舞われているのかは判らないが、随分と悶え苦しんでいたようだ。
 過去に自分がアニシナのせいで体験した、鼻に関する苦い経験を思い出そうとしたが、やめた。思い出して良いことなど何一つだってない。
 グウェンダルは王のサインが必要な書類の選り分けをしながら、今も苦しんでいるだろう王佐を憐れんだ。
「なあ、あとどんだけあるんだ?」
 グウェンダルの前に積み上がっていく書類の山を見ながら、げんなりしたように有利は尋ねる。
「もう少し待っていろ。今選り分けている。お前がもっと文字を読めればこんな手間はかからんのだがな」
「悪かったな! だから今こうやって勉強してるんだろ」
 ドンっと、手に持っていた本の背表紙をグウェンダルへ見せるように机の上に載せると、有利はそのまま音読を始めた。
「そ、う、し、て、毒女は、彼の、手首に、輪っか……を、はめる、と……」
「子供向けではないか」
 しかも辿々しい。
 その程度の小説すら読めないとは、とため息が漏れる。その間も書類を選り分ける手は止まらない。その辺りはさすがグウェンダルだ。
「あのなあ、日本語みたいに小さい時から接してるのならいざ知らず、英語すら出来ないってのに眞魔国の文字なんて、もっと読めるわけないじゃん。それに、これでも進歩してるんだって。今じゃ英語より眞魔国語の方が出来るぜ」
 ニホンゴというのは、地球側の有利の住む国で使用している言語だ。エイゴという言語は、確かコンラートも多少使えるはずだったと、グウェンダルは己の引き出しから情報を引っ張り出してくる。どちらにしろ、グウェンダルは触れたことのない言語だ。
「まあ、そうだな。来たばかりの頃はもっと酷かった。その程度でも読めるようになっただけ進歩か……」
「そうそう。もっと褒めて伸ばそうぜ!」
「だが、書き文字は相変わらずその辺の子供よりも酷いな。新しい文字か、これは」
「……グウェンダルって、意地悪いよな」
 じとーっとした眼差しでグウェンダルを睨んだ後、そのまま有利は黙読へと戻った。不満そうな空気が漂っていたが、それどころではない。グウェンダルも意識を書類へと戻す。
 今すぐ魔王陛下のサインが必要な書類や、目を通させる必要のある書類を右手側に。今のところは自分で処理すれば十分な書類は左手側へと積んでいく。
 左手側の山の方が圧倒的に高かったが、その半分もない右側の書類を片付けるのにすら、今日一日では足りないだろう。
 その課程を思うだけで、重いため息が漏れそうだった。
 せめて読み書きだけは早いところ習得してもらいたいものだ。それだけで、もう少し国政は捗るだろう。
 溜まっているあの案件やその案件を思い起こしては、ズキッとこめかみに痛みが走る。
 知らず、ため息も漏れた。眉間の皺とため息は、これからもずっとグウェンダルの側から離れることはないのだろうと思うと、それだけで気が滅入りそうだった。
 ため息をつきながら仕事の準備を進め、ふと顔を上げると執務机に有利の姿がない。
 逃げたかと椅子から思い切りよく立ち上がったその時、うわっと驚く声が目の前から聞こえた。
 自分の机の前に、座り込んでいる有利の姿が目に飛び込んでくる。
「……何をしているんだ」
「何って、グウェンダル観察?」
 左手で顔の半分を覆って、呆れのため息を一つ。
 グウェンダルは椅子に再び腰掛け、胸の前で両手を組んだ。
 床に直接座り込んでいる有利からは、随分と不遜な態度に見えるだろう。判っていて、あえてそうしている。ジロリと見下ろせば、有利はぽりぽりと頬をかいた。
「お仕事はどうなさったのかな、魔王陛下」
「えーっと、読めない単語がございまして……辞書で調べようと席を立ったらグウェンダルが疲れてるみたいだったので、様子を見ようかなーって」
「魔王陛下のお気遣いには感謝する。だが、今は執務中だという事をお忘れにならないで頂きたいものですな。そもそも、どこのどなたのせいで疲れているとお思いか」
「うわー、嫌味大爆発。ごめんってー」
「そう思うならさっさと再開しないか」
 有利はそれなんだけどさーと、本棚を指さして言った。
「辞書がない」
 有利の指が指し示す先には、ぽっかりと一冊分空いている本棚。あそこには、有利が愛用している子供用の辞書が普段ならば収納されていた。
「まったく。どこに置いたのか覚えていないのか」
「昨日使ったのは覚えてるんだけど、どこに置いたかな。戻したような気がするんだけど気のせいだったのかなー」
「物の管理ぐらいはきちんとしろ。どこまで手がかかるんだ」
「申し訳ないです……」
 しゅんと項垂れる有利の姿に、グウェンダルの心の奥でゆらりと揺らめく感情が一つ。
 目は晒された白い項へと吸い寄せられる。黒い後れ毛との色のコントラストが、グウェンダルを煽った。
 このままではいかんと、グウェンダルは立ち上がり本棚へと向かう。
 有利もまた慌てて立ち上がり、グウェンダルの後を追った。
 まるで親鳥の後を追いかける雛のようだとグウェンダルは思う。
「今日は使っていないのか」
「うん。読み始めたばっかりだし、そんなに躓くような単語もなかったから」
「昨日はどうなんだ」
「それなんだよなー。昨日もここで本読んでて、途中でギュンターの悲鳴が轟いたからそっちに走って、戻ってきた時に辞書は重いから仕舞って、この本は寝室まで持って行った……はず」
「寝室にはないのか」
 うーんと有利は唸りながら、目を瞑って一生懸命思い起こそうとしている。首を捻るその姿がまた愛らしいと思ってしまい、グウェンダルはその感情を飛ばすようにぶんぶんと首を振った。
 我ながら先ほどから少しおかしい。有利の言うように疲れているのかもしれん。
「無かったな。結構大きいから部屋にあれば気付くし、これと一緒に持ってきてると思う」
 これとはもちろん有利の読んでいる毒女である。
「そうか。まあ無いものは仕方ない。とりあえずは私の辞書を貸してやるから、それを使え」
「え、貸してくれんの? マジで!?」
 意外という言葉が、その可愛い顔や態度から溢れ出ている。辞書を貸すぐらいで、なぜここまで驚かれねばならないのか。そう思っていたことが伝わったのか、有利は目をぱちくりさせて、その可愛らしい口を開いた。
「だって、てっきり見つかるまで探せって言われると思ったから」
「それではいつまで経っても終わらんだろう。効率を考えろ」
 そう言えば、有利はそれもそーですねーと唇を尖らせて呟いた。そんな風に拗ねた素振りを見せるな!と心の中で叫ぶが、聞こえるはずもない。
 ましてや、可愛すぎるからだとは、口が裂けたって言えない。絶対に、言えない。
 そんな事を悶々と考えていると、有利がふと何かに気付いたのか顔を上げた。
 グウェンダルはそれを横目で見下ろす。
「なあ、辞書ってこの部屋にはないんだよな?」
「あ、ああ。私の部屋だ」
「それだとこっから少し遠いよな。ならさ、もういっそグウェンが教えてくんない?」
 さも名案だと言わんばかりの表情で、有利はにんまり笑った。お世辞にも上品とは言えない。
「何だと?」
「だって、辞書取りに行く時間が勿体ないだろ」
「それはそうだが、自分で調べねば身に付かんぞ」
「大丈夫大丈夫! 何たってグウェンが教えてくれんだから。忘れられる訳ないって」
 それはどういう事だと問おうとしたが、有利のキラキラした瞳を見たらどうでも良くなってしまった。
 ちらりと振り返り、本来は王佐の席である机の上を確認する。積み上げられた書類は、今日一日で終わる量ではない。一刻も早く、有利にサインをさせるべきだった。
 しかし、真横でグウェンダルの様子を伺っている魔王陛下は、そのことに気付いてはいない。
 唯一稼働しているグウェンダルに、家庭教師をさせようとしているのがその証拠だ。
 もう定番となってしまったため息を一つついて、グウェンダルは有利を見据えた。
「あの書類が見えるか。向かって左側の、低い方がお前のこなさなければならん書類だ。ちなみに右は私の分だ」
「げーっ! いつもより多くないか、アレ!」
「昨日の騒ぎのせいで、少し滞っているのだ」
 そう告げれば、有利はなるほどとすんなり納得したようだった。それ程に、昨日の実験失敗は酷かったのだ。王佐がこの場にいないのが何よりの証である。
 しかし、有利の嫌そうな顔はそのままで、今にもため息をつきそうだった。
「おれ、読書してる場合じゃない……な」
「判って頂けて何よりだ。まずは半分でいい、片付けろ。終わったら、その本の判らない単語は私が教えてやる」
「お、言ったな。男なら二言はなしだぞ」
「判った判ったから、さっさと取りかかれ」
 眉間に指先を当てて、揉むように動かす。グウェンダルの動作を見ながら、有利は「はいはーい」と軽い返事をした。
 踵を返して、自分の立派な執務机へと向かう。
 とりあえず、今のところやる気はあるようだ。それならば、そのやる気があるうちにさっさと終わらせてしまうに限る。グウェンダルも本棚から離れ、机へ向かう。
 己の椅子に腰掛けるよりも前に、まずは有利の分の書類を彼の目の前に積むことも忘れない。
 有利は眉間に皺を寄せたが、それもすぐに消えてなくなる。
「ちゃっちゃと終わらせないとな」
 有利はペンを握り、一枚目の書類に署名を書き出す。黒いインクが、じわりと紙に染み込んでいった。紙の上には有利の無国籍文字が躍る。
「少しは書類を読もうとは思わんのか!」
「だって、もうサインするだけなんだろ?」
「それはそうだが、それでも少しは目を通す努力をしろ」
「全幅の信頼を寄せてるって事で今回はオッケーにしない?いつかはちゃんとグウェンダルの負担が減らせる様に頑張るよ」
「まったくお前は……」
 実際の所、毒女すら読めないような状態で、これらの書類が読めるとはグウェンダルとて思っては居ない。サインさえあれば後は他の者が進めるし、サインをしてもいいと思える案件しか有利の方には積み上げていないので、読もうが読むまいが関係ないと言えばないのだ。
 そうは思っていても不満がない訳ではないが、先程から繰り返しているように時間も惜しい。
 今は時間を優先するべき時だと割り切り、グウェンダルは了承を待っている有利の頭にポンと手を置いた。
「期待はしていないが、待っていてやろう」
 そのままくしゃりと撫でると、有利はくすぐったそうに首を竦めた。有利の髪は、触れると思ったよりも柔らかくて、少し驚く。
「そのまんま期待しないで待ってた方が、あとで喜び増すと思うよ。おれの目標は、グウェンのここ、真っ平らにすることだからな」
 にやっと笑う有利の左手が伸びてきて、眉間に触れる。さするようなその動作に、心臓が跳ねた。しかしそれも一瞬の事。
 左手はすぐに離れて、有利自身もさあお仕事お仕事っと書類へと向き直る。相変わらず内容を読んだりはしていなかったが、今はもういい。
 グウェンダルも自分の机に戻り、書類の選り分けに戻らねばならない。
 王の仕事が終わったならば、王の家庭教師という大役も待っている。悩みもやる事も尽きはしないが、いつかは軽減する日が来るかもしれない。
 午後の執務室には、軽やかに踊るペンの音が響いていた。




end
2009 06 24
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