ダンスウィズ


(ぼっちゃん:アニス・マクドール)

 *

 グレンシールが部屋を訪えば、そこにいたのは目的の人物ではなくその教え子ただ一人で、彼女は文机に向かって黙々と書き物をしていた。
 部屋の主であるマッシュの所在を少女に尋ねたところ、彼女は実に素っ気なく会議室ですとだけ言った。明らかに歓迎されていない。早々に立ち去った方がよさそうだと判断し、ありがとうございますと礼を述べて踵を返す。改めて出直しだ。
 扉に手を掛けようとしたタイミングで、後ろからあの、と小さく声を掛けられる。振り返れば、彼女が顔を上げてこちらを見ていた。
 会議を行うわけではないようですから訪ねても大丈夫だと思いますと、大人に対しても物怖じせず、少女は些か早口に続けた。重ねて短く礼を述べれば、眼鏡の奥の瞳から緊張が和らぐのが見て取れる。本当は虚勢を張っていたのかもしれない。
 自身の役目は終わったとばかりに彼女は再び文机へと向かい、扉は閉めていってくださいねと、やはり物怖じせずに言うのでグレンシールは少しだけ笑った。
 部屋を出て、彼女に言われた通り扉を閉める。扉の横に待機していた男――アレンは、部屋から出てきたグレンシールの手元を見て首を傾げた。
「留守だったのか」
「ああ。会議室だそうだ」
 グレンシールの手元には、地方から上がってきた報告書が部屋に入った時と同じように握られている。部屋を訪れた目的はこの報告書を軍師に渡すことであったから、目的が果たせなかったのは一目瞭然だった。
「会議か。なら出直しだな」
「いや、会議ではないらしい」
 詳しくはグレンシールも知らない。だから説明のしようもなく、とりあえずそちらへ向かおうということになった。会議室は軍師の私室のすぐ近くであったし、どうせ帰り道に前を通るので手間ですらない。
 ――パン、パン、パン。
 会議室に近付くと中から規則正しい音が聞こえてくる。それは拍手のようであったが、止まることなく刻み続けていることから、手拍子だと気付く。会議室で手拍子が響く状況は確かに会議ではないのだろうが、では何かと尋ねられれば答えに窮する。
 考えても仕方ない、とグレンシールは扉を叩いた。手拍子にかき消されないよう、気持ち強めに。
 手拍子が止まり、どうぞ、と中から軍師の声がする。少なくとも目的を果たすことは出来そうだ。
 グレンシールは迷うことなく扉を開き、そして、中に複数の人影を確認した。
 入り口に近い方から、軍師であるマッシュ、部屋の中央には密着した状態で立っている解放軍リーダー・アニスと踊り子の少女ミーナ、そんな二人のすぐ近くに立っているのは、派手な装いをした花将軍だ。
 少年と少女の姿を視界に入れた瞬間、ちり、とグレンシールの胸がざわめく。理由は明白だったが、今はどうすることも出来ない。
「なにを、なさっているのでしょうか」
 グレンシールのすぐ後ろから、アレンの困惑が言葉となって聞こえてくる。戸惑い立ち止まるアレンをよそに、グレンシールはさっさとマッシュのもとへと向かい、例の報告書ですと書類を手渡す。
 確認しますと軍師が報告書に目を走らせる中、アレンの疑問に答えたのは花将軍ミルイヒ・オッペンハイマーその人であった。
「見ての通り、アニスのダンスレッスンです! 二人もどうです?」
「いえ、我らは遠慮しておきます」
 手のひらをミルイヒに向け、アレンは丁重に断りを入れた。アレンにしてもグレンシールにしても多少は踊れるが、逆に言えば多少しか踊れない。レッスンを受ける側にしろ施す側にしろ、邪魔になることは明白だった。
「ではそちらで見学を。さあアニス、再開しますよ」
 ミルイヒの声で中央の二人はポジションを取り直し、ミーナのリードでステップを踏み始める。
 グレンシールはマッシュに対して報告書の補足説明を時折交えながら、ちらと部屋の中央を盗み見た。ワンツースリー、ワンツースリーとミルイヒの声と手拍子が響く中、テンポに合わせて軽やかに舞う少女の動きは美しい。が、彼女と共に踊るアニスの動きは、我が目を疑うほど硬い。関節の動かし方を忘れてしまったのか、普段の彼からは考えられない動きをしている。
 足下を見ながら、彼女の指示に従ってなんとか足を動かすので精一杯といった有様は、踊りとはとても呼べはしなかった。
 驚きのあまりそのまま眺めていれば、徐々にアニスのテンポが乱れ始め、ミーナとの動きが合わなくなっていく。ついには足が縺れそうになり、彼の体がぐらりと揺れた。倒れる、と思ったその瞬間、アニスの体はその場でくるりと回転させられ、気付いた時にはミーナの腕の中へと導かれていた。彼女はアニスの倒れる勢いを回転に変えさせて、転倒を防いだのだ。
 アニスの腰を抱えながら、少女はふふと笑った。 
「私が支えるから、焦らなくても大丈夫よ」
「ごめん……」
 これほど消沈する少年の姿を見たことが、今まであっただろうか。少女の腕の中で、彼は消え入りそうに小さくなっている。いつも堂々と前を見つめている凜々しさは、今の彼からは微塵も感じられない。
 珍しいものを見たと思っていれば、二人の様子を眺めていたアレンもまた、はぁー、と長く息を漏らす。その吐息は驚嘆だ。
「アニス殿にも苦手なものがあったのですね」
 しみじみと零すアレンを、アニスは体勢と呼吸を整えながらどこか恨みがましそうに見遣る。矜持を傷つけられたのかもしれない。彼は何でもそつなくこなすように見えるタイプであったし、周りにもそう見られるよう意識している節があった。彼はそれをリーダーの務めだと考えているようだったから、全うできていない現状がもどかしいのだろう。
「仕方ないだろう、うちは武人の家だ。踊りなど」
 踊ったことがないと、アニスは確かにそう言った。先程のダンスを見ているからその言葉自体は納得出来ることであったが、同時に驚きも浮かんでくる。アレンも同じことを思ったのだろう、彼はアニスに向かって「ですが」と口を開いた。
「テオ様は踊れましたよ」
「え」
 アレンの言葉に、アニスは短く驚きの声を上げる。俄には信じがたいという表情を彼が浮かべたからか、アレンはグレンシールに視線を投げ、同意を求めてきた。
「なあ」
「ああ」
 グレンシールもまた当たり前のように肯定を示せば、少年はより一層驚きを深くする。
「父が? ダンスを?」
「我らがお供した範囲では、ワルツは滞りなく。女性をよくリードされていましたし、お相手には事欠かぬようでしたね」
 アレンの言葉にグレンシールは無言で頷いた。そんな二人に視線を向けながらも、アニスはいまだ驚きから抜け出せないままのようだった。
 およそ想像もつかないと、アニスは小さく呟く。
 確かに、テオ・マクドールという人はダンスを好むタイプではなかった。ダンスパーティーの招待があれば応じはするし踊れもするが、その時間で鍛錬でもしていた方がよほど有意義だとこっそり零していたことをグレンシールは知っている。自宅で息子に見せていたのも、そうした一面の方であったのだろう。
「おや。アニス、貴方なにも知らなかったのですね。そういえば、テオは貴方をダンスパーティーに連れてきたことがありませんでしたか」
「ええ。普通のパーティーやお茶会だけです」
「それは惜しいことをしましたね。テオの堂々としたリードはそれは人気で、とあるパーティーではご婦人だけでなく男性陣までもが彼と踊ろうと順番待ちの列を成した……なんて噂もあったほどなんですよ」
「そんなことが……」
 確かにそんなこともあった、とグレンシールの脳裏に和やかな光景が浮かぶ。
 まだテオについたばかりの頃、初めて訪れたダンスパーティー会場で見た光景がそれだった。
 格式張ったパーティーでなかったこともあってか、テオに憧れを抱く貴族の若者が、踊って頂けませんかと声を掛け、テオはいいだろうと愉快そうにその申し出を受けたのだ。その手があったかと言わんばかりに、会場にいた他の男たちも続々とテオのパートナーに名乗りを上げ、あっという間に列が形成されてしまった。
 共に踊りたいと思ったことこそないが、グレンシールとアレンも憧れを抱く一人であったように、テオは同性からの人気がとにかく高い将軍だったのだ。
「アニスのお父さん、すごい人だったのね。楽しそうだわ」
「ああ、うん。そうだね、すごい人だった。噂が本当なら、きっと踊った人たちも楽しかったろう」
「本当のことですよ。私もグレンシールも列整理を手伝わされたぐらいの人気ぶりでしたし、アニス殿の仰る通り、誰も彼もが楽しそうでした」
 アレンの言葉に、グレンシールもまた当時の人々を思い出す。踊った者も、待つ者も、楽器を演奏する者も、周りではやし立てる者たちも……誰も彼もが笑顔だった。何度かテオに連れられダンスパーティーには赴いているが、あんなに穏やかなパーティーは他にはなかった。噂になるのも当然だろう。
「事実なのか」
「ええ、我らはこの目で見ていますから、間違いありません」
「同じく」
 グレンシールも同意を示せば、アニスはそうか、と小さく笑みを浮かべた。嬉しそうなそれに、ミルイヒもまた笑みを浮かべる。
「おや、少しはやる気が出ましたか。ご存知のように、テオは武芸に秀でていました。そして武芸の動きは舞踏にも通じているのですよ。つまり、貴方にも可能ということです」
「……そうでしょうか」
「そうですよ。テオとて一朝一夕でダンスを覚えた訳ではありません。最初はそれはもうひどいものでした。一体何度足を踏まれたことか……私の足の指が折れなかったのは奇跡であったと今でも思いますね」
「父にも指導を?」
「ええ、ええ、しましたとも! その私が言うのですから、間違いなどありません。貴方もテオのように、いいえテオ以上に踊れるようになります。ではまた最初からいきましょう。今の貴方に必要なのは、基本のステップをとにかく体に染み込ませることです。まだリードのことは考えなくてよろしい。そのためのパートナーです」
 アニスがミーナを見下ろせば、彼女は絶対の自信を滲ませて力強く笑う。
「任せて」
「では再開しましょう。背を伸ばして、腕の角度は平行に。いきますよ、ワンツースリー、ワンツースリー、ワンツースリー、そう、いいですよ!」
「ふふっ、頑張ろうね!」
 手拍子とミルイヒのカウントが、再び会議室に響き始める。アニスの辿々しい動きは変わらない。グレンシールは踊る二人と指導する一人を、アレンと共に見守る。
 胸に去来した痛みは、なくなっていない。アニスの腕が、指先が、ミーナに触れる度に焦燥を抱いてしまう。それが必要の無い嫉妬であることは自覚していたし、二人には疚しいところなど一切ないと分かっている。ただのダンスだ。それでもやはり、じりじりと焼かれるような心地になった。
 こほん、と小さな咳払いが正面から聞こえ、グレンシールはそちらに視線を送る。
「こちらも再開しても?」
「……申し訳ありません」
 すっかり職務を放棄していた。アニスとミーナのことは視界に入れないように意識して、体を正し、グレンシールはマッシュに向かって説明を再開した。



 ダンス教室に遭遇してから十日以上が経った頃。グレンシールは鍛錬のため、湖城の端を目指していた。東の端は、多目的広場になっている。湖城においては数少ない屋根のない場所であるから、基本的には洗濯物が大量に干されているばかりであったが、その隅は屋外訓練所として少しだけ囲われていた。
 西塔内に大きな道場が用意されているので、大半の者はそちらを利用する。こちらは穴場だ。雨こそ降る様子はないものの、空は雲に覆われ風は少し重い。こんな日はとりわけ人が少なかった。遠慮なくやれる、という理由でグレンシールたちはこちらを好んで使用していた。
 目的地にたどり着く直前、グレンシールははためく洗濯物の向こうに、二人の人影を見た。
 囲いの中に佇んでいるのは、一人は老戦士であるカイ、もう一人は彼の弟子であるアニスだ。雰囲気は和やかなそれで、武器を握ってはいるが構える様子はなく、鍛錬が行われている様子もない。
 グレンシールはその場で足を止め、洗濯物の間から訓練所を伺う。二人の会話は風に乗ってよく聞こえた。
「なんだ、情けない顔をしおって」
 カイは、呆れを含んだ声で目の前に立つ少年に向かいそう言った。
「師匠、僕に踊りは向いていません」
 少年は重いため息を一つ吐き、続いて彼には珍しく弱音を吐く。師弟という間柄故か、常の彼よりも随分と砕けた雰囲気が感じられた。それは師匠であるカイも同じで、老戦士は少年の弱音に大きく笑う。
「ははは、なんだ今頃気づいたか。お前はリズム感がないからな。歌も下手だ」
「その通りです」
「だが、棍を持たせれば踊るように操るだろう。身体能力はいいからなぁ。それで何とか誤魔化せるようになれ。一通り踊れるようになったら、稽古をつけてやる」
「では今日は」
 尋ねる少年に、カイはにっと口角を上げて笑ってみせる。いたずらっ子のように。
「もちろんお預けだ」
 頑張れ、と応援するだけしてカイはアニスを残し、その場から立ち去っていく。去り際、洗濯物の合間に佇むグレンシールの存在に気付いた彼は、顎でアニスの方を示した。あとは頼んだ、ということだろうと判断し、グレンシールは訓練所へと足を向ける。
 残されたアニスは、訓練所の真ん中で一人、姿勢を正してパートナーを迎えるように手を伸ばす。勿論、その手の先には誰もいない。けれど、きっと彼の中ではミーナの姿がイメージされているに違いなかった。彼女が羨ましいと考えてしまう自分を窘めながら、彼の挙動を見守る。一拍を置いて、足がそろりと動き出した。
 前回と比べれば、その動きは驚くほどスムーズだった。まだ硬さはあれど、一応ダンスにはなっている。上手いか下手かで言えば明らかに下手ではあったが、それでも努力のあとを垣間見て、グレンシールは少しばかり感動を覚えた。
 目が合ったのは、彼がぎこちないターンを決めた時だった。
 瞬間、ぴたりと彼の動きが止まり、彼の首筋に薄く朱が走る。グレンシールは笑顔を浮かべて、彼へと近付いた。
「アニス殿、こちらで何を?」
「分かっているくせに意地が悪いな。自主練習だよ。本当は武術の稽古をつけてもらいにきたんだが、師匠に振られた」
「そうでしたか」
「グレンシールは? 鍛錬?」
「ええ。ですが、予定を変更しました」
 囲いの中に入り、グレンシールは彼に向かって手を差し伸べる。彼はその手を見つめるだけで、取ることはなかった。
「女性役はあまり得意ではありませんが、多少なら踊れます。お付き合いしますよ。一人でやるよりは効率もいいでしょう」
「どうせなら鍛錬のほうに僕が付き合うよ」
「それほど余裕があるようには見えませんでしたが」
「なんでことダンスに関しては皆厳しいんだ」
「簡単なことです。貴方とこうして過ごす時間が楽しいからでしょう」
 小さく息を吐いて、覚悟を決めたらしいアニスは、グレンシールの手を取った。
 後悔させてやろうと不敵に笑う彼に、グレンシールもまた笑みを返す。それが開始の合図だった。

「以前拝見した時よりも、ずいぶんと様になっていますね」
「成長できているなら良かった。でも、まだパートナーをうまくリードする余裕がない」
 あと十日しかないというのに、と彼は少しばかりの焦りを滲ませる。
「十日後に何があるのか、聞いても構いませんか」
「ああ、言っていなかったか」
 足の動きは止めずに、彼はある地方貴族からダンスパーティーに招待されたのだと言った。
 招待状には、息子の成人を祝って内々ではあるが舞踏会を開催するので、解放軍リーダーに是非参加して貰いたいという旨が実にまどろっこしく記されていたらしい。あまりに忌々しそうに言うものだから、彼がその招待状を疎んじていたことはよく伝わってきた。
 その地方貴族が住まうのは既に帝国から解放されている地域だ。首都攻略が現実味を帯びている昨今、かの人は既に勝ち馬に乗っている気分なのかもしれない。この招待とて、解放軍と懇意であることを周りに示す為なのは明白だった。
「断ることは出来なかったのですか」
「マッシュが許してはくれなかった」
 資金援助を行ってくれる地方貴族は貴重だ。書状を送ってきた相手は、これまで解放軍に対し決して安くない額を援助し続け、さらには仲間を潜伏させるための場所や働き口まで世話をしてくてれている。今これを失うわけにはいかないし、これまでのことを思えば、叶えられる要望は叶えるべきだろう。アニスとてそれぐらいのことは理解している。
 だからアニスは踊れないことを正直に打ち明け、どうにか回避する方向に導こうとしたのだが、マッシュは細い目を益々細めて「テオ将軍にも困ったものですね」とぼやくと、すぐにミルイヒとミーナに協力を仰いだのだった。
 返事は既に参加で出している、というのだから回避する方向なんて最初からなかったのだ。
 グレンシールは彼の不満を聞きながら、同時に感心していた。
 これだけ喋りながらでも、彼の足が縺れることはなかったし、テンポが大きく狂うこともなかったからだ。共に踊れば、彼の上達ぶりを実感することが出来る。
「本当に、随分と上達されました」
「ミルイヒとミーナのおかげだよ。根気強くずっと教えてくれているんだ。会議室で見た時は、下手で驚いたろう?」
「正直に言えば少し」
 アニスは苦く笑って、グレンシールの腕を引き右方向に回転する。ターンも随分と上手くなっている。ミーナに一方的に回されていた頃とは丸きり違った。
「これならば、十日後には問題なく踊れるようになっているでしょう」
「ありがとう。時間があれば、グレンシールも練習に参加してくれないか。大人数で一斉に踊る場合、一番重要なのは他人とぶつからないように踊り続けることだと聞いているから、まだ不安があるんだ」
 なにせ練習はミルイヒとミーナとの三人体制である。その人数でぶつからない練習をするのは確かに難しいだろう。
 今回のようなダンスパーティーでは初めて会う人間と踊ることになるので、求められるのは正確なステップや綺麗にルーティーンを繰り返すことではない。初めての相手とも呼吸を合わせ、他者とぶつからぬよう、その場に合わせてステップを選択する対応力だ。
「咄嗟の判断力であれば得意分野でしょう、アニス殿であれば問題はないのでは」
「ミルイヒもそう言ってくれてはいるが、正直自信がない。苦手意識が強すぎるのかもしれないな。これまで避け続けていたツケが回ってきた気分だ」
 はぁ、と軽くため息をつきながら、彼は訓練スペースの中をグレンシールと共にくるくると回り続けた。
「グレンシールはフォローがうまいね。初めてなのにすごく踊りやすい。ダンスはどこで覚えたんだ?」
「もったいないお言葉です。私の場合はテオ様の紹介で、ごく短い間ですがアレンと共に基礎を習いました」
 お前たちが誘われることもあるだろうからな、と上官は二人にダンス教師をつけてくれたのだ。実際、テオだけでなく二人も踊りの輪に加わらねばならない場面はいくつもあったし、今もこうしてその時の経験が役に立っている。
「……父はなぜ、僕にダンスの教師をつけなかったんだと思う?」
 それは他意のない、純粋な疑問だった。部下には教師をつけて、息子にはつけなかったその理由を彼は欲している。だからグレンシールは、自分の知る情報を少しだけ開示することにした。
「それよりも重要なことがあったのではありませんか。たとえば、得難い友人を得た、などですね」
「テッドとの時間のため?」
 グレンシールは薄く微笑んだだけで、応とも否とも言わなかった。
 実際のところ、テオが何を思って手配しなかったのかは分からない。
 だが、テオがテッドを迎え入れる直前、アニスのためにダンス教師を探していたのも事実だ。何人か候補を見繕ってはいたのだが、テッドを迎えて以降、それ以上の選出が行われることはなかった。リストを見ながら、どうするか尋ねたことをグレンシールは覚えている。暫くは延期だ、とあの時のテオは言った。
 それまで友人らしい友人のないまま過ごしていたアニスに、友との時間を与えてやりたかったのかもしれないし、ダンスなど無くてもどうとでもなると思っていた可能性もある。あの年齢まで家庭教師をつけていなかったのだから、テオにとってダンスがさほど重要でなかったことは間違いない。
「おかげで今、こんなに困っているというのに」
 そう呟くアニスは、言葉とは裏腹にあたたかな笑顔を浮かべていて、グレンシールの頬もまた柔らかく緩んだ。

「……二人でなにを」
 アレンが声を掛けてきたのは、囲いの中を更にもう二周した頃のことだった。アレンとの待ち合わせは互いの用事が終わったら、という緩いものであったから遅刻ではない。それにしても些か遅かったが、おかげでゆっくりアニスと踊りの練習をすることが出来た。
「アレン、遅かったな」
「見ての通り、自主練習に付き合って貰っていた。二人で鍛錬なら、僕はそろそろ戻ろうかな」
 ぱっとグレンシールから体を離し、アニスはその場で伸びをする。しっとり汗ばんだ肌に、吹き抜ける風が心地よい。このところ彼と触れ合う時間が取れていなかったから、ダンスの練習であったとはいえグレンシールの心は満たされていた。
 同じく時間の取れていなかった相棒はと言えば、囲いを飛び越えてアニスのすぐ傍まで迫る。
「私も、アニス殿の自主練習におつきあいいたします! ダンスはあまり得意ではないので、指導は出来ませんが……」
 案山子ぐらいにはなれると、アレンはアニスの手を握った。だから俺とも踊って欲しいと、彼の瞳はきっとうるさいぐらいに訴えていることだろう。声音だけでもそうと分かるぐらいだ。
 真剣なアレンの眼差しを真正面から受けたアニスは、眉尻を少しだけ下げて笑った。
「休憩のあとで良ければ、付き合ってくれると助かるよ」
 グレンシールは、アレンの背面にものすごい勢いで振りまわされる尻尾が見えたような気がした。



 十日後。
 訪れた地方貴族の屋敷は大きく、古いながらも清潔で、パーティー会場も華やかではあれど豪奢ではなく、実に品良く纏まっていた。
 配されている使用人の人数や質、並ぶ料理、招致された楽団、その全てから余裕があるのだと一目で分かる。もっとも、そうでもなければ解放軍に継続的な資金援助など行うことは出来ないだろう。
 ダンスパーティーは内々のものだと伝えられていたが、とてもそうは思えない人数が、会場である広間に集められていた。
 パーティーは当主と息子の挨拶を皮切りに、滞りなく賑やかに進んでいく。
 広間の中央では、楽団の奏でるワルツに合わせて人々が思い思いに踊り、その周りでは歓談が繰り広げられている。雰囲気は厳かからは遠く、どこか陽気だ。
 当主に成人したばかりの息子と齢十歳の娘を紹介されたアニスは、その二人に、踊りましょうと広間の中央へと早々に連れ出されていった。
 勝負の時だ。
 俄に衆目を集めながら、アニスは一月前まで全く踊れずにいたことなど感じさせない、実に堂々としたリードを見せた。
 緊張した様子はなく、相手を気遣う余裕すら見せている。
 本番に強い方だ、とグレンシールは彼の様子を眺め、安堵した。
「さすがテオ・マクドール将軍のご子息。堂々とした踊りもよく似ておられる。そうは思いませんか」
 グレンシールとアレンにそう話しかけてきたのは、グレンシールたち同様その場に取り残されていた当主だ。
「将軍の踊りをご存知なのですか」
「ええ。以前、一度だけ共に踊って頂きました。あの時は年甲斐もなくワクワクしたものです。今の息子も同じ気持ちでしょう」
 グレンシールたちとも、どこかのパーティー会場で会っているのかもしれない。だからこそ、当主はこの話題を振ってきたのだろう。
 アニスと踊る当主の息子は、笑っていた。何かを密やかに話しながら、二人で笑い合っている。時折彼らの視線がこちらに飛んでくるような気がしたが、一瞬のことなので気のせいかもしれない。リードとフォローを時折入れ替えながら器用に踊る二人は、妬ましいほど楽しそうだった。
「マクドール将軍と踊った者は勝運に恵まれる、という噂があったのをご存知ですかな。我が子も、その御利益に授かれればいいのですが」
 食えない貴族の顔で、当主は笑った。

 息子の次に娘、更にもう何人かの淑女と踊り、幾人かの豪商や貴族との腹の探り合いをこなしたアニスは、ミーナが注目を浴びているその隙に会場から姿を消した。
 ミーナの噂はこの遠く離れた地にも届いていたようで、彼女の踊りに当主の息子をはじめとした参加者たちは湧いている。だから、彼がグレンシールとアレンを連れて、誰にも気付かれぬよう中庭に抜け出すことなど容易だった。
 抜け出す間際、ミーナは三人に向かってウィンクを投げていたので、こうなることは彼女の狙い通りだったのだろうとグレンシールは思っている。
 中庭は屋敷の規模から考えればこぢんまりとしたものであったが、中央に配置された噴水は瀟洒で、周りのレイアウトを見ても噴水のために設えられた場所なのだと察することが出来た。四方を囲まれながらも息苦しく感じないのは、夜風が心地よく通り抜けていくからだろう。
 透明な水が涼しげに流れていく様を眺めながら、アニスはふ、と息を吐く。明らかに疲れていた。
「もう休まれますか」
 アレンがそう声を掛ければ、彼は噴水から声の主の方へと視線を移し、ゆっくりと頷いて見せる。
「そうだね、義理は果たしたし、そうさせて貰おう。アレンもグレンシールもまだ残っていて構わないよ。二人とも、まだ何も食べてないだろう?」
 漏れ聞こえてくる会場の音は賑やかで、パーティーがまだまだ終わらないことを三人に知らせている。戻れば確かに腹を満たすことは容易だろう。だが、アレンは首を横に振った。
「今回は護衛ですから、お側におります」
 当然でしょう、とアレンの表情は物語っている。アニスを一人にすることなどあってはならない。常に帯同して貰わねば困るのだ。
「ああ、それでご婦人たちのお誘いを断っていたのか」
 内々のパーティーであるからか、あるいは積極的な女性が多いのか、グレンシールはアレンと共に、見知らぬご婦人たちから複数のお誘いを受けていた。アニスの言うように護衛であるからと断りを入れていたが、そんなのは勿論ただの建前である。
「別に護衛として二人を連れてきた訳じゃないから、自由に楽しんで貰って構わないんだが。まあいい、グレンシールはどうする?」
「アレンと同じく、お側に」
 これは護衛としてだけではなく、ただのグレンシールとしてもだ。アニスは笑った。
「じゃあ、部屋に三人分の軽食を届けて貰おうか。僕も少しは食べたいし」
「承りました」
 グレンシールは返事をしながら、帰り際、使用人を捕まえて頼むことに決めた。アニスもグラスを一杯呷っただけで、食べ物は口にしていない。余裕のように見せてはいたが、心中はそれどころではなかったのだろう。緊張から解放されたことで、空腹を思い出したのかもしれなかった。
「あの、アニス殿、護衛でなければ一体何のために我らを?」
 先程のアニスの言葉に引っかかっていたらしいアレンが、首を傾げながら尋ねる。今回の帯同は、アニスから頼まれたことだ。一緒に来てくれないか、と言われ二つ返事で了承した。勝手に護衛だろうと判断し、そう行動してきただけで、護衛として付いてこいとは確かに言われていない。
 アニスは唇を引き結ぶと、そうだな、と少し言い淀む様子を見せた。
「二人がいれば、少しは落ち着けるんじゃないかと思ったんだ。だからそう……お守り、かな」
「お守り……ですか?」
「お守りであるなら、尚のことお側に置いて頂かねば」
 グレンシールの言葉に、アニスは声を出して軽く笑う。
「ははっ。見えるところにいてくれたらいいよ。見えさえすれば、勝手に安心するから。だから、二人が女性と踊っても別に構わなかったんだ。僕だってそうしたのだし」
「それが今日の貴方のお役目でしょう。嫉妬しないとは言いませんが」
「してたのか」
 尋ねられ、グレンシールはにこりと笑みを浮かべる。なんなら、女性陣とのダンスよりも、当主の息子とのダンスに嫉妬をしていた。アニスが楽しそうに笑っていたのは、彼と踊っている時だけだったからだ。何を話していたのかなんて尋ねるべきでないことは理解しているので、当然口は噤むが、面白くないことに変わりはない。
「してたんだ……。アレンも?」
「いえ、私は。ただのダンスですし、練習とは言え今日まで沢山踊って頂きましたし……」
「してたんだね」
 仕方ないなと、アニスは眉尻を下げて笑った。それが嬉しそうに見えるのは自惚れだろうか。グレンシールには分からない。そうであればいいと願うだけだ。
「あ、曲が変わったね。ちょうどいい……アレン、グレンシール」
 微かに聞こえてくる曲は、ゆったりとしたテンポのメヌエットだ。
 噴水を背に、少年は二人に向けてそれぞれ手を差し伸べた。穏やかな笑みを湛える少年に、二人の視線は吸い寄せられていく。噴水から舞う一粒一粒の水が月光を反射し、アニスを光で彩っているかのようだ。闇の中で、それはあまりに眩い。
「最後に少しだけ、僕と踊ってくれないか」
 各々の前に差し出された手を取り、喜んで、と声を揃えて返せば、彼は満足そうに頷いた。



《ダンスウィズ -end-》
初出:2023.07.17 星の祝祭Ⅲ




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