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cheek



 その日、フォンヴォルテール卿グウェンダルは相も変わらず当代魔王陛下に代わり、様々な書類や計算式に囲まれていた。
 勿論、ヴォルテール地方の居城ではなく、血盟城で。
 本来ならばこれらの書類は全て我らが魔王陛下のものであるのだが、当の魔王陛下はギュンターにこの国についての歴史やら文化やらを詰め込まされている最中である。
 長い間、それはそれは深く刻まれていたグウェンダルの眉間の皺が、ほんの少し解れたのは夕方の事で、一番の懸念事項に片が付いたからである。
 当代魔王陛下である渋谷有利はやたらと“地球”のシステムを導入したがる。
 今日グウェンダルの眉間の皺を深く深くしていた事柄も、それに関係している。
 グウェンダルはユーリの希望と、国の現状と、そして何より予算と、それぞれの間に立ち、どうにか折り合いをつけるための作業を延々繰り返していたのであっ た。あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たず。そんな状態からの脱却に、グウェンダルも思わずホッとしてしまう。こちらもあちら もどうにか立たせることに成功したのだ。
 元々この国にあったシステムにはあまり口出しはしないが、というより出来ないのだが、その分自分が言い出したことに関しては煩いぐらいに関わってくる。
 今回のことも、城内で出くわせば「あ、グウェンダル、やっほー、元気……じゃーないみたいだな。やっぱそれっておれのせい? ところでこの前おれが言ってたあれ、どうなった?」等と阿呆丸出しでありながらも進行状況を尋ねてくる程には、気にかけているようだった。
 今回の件というのは、魔王奥に仕えていた筋肉ムキムキな魔族達を、その前に立案された義務教育のための教師として各地に派遣することについてであった。
 大まかな概要は決まったので、あとはこれを立案者であるユーリ本人に説明し、承諾を得られれば終わりだ。細かい事はまた他の者と話を進めていけば良い。
 これで納得すればいいが……とグウェンダルは一度は和らいだ眉間の皺をまた深くして、目を閉じた。
 脳裏にはあの黒髪と双黒の瞳を持つ魔王の姿が浮かぶ。思い浮かべたユーリのその表情はバカみたいに弛緩しているのに(実際の所バカなのだろうが)、憎めない。
 脳裏に浮かぶ彼を散らすように頭をふるふると左右に振り、グウェンダルは彼にしては珍しく、のろりと立ち上がる。
 纏めた書類の束を持ち、枚数を確認してから、ゆっくりと歩き出した。
 その歩き方は威厳に満ちていて、某毒女の“もにたあ”となっている時の彼とは、まるで別人のようである。
 グウェンダルが目指すは第二十七代目眞魔国国王・渋谷有利。
 何だかんだで、彼の主である。



 執務室や資料室、中庭に馬小屋、王の寝室、更には王佐の部屋まで、グウェンダルは書類の束を持って血盟城内を彷徨っていた。
 それもこれも、一つ所にとどまらない魔王陛下のせいである。
 王佐の話によれば、とうに今日の授業は終わり、肝心の魔王陛下はグウェンダルの弟達と共に、城中を見て回っているらしい。
 初めてこの城に足を踏み入れた時ならいざ知らず、今更城内見学もあるまいに。
「嗚呼! 私もご一緒したかったのにぃぃ! 陛下ー!」
 黙っていれば見目麗しい王佐の叫びを聞かされ、グウェンダルの眉間の皺はより一層深くなる。
 叫び続ける王佐をそのままに、グウェンダルは書類の束を持って自室に戻ることにした。
 実に無駄な時間を過ごした。
 最初から、あっちを部屋に呼び付ければ良かったのだと今更ながらに気付いて、グウェンダルは溜息をついた。
 どうも調子が狂う。
 疲れているのだろうかともう一つ溜息をついて、グウェンダルは馴染みのある自室の扉を開く。
 一体何をしにこの部屋を出たのやら。
「そもそもなぜじっとしていられないのだ」
 怒りの滲む呟きと共に扉を開ければ、出る前と変わることのない空間がそこにはあるはずであった。
 しかし、扉を開けたその先には、この部屋には普段は寄りつかない人物の姿。
「何を、している」
 思わず口をついて出る言葉には、純粋に驚きだけが含まれている。
 部屋の隅に置かれた長椅子に一人座っているのは、見間違うことすら出来ない、この国にたった一人の双黒の少年。
 今までグウェンダルが探していた張本人、ユーリである。
 しかし、グウェンダルが部屋に入ってきたというのに、当のユーリは何の反応も示さない。
 頭を垂れて、まるでがっくりと肩を落としているかのように、長椅子に座ったままである。
 ピクリとすらせず、固まっている。
 何事かと訝しんだグウェンダルは、自分では気付いていなかったがかなりの大股で真っ直ぐに長椅子に向かう。
 ユーリの目の前までやってくると、、グウェンダルはしゃがみ込み肩の落ちているユーリの顔を覗き込み、それから、ゆっくりと溜息をついた。
 呆れの溜息である。
「なぜここで眠っているんだ」
 ユーリは座り心地の良い長椅子に、座ったまま寝息を立てていた。
 ぐらぐらと揺れたりもせず、器用なものだなと変なところで感心してしまう。
 規則正しい寝息。半開きの口。涎は垂れてはいない。
 そんなユーリの無邪気な寝顔は、王佐が見たらば失血死してしまうのではないかと思うほどであったが、そこはグウェンダルである。ギュンターのように鼻血を 滝のように流すことなど勿論しない。ほんの少し微笑ましい気持ちになっただけである、と、本人は思っている。
 ユーリの寝顔効果で、あんなに深く刻まれていた眉間の皺が、今はもうほとんど見られない事に気付いている者は一人としていない。
 グウェンダルは膝を床から離し、目の前のユーリを起こさぬように静かに立ち上がる。
 そうしてそのまま、空いている彼の左側に腰を下ろした。
 腰を落ち着けると、ユーリの方を見ようともせずに、グウェンダルは書類の束に目を落とす。
 隣で暢気に寝息を立てているこの大馬鹿魔王が起きるまでに、改めて綴りや内容を確認しておくつもりだった。
 そのままグウェンダルは無言で十二枚書類を読み進め、十三枚目に突入しようと腕をほんの少し動かして紙をめくった時だ。
 こつんと腕にあたる感触。
 視線を己の右腕に向ければ、黒い塊が寄り添っていた。
 漆黒のその髪は、柔らかそうに小さく揺れた。
 どうやら起きたわけではなく、むしろ更に深く眠りに落ちたようだった。
 グウェンダルの視線は黒髪に注ぎ込まれ、あそこがつむじか可愛いななどと病的な事を考え始めている。
 手の中の書類の束の事は、既にさっぱりぽんと意識から飛んで行ってしまっていて、普段とは違う距離感が、グウェンダルを冷静ではいさせてくれない。
 普段ユーリから近付いてくることはほとんどないし、グウェンダルから近付く事も、勿論ない。
 これだけ近い距離にお互いの身を置くのは、手錠で繋がれていたあの時以来だ。
 一連の事件を思い出すときには、右手首が僅かに疼く。まったく、こいつに関わるとろくな事がない。
 けれど、悪いヤツではないし、嫌いではない。
 この目の前で揺れる柔らかそうな黒髪も、今は伏せられていて見ることの出来ない漆黒の瞳も、弟たちに向けている笑顔も、そして、魔王としても、嫌いではない。
 そう、嫌いではないのだ。
 暢気に寝こけているこの少年の事を……。
 書類を持っていないグウェンダルの右手が、そっと持ち上がる。
 長い指先は、静かにユーリの左頬に触れ、そして……。
「ぎゃあ!」
 ぐにっといきなり頬を掴まれたユーリの口から、悲鳴が上がる。
 グウェンダルが眉間の皺を刻んだまま、ぐいぐい頬を引っ張れば、ユーリはいひゃいいひゃい!と抗議をするが、己の頬を抓っているのが魔族似てねー三兄弟の長男だと知ると、みるみるうちに目をまん丸にしていった。
 もともと大きな瞳が、見開かれて更に大きくなる。
 ユーリのその姿は、自他共に認める小さくて可愛いもの好きであるグウェンダルには、ジャストミートである。
「ぐうぇん?」
 寝起きのせいか、どこか舌っ足らずなその口調は、やっぱりグウェンダルにジャストミート。
「お目覚めか、陛下」
 心に起こる動揺を必死に隠しているグウェンダルの口調は、いつものそれと何ら変わることはない。
 ユーリも、グウェンダルの動揺には気付いた様子はない。ユーリ自身、大いに動揺していたからだろう。
「……おれはなんで抓られてるんでしょーか」
 その言葉に、グウェンダルはユーリを抓っていた手をフンと離すが、質問に答える気はさらさらなかった。
 ちなみに答えは照れ隠しだ。
 ユーリの日に焼けた頬に、ほんの少し、グウェンダルの指の跡がつく。
「グウェンダル?」
 開放された左頬を押さえながら、覗き込んでくるユーリの訝しげな瞳に耐えきれないグウェンダルは、左手に持っていた書類の束でユーリの頭をはたく。
「お前が気にしていた件の書類だ。目を通しておけ」
「え? あ、魔王奥のあれ? もうやってくれたのか! うわー、さっすがグウェン、仕事が早いなー」
 嬉しそうに笑うユーリの笑顔は、珍しくまっすぐにグウェンダルに向けられていて、見慣れていないグウェンダルの心臓に与える刺激としては最上級だ。
「今すぐ読んだ方がいいかな。あー、でも、おれの言語力じゃ無理だよな。んー」
 唸りながら、ユーリは目を閉じて紙の上に指を滑らせる。凹凸さえあれば、ユーリには普通に目で読むよりもずっと簡単に文章が理解が出来るのだが、なかなかそうはうまくいかない。
「あんたって筆圧強くないのな」
 紙は上質な上に、凹凸は読み取れるほど無かった。
 参ったなと呟きながら、今度は己の力のみで読んでみる事にしたようだった。
 うんうん唸りながら、グウェンダル製の書類と睨めっこを試みている。
 が、その目線は一行目から一向に進んでいる様子はない。
「……貸せ」
 ユーリの目の前に手を差しだせば、何の躊躇もなく書類はグウェンダルの手に戻ってきた。
「このぐらいさっさと読めるようになれ。仕事が一向に減らんどころか、増える」
「すいません……」
 がっくりと項垂れるユーリをよそに、グウェンダルは書類の一枚目から読み上げ始める。
 ユーリ曰く腰にくる重低音が、すらすらと淀みなく読み上げれば、その内容はユーリの耳にスルスルと入っていく。
 真面目に聞き入っているらしいユーリを横目でちらりと見たグウェンダルは、ほんの少し表情を和らげて、心なしかユーリが何とか理解出来る程度にゆっくり書類を読み上げ続けた。
 そのままユーリが「アリガトウゴザイマシタモウケッコウデス」と片言で言うまで、延々と。



end
<2005.07.28>
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