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クローゼット



「グーウェンダール!」
 フォンカーベルニコフ卿アニシナ嬢の楽しそうな声が、城内の廊下に響き渡っている。
 彼女が探しているのは、毎度おなじみ幼なじみのフォンヴォルテール卿グウェンダルである。
 逃げられて十分が経過しているが、未だ見つかってはいない。
 そしてその十分間、城内の至る所で彼女の声が響いていた。
 彼女の声を聞いた者は皆一様に、また実験台にされるであろうグウェンダルに同情の念を寄せ、心の中でグウェンダルの為にそっと涙を流すのだった。
「グウェンダル、どこです! いい加減に出ていらっしゃい。何もとって食おうという訳ではないのですよ?」
 アニシナ嬢の声は、よく響いた。
 彼女の細いが力強い右手に握られた、毒女印の魔動拡声器のおかげである。
 逃げ隠れしているグウェンダルにも勿論彼女の声は聞こえており、その声が彼の名を呼ぶたびにびくりと体を震わせていた事は、本人と共にいた者しか知らない。



「なぁ、アニシナさん今度は何発明したんだ?」
 血盟城内の普段はあまり人の立ち入らないような一室の、小さめのクローゼットの中から、ぼそぼそとしたしゃべり声が聞こえる。
 まだ若いその声の疑問に、腰にくる渋い重低音が答えた。
「……魔動発熱機ピッカリーノII世・光合成用だ」
 声の主は第二十七代目国王・渋谷有利と、毒女に追われているフォンヴォルテール卿グウェンダルである。
 二人は狭いクローゼットの中で肩と肩を寄せ合い、外に漏れ聞こえないよう音量に気をつけながら、声を出している。
「そんなに危なそうじゃないじゃん」
「I世は植物が一瞬にして消し炭になり、私も火傷を負った」
 その火傷の度合いがいかほどのものか、ユーリは尋ねる気にはなれなかった。
 きっと答えてはくれないだろうし、答えてくれたとしても、その内容はこの前グレタの読んでいた毒女シリーズの最新刊に載っていたような話に違いないのだ。
 思い出しただけで怖い。
「それにしても、いつまでここでこうしてる気? アニシナさんが諦めるまで?」
 きっと諦めないだろうという言葉は飲み込む。
「…………」
 グウェンダルは予想通りの黙り。グウェンダル自身、考えていないのだろう。
 いかに毒女の魔の手から逃れるか、今のグウェンダルにはそれしかないのだ。
 けれど、今まで一度として逃れられた試しがない。それでも、逃げずにはいられないのだから、何とも哀れな話である。
 とにもかくにも、今ここから迂闊に動けば、グウェンダルの悲鳴が響き渡るまでの時間が短くなるのは必至。
 結局、大人しくクローゼットの中で野郎二人縮こまっているしかないのだ。
「大体、お前はどうなんだ」
「何が?」
 潜められた声は聞き取りにくいが、潜めなければ発見率は上がってしまうのでどうしても潜め続けなければならない。
 話さなければそれでいいのだが、なんとなくどちらも会話を途切れさせるのを避けている節があった。
 それが何故なのかは、今の二人の思考にはない。
「なぜここに来た」
「なぜってそりゃ……」
 逃げてきたのだ。
 グウェンダルがアニシナから逃げ続けこの部屋に隠れようとしたのと同じく、ユーリもまた逃げて隠れようと、たまたま目の前にあったこの部屋に飛び込んできたのである。
 いくつか立ち並ぶクローゼットの中から、ユーリがこのクローゼットを選んだのは本当に偶然でしかなかったが、中に先住者がいたのには驚いた。
 ましてやそれがグウェンダルであったから、ユーリの驚きは倍増だ。
 堅物でいつも眉間に皺を深く刻んでいるあのグウェンダルが、怯えて隠れている。これを驚かずに何に驚けと言うのだ。
 結局、迫り来る追っ手の気配を感じ取り、他に隠れ場所を探す時間も惜しかったので、こうして二人で一つのクローゼットに隠れることになったのだが、二人も隠れ場所にと選ぶような所に隠れていたら、それこそ見つかりやすいのではないかという不安はずっと付きまとっている。
 しかも、一人が見つかればもう一人も自動的に見つかる。
 スヴェレラで、鎖で繋がれていた時同様、まさに一蓮托生である。
「どうせギュンターあたりから逃げてきたのだろう。自分に課せられた仕事ぐらい、自分でこなせ」
「ちっげーよ! 今日の分は終わらせたから、遊びに行こうとしてたんだよ」
 グウェンダルは訝しげに表情を歪めた。
「ならば何から逃げている」
「……ヴォルフラムが、ヌードモデルになれって迫ってくるんだ」
 今までは下半身を守ることは許可されていた。なのに、今日に限って下も脱げときた。
 裸を描くのが一番上達するんだと、ヴォルフラムは鼻息荒く力説していたが、そんなこと知ったことではない。
 断固拒否したがヴォルフラムは聞く耳持たず、それどころか無理矢理脱がそうとするので、ユーリは脱走を図ったのだ。
「だって裸だぜ、裸。スッポンポン! 風呂とかならともかく、部屋で人に見られながら裸になんかなれるかって」
 想像しただけで恥ずかしい。
 ユーリの話を聞き終えたグウェンダルは、溜息を一つ。その溜息が何の溜息なのか、ユーリには分からない。
「ともかく! おれは裸にはならないぞ」
「ならば本人にそう言えばいいだろう。あいつだって馬鹿じゃあない。本気で嫌なのだと分かれば、諦めもするはずだ」
「おれもそう思ったけどさー。目がマジなんだよな、まるでギュンターみたいに」
 ギュンター(中身)のようなヴォルフラム。
 想像して、二人は同時に溜息をついた。
 そりゃ仕方ないという空気がクローゼットの中に充満する。
「でも、流石にもう諦めたかもな。だって、結構長いことここにいるけど、ヴォルフが探してる感じはしないし」
 聞こえるのはグウェンを探し彷徨うアニシナ嬢の声のみである。
「アニシナさんもちょっと遠ざかったみたいだし、おれ行くわ」
 アニシナさんに会っても黙っといてやるからさと有利は笑いながら、クローゼットの扉に手をかける。
 バタンと大きな音が響き、グウェンダルとユーリの体がびくりと震えた。
 ユーリの手はクローゼットの扉に触れてはいるが、開けるには至っていない。
 音を立てたのは、クローゼットの扉ではなく、この部屋の扉だ。
 それを察知したグウェンダルは、ユーリの腕を掴んで引き寄せ、扉から離す。
 密着した体からは、どちらともつかない鼓動が伝わってくる。
 グウェンダルはユーリを強く抱き寄せたまま、じっと声を殺してクローゼットの向こうに意識を集中させた。
 けれどユーリは、意識を外に向ける事が出来ない。
 力強い腕が、ユーリを全く動けなくさせていた。
 嗅ぎ慣れない匂いが、ユーリの嗅覚を嫌と言うほど刺激して、それがスヴェレラで嗅いだことのある匂いであると、グウェンダルの匂いなのだと分かると体はますます硬直する。
 服越しに伝わる温もりが、緊張感が、ユーリの鼓動を早めていく。
 コツコツと靴音が近付いてくる。
 ユーリを抱き寄せているグウェンダルの腕に、ぐっと力がこもった。
 匂いと温もりが強くなり、どうしていいのか、ユーリには分からなくなってしまう。
 外の足取りは軽く、クローゼットのすぐ側までその人物はやってきていた。
 見つかったかと不安と焦りがグウェンダルを包み込んだその瞬間。
「ちょっとー、その部屋は違うわよー」
 女性の暢気な声が遠くから響いてくる。
「あれ、ここじゃなかった?」
 今度は近くから、別の女性の声。どうやらメイド達らしい。
「違う違う、こっちよこっち。隣の部屋」
「やだもう、この辺紛らわしいのよねー」
「アンタの物覚えが悪いだけでしょ」
「言ったわねー」
 遠ざかる、二人分の声と靴音。バタンと再び扉は閉じられ、隣の部屋からバタンと扉を開ける音が聞こえてきた。
 それを確認して、グウェンダルは小さく息を吐いた。
 この部屋に迷い込んできたメイドの足取りは、アニシナのそれに似ていた為に大いに警戒してしまっていたが、勘違いであった事に心からホッとしていた。
 同時に、ユーリを離すまいとしていた腕の力も緩む。
 すると、グウェンダルに抱き寄せられ、その胸板に顔を埋め思考停止していたユーリが、音がしそうな程勢いよく離れた。
「ちちちちがったな!」
「ああ、良かった……」
「じゃ、じゃあおれ、やっぱ行くわ。また誰が来るかもわかんないし、よく考えたらこんな所におれとグウェンダルがいたらおかしいもんな。さっきも言ったけど、アニシナさんには言わないから安心して隠れててくれ。じゃあな」
 言うが早いかユーリの手はクローゼットの扉を開け、その体ごとさっさと出る。
 グウェンダルに背中を向けたまま、ユーリは後ろ手でクローゼットの扉を閉め、バタバタと大きな音を立てながら部屋を飛び出した。
 グウェンダルが何か言いたそうにしていたが、そんな余裕は与えない。
 ユーリ自身、グウェンダルの言葉を聞くような余裕はなかった。
 ヤバイヤバイヤバイ!!
 廊下を走り出たユーリの心中は、穏やかじゃない。
 顔が火照っている気がしてならなかった。
 真っ暗闇の中、抱き寄せられ胸板に顔を埋めていたユーリは、その感触がまだ離れずに訳も分からず焦燥感ばかりが募る。
 息苦しかった。
 体が熱かった。
 それはきっと、クローゼットの中の空気が淀んでいたからだ。締め切ったまま二人も人が入れば熱もこもる。
 そのせいだ。
 決して、グウェンダルに抱き寄せられたからじゃない。
 グウェンダルの匂いを、感じてしまったせいではない。
 ユーリは自分に言い聞かせるように、そう考え続ける。
 広い血盟城の城内を、ユーリは未だ残り続けるグウェンダルの体温と、グウェンダルの匂いを消し去ろうと無我夢中で走り抜けた。
 ユーリを支配しようとしているこの気持ちを何と呼ぶのか、とても考える余裕などなかった。



 クローゼットの中に取り残されたグウェンダルは、閉まる間際にちらりと見えたユーリの顔が赤く染まっていた事に気付き、そのまま動けなくなってしまっていた。
 段々と遠ざかっていくユーリの足音を聞きながら、疑問が、グウェンダルの脳裏に浮かぶ。
 なぜ、顔を赤くしていたんだ。
 この中が暑かったのか。緊張や不安で染まったのか。
 けれど、グウェンダルの網膜に焼き付いて離れないあの表情は、羞恥心の現れに見えた。
 なにが彼の心を揺さぶったのか。
 思い当たる節は一つしかなく、けれどそれはあり得ない結論を示している。
 この結論ではあまりに自分が自意識過剰であるように思え、頭を振って否定するが、ユーリの表情が邪魔をする。
 そのまま、グウェンダルは隠れている事も忘れ、クローゼットの中で一人思いを巡らし続けた。
 眉間の皺は、あまりにも深かった。



end
2005.11.02
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