聞いてよ先輩


(ぼっちゃん:アニス・マクドール)


 *

 シエラがトラン共和国に足を踏み入れたのは、気が向いたから以外のなにものでもなかった。
 尋ねたい人がいるわけでもなければ、見たいものがあったわけでもない。たまには賑やかな場所に身を置くのも悪くないかと思い、都市同盟軍へ力を貸していた時分に訪れたこの国を思い出した。ただそれだけのことだ。
 長居をするつもりはなかったが、旅人を歓迎しながらも踏み込んではこない距離感がそれなりに心地よく、首都であるグレッグミンスターを訪れてから既に三十日ほどが過ぎている。
 時刻は夜。すっかり馴染みになりつつある食堂から定宿への帰路、シエラはふと足を止めた。
 見覚えのある人物が、人通りの多い道の向こうからこちらを見ていたからだ。
 この三十日の間に知り合った者ではない。もう少し前、ここではない場所で会ったことがある。
 名は確か――。
「……アニスか」
 口に出せば、連動するように記憶がするりと引き出された。
 都市同盟軍に力を貸していた頃幾度か顔を合わせ、多少の会話もしているがそれぐらいだ。見た目はシエラの好みではなかったが、物騒なものを右手に宿していたのでその情報だけは彼女の中に確りと残っている。
 生と死を司る紋章の宿主であり、トラン共和国を打ち立てた英雄。
 ならば彼がこの場にいることには何の不思議もない。ここは彼の故郷だ。
 名を呼んだからか、彼は闊歩する人々の間をすり抜けてシエラの前までやって来ると、やあと言った。
「こんばんはシエラ」
 それは驚くほど穏やかな声音だった。
 かつて顔を合わせていた頃、彼がこんな穏やかさを纏っていた記憶はシエラにはない。もっと陰気な顔をして、いつもヒスイたちの殿を務めていたように思う。あまり行動を共にすることはなかったし、彼に対してさして興味もなかったので既に朧気な記憶ではあるものの、今の彼とは随分印象が異なっている。
 少なくとも、わざわざシエラのところへ挨拶に来るような人物ではなかったはずだ。
 あれから長い時間が経った訳でもない。それなら、この街が彼をそうさせているのだろうか。
「なんじゃ、おんしの故郷を荒らすつもりはないぞ」
 腕を組んで気怠げにそう言えば、彼はその凜々しい眉を下げ苦い笑みを浮かべる。
「牽制だと思われているなら心外だ。珍しい人に会ったから声を掛けにきただけだよ。いつからこっちに?」
「ほんの一月ほどじゃな。そろそろ移るかと思っていたところではあるが」
「そうなんだ。グレッグミンスターは楽しめたろうか」
「それなりに、というところかのぉ。飽きはしなかったが、如何せん人が多すぎるわ」
 例えば今だってそうだ。祭りでもないのに通りを歩く人の数は驚くほど多い。ぶつかるほどではないにしろ、夜にこれだけの人間が老若男女問わず出歩いているのは、なるほどそれだけ街の治安が良いのだろう。
「曲がりなりにも首都だからね。貴方が去るまでの間、もし何かあれば警備隊を頼るといい。あちこちに立っていたり見回ったりしている兵がそれだ。彼らは頼りになるよ」
「は。巻き込まれるような野暮に見えておるのか?」
「女性の一人旅だ、貴方にその気が無くとも向こうから面倒が寄ってくることはあるだろう。例えばあんな風に」
 突如、シエラの背中側から男の喚く声が響いた。億劫になりながらも振り返れば、太った男が街ゆく人々に怒声を浴びせているのが目に入る。男の発する言葉は意味を持たず、顔は赤い。酔っていることは明らかだった。繁華街ではたまに見られる光景ではあるが、見ていて気持ちの良いものではなかった。
「実に無粋じゃな」
 シエラの吐き捨てたセリフが男の耳に届いたとは思えない。まだまだ相当に距離があり、シエラの声量はアニスにだって聞き取れたか分からないほど小さいものだ。だが、男は確実にシエラとアニスを見た。足をふらつかせ、何かを喚きながら二人の元へと近付いてくる。
 他の人々が面倒そうに男を避けて関わらぬよう通り抜けていく中、臆することなく視線を注いでくる二人に不快感を持ったのかもしれないし、余裕そうな態度が男を刺激したのかもしれない。理由など二人に分かろう筈もないが、目を付けられたことだけは間違いなかった。
 辺りの空気が剣呑さを帯び始める中でも、シエラは身動ぐことなく男がやってくるのを待った。絡まれたところであの程度の者は軽くいなせる。
 それはアニスも理解しているだろうに、彼はシエラの前に体をさり気なく滑り込ませると、男の視界から彼女を隠した。
「おんし、わらわの騎士にでもなったつもりか」
「どちらかと言えば、酔っ払いの方を守ってる気分だけど。……あ」
 アニスの言葉に反応するように、シエラは男の方へ視線を向ける。いつの間に現れたのか、二人組の青年が男に対して何やら話しかけていた。二人組は帯剣こそしているが鎧は着ていないので兵士ではなさそうだ。
 男は二人組にも当然のように怒鳴り散らしていたが、時間が経つにつれどんどんその声量は小さくなっていく。離れた場所にいるシエラには何も聞き取れなくなった頃、男はくるりと踵を返した。その背を支えるように二人組が付き添って、三人は繁華街の向こうへ消えていった。そうして、何事もなかったかのように賑やかなだけの夜が戻ってくる。
 連れ合いだったのだろうかと考えていれば、アニスが「ほら」とシエラを振り返った。
「警備隊は頼りになるだろう」
「今の二人組がそうじゃと?」
「うん。人の多い場所には私服の隊員も多いんだ。あの先に詰め所があるから、多分そこへ連れていったんだと思う。酔っぱらいの保護だね」
「保護とはまた随分と手厚いことじゃな」
 適当にのしてその辺に捨て置けば良いものを、とシエラは口に出さずに思った。そんなシエラとは対照的に、アニスは男たちが消えていった道の先を見つめながら「それだけ平和だということだよ」と変わらず穏やかな口調で言う。
 それは間違いないだろう。賊などのならず者がいない――とまではいかないが、それでもこの街にだけ限って言えば遭遇率は低い。この一月で言えば酔っぱらいが精々だ。
「平和ボケしそうじゃな」
「誰かが泣くより余程いい」
「おんし、存外甘いのぉ」
「勿論、恒久的にこんな平和が続くとは思ってないよ。今はどこも他国に構ってる場合ではないってだけだ。何より、ここには僕がいるんだから」
 途端、アニスの目から光が消えたように見えた。暗い澱みが一瞬浮かんでは消えていく。
「……それはそうじゃろうな」
 シエラとて詳しくはないが、彼の宿す紋章は争いを呼ぶと言われているのだ。この国で数年前に起こっていた内戦とて、この紋章が引き起こしたものである可能性は大いにあるだろう。
「それもあって、僕も近いうちにここを離れようと思っているんだ。だからまたどこかで会うかもしれない。その時はよろしく、先輩」
 顔を上げれば瞳には光が戻っていて、からかうようにアニスは笑った。こうして見れば彼はただの少年で、呪いを背負っているようには到底見えぬ。本来であれば明るい場所で過ごせただろう気質が見えて、シエラの憐憫を誘った。それを表に出すことは勿論しないけれど。
「何が先輩か。そうそう会うことなどなかろうよ」
 むしろもう二度と会わないかもしれない。月の紋章も戻った今となってはシエラの行く先は彼女の気持ち一つだ。世界は広く、人を避けて動くであろうアニスと約束もなく出会う確率などほとんどないに等しい。何より、会う理由もない。
「だからこそだろう? 滅多に会えないからこそ、会えた時にはこうして話せたら嬉しいと僕は思う」
「おんし、わらわに気があるのか?」
 口説いているのかと思い尋ねたが、彼はまさかと笑った。
「今は他に目をやれる程の余裕はないんだ」
 つまりは恋人がいるのだろう。その紋章を宿しておいてよくぞ恋人を持つ気になるものだと思いはしたが、目の前にいる甘ちゃんがそれを悩まぬ筈はない。シエラが彼の右手をちらと見たからか、彼は自身の右手を撫でて眉を下げた。
「シエラは優しいね」
「言っておくが心配している訳ではないぞ。物好きだと思っただけじゃ」
 アニスも、その相手もだ。
「本当に物好きなんだ。だからこそ手放せなくて困ってる」
「おい、惚気なら聞かぬぞ」
「確かに惚気かも。そうだ、もし次に会えたらその時は聞いてくれないかな」
「会えたらの」
 安請け合いをしたのは、会うことはないだろうと思ったからだ。そんなことはアニスも理解しているだろうに、彼は約束だと静かな笑みを浮かべた。嬉しそうですらある。この人懐こさは今までに見たことのない一面で、やはり別人のようだった。社交辞令で言っている訳でもないようで、彼の瞳は真摯なそれだ。シエラはますます目の前の男のことが分からなくなった。
「まったく調子が狂う。ところでおんし、あれは何じゃ」
「あれ?」
 シエラの視線の先では、先ほど酔っ払いを連れて行った二人組が、道の先でこちらを真っ直ぐに見つめていた。正確にはこちらではなくアニスを、だろう。シエラとは視線が合わなかったからだ。
 用があるのかとも思ったが二人組がそれ以上近付いてくることはなく、ただその場に立っているばかりだった。警備隊の人間であるならその名の通り警備をしているのかもしれないが、だとしたらその対象は明らかにアニス一人だ。
「ああ。彼らはさっきも言ったように警備隊で、同時に僕の連れでもある」
 そう告げるアニスの表情は、声と同じく柔和なそれだ。どこか甘さを含んでいるように感じるのは気のせいだろうかと、シエラは目の前の男と少し遠い二人の青年を交互に見遣る。
 よくよく顔を見れば、男は二人ともタイプの異なる美男子であった。
「なんと……。おんし、イケメンを二人も侍らせておるのか」
「人聞きが悪い。ところでイケメンって?」
「ふむ、平たく言うなら顔の良い男と言ったところかのぉ。近頃若者の間で流行っている言い回しじゃが知らぬのか」
「あまり若い人と話さないから。でも彼らが褒められているなら嬉しいよ。紹介しても?」
「よいのか、わらわが奪ってしまうやもしれぬぞ」
 シエラが目を細めて冗談を言えば、アニスもまさか、と軽い調子で言う。
「貴方の好みはもっと線の細い人だろう?」
「む」
 その通り、確かに二人とも美男子ではあるがシエラの好みからは外れている。筋肉ダルマでこそないものの、佇まいが明らかに兵士然としている彼らは、シエラにとっては些か厳つ過ぎた。もう少し線が細く優しげな雰囲気が彼らから出ていれば、先程の発言は冗談ではなくなっていたかもしれない。
「それに、シエラがいくら魅力的だといっても彼らが靡くことはないよ。だから大丈夫」
 絶対の自信があるとアニスは言外に語っている。彼らにも恋人、あるいは伴侶がいるのだろうとすぐに察することは出来た。そもそもが美男子であるのだから周りが放っておくはずもない。その上、他者にこれだけ強く言わせるほど、普段から恋人との熱烈な関係をアピールしているのだとしたらアニスの発言にも納得はする。そう考えていたシエラに、アニスは続けて言った。
「言ったろう、物好きなんだ。二人ともね」
 彼の表情は変わらず柔らかい。当たり前のことを当たり前だと言っているだけで、そこには照れもなければ悪意も感じられず、シエラは驚きを抱きつつも同時に心底呆れた。
「惚気は聞かぬと言ったばかりであろう!」
 アニスは悪戯少年の顔をして、愉快そうに笑う。
「ごめん。たまには誰かに自慢したくて」
「まったく、前はどれだけ猫を被っておったのじゃ」
「都市同盟での話かな。それなら、目立ちたくなかったから大人しくしていただけだよ。……少し疲れていたのもあるかもしれない」
 少しどころではなかろうと思ったが、シエラはそれを飲み込んだ。彼を待つ二人組の視線が注がれる中で、いつまでも無駄話に付き合ってやるほど暇ではない。
「付き合ってられぬわ。おんし自慢の二人も痺れをきらし始めているようじゃしのぉ。どこぞへと行く途中なのであろう」
「買い物に」
「ならばわらわに構ってなどおらず、さっさと行くがよい」
 アニスの視線が、ちらと二人に向けられる。青年らの足先が地面に強く押し付けられていることに気付いたのだろう、彼は小さな声で辛抱が足らないなと笑った。
「次の機会には紹介させて欲しい。それじゃあシエラ、良い夜を」
 そう言って、アニスは二人のもとへゆったりと歩き出した。
 彼らと合流すると、アニスは振り返ってシエラに小さく手を振り、二人組もまたシエラをしっかりと見たあと頭を下げた。角度の揃った綺麗な礼は、彼らが軍人であることをこれ以上無く示している。
 三人を見送ることなく、シエラは宿への道を進む。
 宿に戻ったら荷造りをしよう。
 なぜだか無性に、北へ向かいたくなった。





 旅の途中にたまたま訪れた町は、それなりの大きさだった。
 宿の人間に評判の食堂を紹介され、夕食をそこで摂ることにしたシエラは薄暗くなってきた道を一人歩く。目的の店は大通りから一本入った場所にあるらしい。
 教えられた目印に差し掛かり、大通りを曲がろうとしたその時、進行方向から男の怒鳴り声が聞こえてきた。
 路地に目をやれば、少し先で男が誰かに絡んでいるようだ。あまり柄の良い男ではない。絡まれている方はまだ子どもだろうか。外套を纏った背中しか見えないので、子どもの風体はわからない。だが、その佇まいは凜としており、男に対して怯んでいる様子はなかった。その背中が妙に気になり、シエラは事の成り行きを立ち止まって眺めることにした。
 男は不明瞭な発音でしばらくがなり続けていたが、子どもが話しかけながら右手で優しく彼の肩を叩くと、途端にその場に崩れ落ち、わあわあと泣き出す。厳ついのは見た目だけなのか、恥も外聞もあったものではない。なんともみっともないことじゃ、とシエラは呆れた。
 泣きながらも男は何かを子どもに訴えかけている。あいつ、とか、この店、とか、聞き取れるのは単語ばかりで全容はさっぱり掴めない。子どもはそれに頷きながら男の背を支えて立たせると、男と共に近くの店へと消えていく。
 二人が店の扉を潜る瞬間、子どもの右手に何かが見えた気がした。黒いというよりは暗い、モヤのような何か。今のが気のせいかどうかは分からないが、あまりいいものではなさそうだ。関わり合いにならない方がいいだろう。
 ことが収束したのを確認したシエラは道を進み、そしてすぐに再び足を止めた。
 宿屋に教えられた店こそ、先程の二人が消えていった店だったからだ。面倒ごとはごめんだが、他に宛てもない。店の前で入るか否か少し悩んでいれば、中から扉が開かれる。
 そこには一人の少年が立って、少し驚いた表情でこちらを見ていた。纏っている外套や立ち姿は明らかに先程の子どもと同じであったから、同一人物で間違いない。
「……やあシエラ」
「なんじゃ、どこかで見た顔じゃの」
 当たり前のように名を呼んでくる彼の顔を、シエラは自身の記憶から掬い上げる。朧気になっていた記憶はもう随分と前のものだ。それでも彼に思い至れたのは、彼が普通の人間ではなかったからだった。最後に会った時と寸分変わらぬその姿と、真の紋章という取っ掛かりさえ思い出せれば、あとは数少ない彼との思い出が一緒に浮かび上がってくる。
 アニス・マクドール。デュナンとトランで会ったことのある、生と死を司る紋章の宿主。美青年を二人も侍らせていた救国の英雄。見た目は最後に会った時と変わらず、旅装束を纏っているのでシエラ同様旅の途中なのだろう。
「入るならどうぞ。さっきの人はもう落ち着いたから、今ならゆっくり食事が出来るよ」
「ふむ。ならば案内して貰おうか」
「僕は店の人間じゃないんだけど……。まあいいか」
 少年は踵を返し、店内の女中に二人いいかと尋ねる。女中に指で奥を示され、少年はシエラをエスコートするように店内を進んだ。途中の席で先程の男を見かけたが、暴れる様子も泣き出す様子もなく店員らしき男と何かを話している。落ち着いたというのは本当だったようだ。
「さっきの騒ぎはなんじゃ」
「どうも奥さんに浮気されたらしいんだ。奥さんの浮気相手がこの店の常連で、そいつを出せって店で暴れてたみたいなんだけど、そこにたまたま僕が入ってきたからお前が浮気野郎かって勘違いされてね。だから表で少し話して、落ち着いて貰った」 
「相当頭に血が上っておったようじゃのぉ」
「本当にね」
 そう笑う少年はどう見ても十五そこそこにしか見えない。勿論年若い者を好む人間もいるだろうが、あの男を夫にするような女が浮気相手として選ぶには、彼はなかなかに尖った選択肢だと言える。
 店の一番奥まで進み、二人は空いているテーブルに向かい合って座る。
 一番奥の席なこともあってか、賑やかな空気は漂っているが喧しくはないので、本当の浮気相手が現れでもしない限りは落ち着いて食事が出来そうだ。
「それにしても久しいの。おんしの彼ピッピは息災か」
「彼ピッピ……?」
「知らぬのか? これだから世俗を断っているものは」
「御覧の通り断ってないよ。紛れて生きてる」
「ならば彼ピッピぐらい知っておくがよい。なうなぎゃるたちの言葉ぞ」
「ナウ……ギャル……」
「ちなみに彼氏という意味じゃな」
 平たく説明してやれば、少年はなるほどの語尾を上げて呟きながら、分かったような分かっていないような微妙な顔をする。それから一呼吸を置いて、穏やかに言った。
「二人とも亡くなったよ」
「そうか」
「うん。あれからもう百年ぐらい経つから、そりゃあね」
 日だまりのように穏やかで温かな声と表情だった。それだけで、後悔する別れにはならなかったのだとシエラにも伝わってくる。呪いのような紋章をその身に宿しながらそれを果たしたのだとすれば、快挙と言ってもいいかもしれない。
「そうか。儚いものよの」
「だからこそいいんだと貴方も知っているだろう」
「……フン、知ったような口を利くではないか。若造が生意気な」
「良い機会だしその若造の惚気でも聞いてよ。たまには話さないと忘れていってしまいそうなんだ。次に会った時に聞いてくれる約束だったろう、先輩」
「何が先輩か。だが暇をしておったところじゃ、少しぐらいは付き合ってやろうかの。ただし奢ってもらうぞ」
「どうぞ、いくらでも」
 そう言ってメニュー表を差し出してくる彼の右手から、不穏な気配はしない。さきほど見た暗いモヤはどこにも見当たらなかった。だが、子どもの正体がアニスであった以上、あれが気のせいだった可能性は潰えたも同然だ。
「さっきの男に触れた時、何をしたのじゃ」
「ああ気付いた? 感覚的なものだから説明するのは難しいんだけど、少しだけこれの気配を出したというか、落ち着いて貰うために少し恐怖感を煽ったみたいな感じかな。体に害はないよ」
 あれだけ激昂していた男が、一転して泣き崩れた理由としては納得だ。男にしてみれば氷水を浴びせられたようなものだろう。
「随分と扱いに慣れたようじゃな」
「まさか」
「だが、おんしの彼ピッピを食らいはしなかったのじゃろう?」
 問えば、彼は眉尻を下げた。それは安堵のようにシエラには見える。
「……なんとかね」
 アニスは落ち着いた様子で自身の胸元に触れた。その下に何かがあるのだろうかと彼の首元を見れば、ちらりと金属が覗く。首飾りだろう。彼らからの贈り物なのかもしれない。
「おかげで希望は残せた。これに食われたら終わりだけど、そうでないならまたいつか彼らに会える」
 それは果たして本当に希望なのだろうか。シエラには判断しかねることだが、彼がそう思っているのならそれでいいのだろう。易々と紋章を手放すことの出来ない彼にとって、いつか彼らの魂に寄り添いたいという願いは、確かに生きる上での希望なのだ。
「なんとも気の長い話じゃ」
「だからかな、思い出を沢山くれたんだ。浮気の話はないから話せないけど、他のことなら話しきれないぐらい沢山。時間が許す限り付き合って欲しい」
「はあ。約束じゃからのぉ」
 シエラは、かつての安請け合いを若干後悔し始めた。まさか百年も経ってからこんな場所で再会することになるとは、思ってもいなかったのだ。
 メニュー表を指さしながら、これがこの店のオススメだとシエラに説明しているアニスの表情は明るい。シエラと久しぶりに会えて喜んでいるというよりは、思い出を語れることに浮かれているようだ。
 百年も経てば彼らを直接知る人間がいるはずもなく、まして惚気など聞く者はいないだろう。約束をしてしまっていたシエラを除いては。

 人の理から外れてしまった二人の夜は、見知らぬ町の片隅で賑やかに更けていった。
 
 

《聞いてよ先輩 -end-》
2024.05.24



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