主なき忠犬たちと少年の夜は
(坊ちゃん:アニス・マクドール)
***
「皇帝陛下バルバロッサ様に弓引く逆賊。天下の大罪人、アニス・マクドールよ。このテオ・マクドールが、皇帝陛下にかわり成敗する。この勝負。受けてもらいたい」
テオの声は、既に決着のついた戦場によく響いた。
火炎槍で焼け焦げた戦場には、ごうごうと風が強く吹いている。未だ燻っている炎が、風に煽られ俄に燃えた。空では太陽が傾き、赤く染まり始めている。
炎と夕焼けと血液で、辺りは様々な赤に彩られていた。
目に痛いほどの赤さの中、アニスは敵将を正面から見据え、逸らすことなく真っ直ぐに歩き出す。その足取りに迷いはなかった。
「アニス!」
アニスの足を止めようとビクトールが呼びかけるが、アニスはその声を無視した。その程度で止まる足ならば、最初から動いてはいない。
「アニス殿。馬鹿な真似はしないで下さい。ビクトール! その男の首をはねろ!」
諫める声はやはり顧みられることはなく、マッシュは焦りを滲ませこの戦に始末をつけようとビクトールを焚き付けた。
ビクトールとマッシュよりも前に出て足を止めたアニスは、棍をくるりと回し、立ちはだかるようにその先端をビクトールの手元に向ける。
「邪魔をするな」
鋭い声音に、ビクトールとマッシュの動きも止まる。アニスが最早何を言っても止まらぬことを理解しながら、受け入れることを不服としている。それでも、もうアニスを止めようとはしなかった。
彼らが、万が一にもアニスを失うことを恐れ、テオの勝利という本来ならば既に失われている幕引きを恐れ、アニスを父親殺しにするまいと動いてくれたことを、アニスは理解しているし感謝もしている。だがそれでも、既に決めてしまったのだ。
アニスは眼前に立つ百戦百勝将軍へ視線を向けた。
「その勝負、受けましょう」
アニスが冷徹に言えば、テオは笑った。
「ありがたい。いくぞ!」
将でも親でもない、武人の顔で――楽しそうに。
だからアニスもまた、一人の武人として向き合うと決めたのだ。
たとえどんな結果になろうとも。
***
「いくらテオ様のご遺言でも、こればかりは受け入れられぬ!」
勝負のついた戦場、その最奥に張られている天幕の中で、男が一人叫んでいた。煤にまみれた鎧を纏う小隊長の男は、悔しそうに顔を歪めている。
そんな男の前には、やはり煤や土で汚れた鎧を纏った男が二人、並んで立っていた。一人は黒髪、もう一人はくすんだ蜂蜜色の髪の青年である。その表情はどちらも凪いでいるが、黒髪の青年の瞳は表情とは裏腹にギラギラと激しい感情が揺らめいていた。
「あなた方にテオ様の副官としての誇りは無いのか! テオ様の仇を討ちたいとは思わないのか!」
男は黙する二人に苛立ちを覚え、声を荒げる。しかし、激昂する男の言葉に、蜂蜜色の髪をした青年――グレンシールの心が揺さぶられることはなかった。一方、黒髪の青年――アレンは思うところはあるのだろうが、それでも男の言葉に流されるようなことはなかった。まっすぐに背筋を伸ばしたまま、男に向かって口を開く。
「テオ様がそうせよと仰ったのであれば、それに従うまでのことだ」
「同じく」
アレンの言葉も、追従するグレンシールのそれも、強がっている訳では無く、紛れもない本心であった。彼らが心からそう言っていると気付いた男の頭に、かっと血が上る。冷静という文字は、もう男の中からは消え果てていた。
「なんという事だ、テオ様の副官ともあろう者が、二人揃って己で何も考えられぬとは! ただ命令を聞くだけの犬など、本当の部下ではないと何故気付かぬ! 真の忠義者が私だけとは心底情けないぞ。こうなれば私だけでも帝都に戻り、必ずテオ様の仇を討つ。邪魔立てするならば二人とて斬る!」
剣呑な雰囲気が充満する中で、アレンはそれでも背筋を伸ばして男に告げた。
「止めはしない。我らがそうであるように、お前も己が信ずる道を行けばいい」
アレンの言葉に男は顔を真っ赤にして怒り、踵を返す。
「裏切り者共め!」
そう吐き捨て、男は憤りを隠すこともなく大股で天幕を出て行った。残されたのは、アレンとグレンシール、そして二人の部下数名である。
「お前たちも無理に付き合う必要はないんだぞ」
アレンが部下に向かって言えば、彼らは生真面目そうな表情で首を横に振った。
「いえ、我々の腹は既に決まっています。隊長達に最後までお供しますよ」
「そうか」
「はい!」
部下は笑顔を浮かべ、アレンとグレンシールもつられるように小さく笑んだ。誰の表情にも疲れは見えたが、それでもなんとか踏ん張っている。
一人の兵士が天幕へ飛び込んできたのは、その直後のこと。
「報告します! 負傷者を除き全員集まりました」
「わかった。今行く」
アレンとグレンシールは汚れた鎧を軽く整え、天幕を出る。部下達もそれに続いた。
天幕の近くでは、この戦を生き残った兵士達が整然と並び、アレンたちを待っていた。戦の前には一万四千もの兵を有していたというのに、今や見渡せるだけしか残っていない。惨敗の結果を突きつけられ、アレンの胸中に渦巻くのは悔しさとやるせなさだ。だがそれを顔に出すことはなかった。
生き残り、今もこうして集まってくれた兵士たちの前に立ち、アレンは大きく息を吸い込む。
「私はこれよりテオ様のご遺言に従い、解放軍へ降る。だが、貴君らはその限りでは無い。帝国に残るも、共に解放軍の軍門に降るも、それ以外の選択も全て自由だ。選ぶ自由が貴君らにはあり、その自由を妨げるものは無いと心得よ」
アレンの宣言に、動揺が走った。グレンシールはアレンの一歩後ろで、仲間たちを見回しその様子を冷静に観察している。
アレンとグレンシールの二人は、テオから直々に息子を助けてやって欲しいと頼まれているので、元より他の選択肢は存在していない。だが、兵士たちまでその遺言に付き合う必要はないのだ。先ほどの小隊長のように、テオを討った解放軍を許せぬ者も当然いるはずで、その数は決して少なくないだろう。
「自分が何を為すべきか、よく考え決断をして欲しい。私と共に来る気がある者は、明朝ここに集まってくれ」
「以上、解散」
グレンシールの放った号令と同時に動いた者は、既に心の決まっている者たちだった。どちらを選んだにせよその表情には迷いが無く、先ほどまで行っていた負傷者の救護や、戦場の処理へ戻っていく。何しろ、野営地から撤収する作業だけでも大わらわだ。心が決まっているのなら、ぼんやりとしている暇はない。
一方で、その場にとどまり戸惑いを隠せない者、項垂れる者も見られる。悄然としている彼らには今暫く、考える時間が必要だろう。
アレンとグレンシールは彼らに声をかけることなく、その場から離れた。
二人が向かうのは、戦場を挟んだ向こう側にある解放軍の本陣だ。
これからの事をあちらと話し合わないことには、テオの遺言を遂行することも出来はしない。
怪我や火傷を負った者達の呻きがあちこちから聞こえてくる中、二人は焼け焦げた戦場を真っ直ぐに突っ切っていく。
無数に転がるガルホースと人の死体、負傷者、走り回る衛生兵とそれを手伝う生き残りの兵士達、死体を埋めようとする者、死体に祈る者、歩を進める度視界に入ってくるそれらは、まさしく敗戦の痕だ。衛生兵達は忙しなく走り回り、怪我人たちの呻き声に応えてはいるが、どう見ても手は足りていなかった。
既に潰走している者も当然ながらかなりの数存在している。反乱軍、もとい解放軍の使う火炎槍はガルホースを尽く焼き、勇猛果敢な鉄甲騎馬隊の者達ですら恐れさせるに十分な威力を示した。更には、無敗を誇る将をも討ち果たしてみせたのだ。自分たちの信じていたものを全て蹂躙された兵が逃げ出すのも、無理からぬ事ではある。
「どれ程の兵が共に来るだろうか」
「さっき集まった者たちの大半は来るだろう」
アレンの呟きにグレンシールがそう返せば、アレンはそうだなと頷いた。
それは、観察の結果だ。アレンの話を聞いている間、兵士達は確かに動揺していたが、その多くはすぐに顔を引き締めた。自分の為すべき事を決断した顔だった。
迷っている者たちとて、まだ心の整理がついていないだけである。彼らにとって、テオ・マクドールという将軍はあまりに偉大で尊敬すべき将であった。それが失われたことを、現実として受け止め切れていないのだろう。
あるいは信じたくないのかもしれない。
アレンとて、心のどこかではまだ、これは悪い夢であると思っている節がある。目の前で失い、最期に遺言をも遺して貰ったというのに、それも全て夢であれと願う気持ちを止めることが出来ない。このあまりにひどい戦場も、何もかもまるごと悪夢であればどんなに救われるだろう。
「怪我人たちは、来ないだろうな」
アレンがそう言えば、グレンシールの表情が僅かに曇る。
「そればかりは致し方ない」
「ああ、分かっているさ」
火炎槍に焼かれた者達は、むごい有様だった。
最前線に転がっている焼死体はどれも苦悶の表情であり、顔の判別すら出来ぬものも多い。火傷を負いながらも生き延びてしまった者たちは、今も地獄のような苦しみに苛まれている。そんな彼らが例え回復したとて、解放軍の戦列に並べるとは到底思えなかった。彼らの心を思えば、グレンシールの言うとおり仕方の無いことだ。
「自分で決めろと言ったのは俺だが、大隊か、せめて連隊が組める程度には来てくれると助かるんだがな」
「そうだな」
帝国中央軍は全部で六つに分かれている。その中でも、各将軍をトップに据えた第二軍から第六軍に所属する兵士は、帝国軍兵士ではあるものの、その実各将の私兵に近い扱いとなっていた。それ故、将が国から離反すると決めたならば、余程のことが無い限り兵士達は将に付き従う。
既に第四軍と第五軍の残存兵は将軍共々解放軍傘下であり、テオの望み通り第二軍も明日にはその列に並ぶことになる。
だが、第二軍の将軍は既に失われ、第二軍の誇る鉄甲騎馬隊も壊滅状態である以上、部隊の再編は間違いなく行われることになるだろう。二人に追従する兵士の数によっては、元第四軍・第五軍の一部、あるいは全く別の隊に組み込まれることとて考えられる。独立した部隊として成立するには、それなりの人数が必要だからだ。
第二軍の者たちだけで隊が組めれば、それだけで統率が随分と楽になるが、組めるだけの人数が揃わなければどうしようもない。
もし第二軍が存続出来ないとしても、一番下級の兵士として扱われることになっても、解放軍の一員となって戦うことを二人は既に決めていた。
テオに託された最後の願いを、必ず成し遂げる。それだけが、今の二人を支える唯一の支柱だ。たとえそれで仲間から犬と誹られようとも、構いはしなかった。
***
「アニス殿、よろしいですか」
解放軍本陣の天幕。返答を待たずに入ってきた軍師に、天幕の主は簡易な椅子に腰掛けたまま肩を竦めた。
「よくないと言っても聞き入れては貰えないんだろう」
マッシュはにこりともせず、無言でもって肯定を示す。アニスとて、軍師の相談を拒絶するような状況でないことは理解しているので、これはあくまで軽口でしかない。
「それで?」
「帝国側の代表者が会談を持ちかけてきていますが、如何なさいますか」
「いいよ、話そう。代表者を呼んでくれ」
「分かりました。ビクトールとフリックをつけます」
「いやいい、彼らには他にも仕事があるだろう。……そんな顔をしなくてもカゲはついてるし、クレオも控えさせるよ」
「……では代表者を呼んで参ります」
マッシュは若干不満そうな表情を浮かべたが、アニスの言葉に頷くと、そのまま天幕を出て行った。軍師自ら代表者を呼びにいく程、手が回っていないらしい。
アニスは疲れの残る体に気合いを入れるように、ふっと小さく息を吐き、天幕の外に向かって声を掛ける。
「クレオ、カゲ、中へ」
ぱさりと天幕の入り口が開き、間を置かずにクレオとカゲが中へと入ってくる。クレオはアニスの横へ立ち、カゲは背後へと回るとその場で膝を折った。
「坊ちゃん、どうなさるおつもりですか」
「どうもしない。彼らが亡き将軍の遺志に従って解放軍につくと言うならそれ相応に迎え入れるし、もし帝国軍へ戻ると言うならそのまま解放するだけだ。この場で僕らに害をなそうとしない限りは彼らの意思に任せる」
これは今回に限らず、アニスが取ってきたスタンスである。解放軍では基本的に捕虜を取るような余裕はないので、余程反抗的でない限りは捕縛することもない。殺すか逃がすか迎え入れるかの三択である。そして来る者に関しては基本的に拒むこともない。帝国に対抗するためには一人でも多く協力者が必要だからだ。それなりの数の兵士を用意出来るようにはなってきたが、本格的に帝国とやり合うには到底足りてはいなかった。
「彼らが素直に解放軍へ降るでしょうか」
「まぁ、まず間違いなく僕らの手助けをしてくれるだろう。表向きはどうあれ、彼らは皆、帝国ではなく父の配下だった。それはクレオの方がよく知っているだろう?」
アニスの言葉に、クレオはそうですねと穏やかに頷いた。
「テオ様の下には、テオ様を心から敬愛する者が多くおりました」
「そういった人たちは多分こちらに来る。父が最期に望んだことを無碍には出来まい。ただそれと、僕のことをどう思うかはまた別の話だけどね」
「その点については心配いりませんよ。坊ちゃんのことだって、すぐに認めざるを得なくなります」
「そうだといいが」
クレオは自信があると笑顔でいるが、アニスからすれば苦笑しか出来ぬ。テオに心酔していた者たちが、自分にどういう感情を向けるかなど考えるまでもないことだ。
「カゲ、向こうが何か仕掛けて来たら頼む。マッシュにも言われただろうが、慈悲はいらない」
「承知」
これから訪れる代表者が誰かは知らぬが、テオの部下であるという点を信頼してはいる。だがそれはそれとして、用心を怠ることもない。忠義に篤い人間が、敵に頭を垂れるふりをして仇を取ろうと目論むのは、よくある話でもあるからだ。
暫くしてマッシュに連れられてきたのは、テオの腹心である部下二人だった。先ほどまで戦場で顔を突き合わせていたのだから、忘れるはずもない。
アニスは椅子から立ち上がり、彼らを迎えた。
「改めまして、解放軍の代表を務めていますアニス・マクドールです」
笑みは浮かべなかった。彼らがそれを望んでいないことは、ひしひしと伝わってくる。
「アレンです。鉄甲騎馬隊指揮官を任されておりました。この度はお時間を頂き感謝いたします」
「同じく、グレンシールです」
腹芸があまり得意ではないのか、彼らからは敵意すら滲んでいるように見えた。それとも敢えて感情を漏らしてこちらの反応を窺っているのだろうか。アニスには分からない。どちらでも構いはしなかった。それで何が変わるわけでもない。
簡素な天幕の中には勧めるべき椅子もないので、アニスは挨拶もそこそこに本題を切り出した。
「早速だが、我々は捕虜をとるつもりはない。故に、あなた方にはこの地から立ち去るか、我らと共に帝国へ弓引くか選んで頂きたい。この場で決断を下す必要はないが、もし敵対行為を続けるようであれば、その時は容赦しない」
アニスの言葉に、アレンとグレンシールは同時に頷く。
「許しが得られるのであらば、我ら二人、これより貴殿の下で帝国を打ち倒す力の一つとなりましょう」
膝は折らず、頭を垂れることもなく、アレンは平坦な声で淡々と告げる。彼らの表情はどちらも固い。戦場で見せた激しさは、今はもう見られない。よく躾けられた軍用犬のように、規律と服従を示している。
しかし瞳だけは、見定めるようにアニスを見ていた。アニスは彼らの視線を受け止め、一つ頷く。
「歓迎しよう、アレン殿、グレンシール殿」
「ありがとうございます。しかし、我が兵たちの中には未だ決断出来ぬ者もおります。どうか彼らのために一晩、時間を頂けないでしょうか」
「自由にするといい。我らとて賛同しない者を無理に引き込むつもりはない。追っ手を差し向けることもないと約束しよう。身の振り方については、全て個人の意思に任せる」
「お心遣い感謝致します。では我ら二人、賛同者と共に明朝改めて馳せ参じます」
「ああ、待っている。それと、戦場で敵対したとて、戦が終われば我らが守りたい民の一人であることに違いはない。もし救護が必要であれば、出来る限り手を貸すつもりだ。遠慮無く言って欲しい」
火炎槍のおかげで、解放軍側の被害は驚くほど小さなものとなった。勿論余裕があるわけではないが、多少ならば帝国側に回すだけの余力はある。対して、帝国側の被害は甚大だ。こうして敵方の頭が今後の協力を約束してくれている以上、解放軍としても差し伸べられる手は差し伸べて然るべきだろう。ここで助けることで、こちら側に着く者も増えるだろうという算段も、勿論含まれている。
「は。では、そのお言葉に甘えさせて頂きたく思います。恥ずかしながら我らの衛生兵だけでは手が足りておりません」
「勿論だ。……マッシュ」
「至急手配いたします」
アニスの横から天幕の出入り口へと足早に移動したマッシュが、外にいる者に小声で指示を飛ばす。すぐに外が騒がしくなり、救護作業の準備に入ったことが知れた。
解放軍には、医療の面で言えば高名な薬師であるリュウカンこそいるが、彼が突出しているだけで他は殆どが素人である。当然出来ることは限られているが、それでもないよりはずっと良い。初動が遅れれば、それだけ助けられる人数も減ってしまう。急ぐにこしたことはない。
「叶えられるかは分からないが、他にも何かあれば遠慮無く言ってくれていい」
「……では一つ、よろしいでしょうか」
それまで控えていたグレンシールが、静かに、けれど確かな圧を感じさせる固さで口を開いた。
「何か」
尋ねれば、ややつり目の瞳から放たれる鋭い視線が、真っ直ぐにアニスを捉える。
「テオ様の亡骸についてなのですが」
「ああ」
この件に関しては、当然訊かれるだろうと思っていた。向こうが言い出さなければ、アニスから提案するつもりですらあったことだ。
「今はこちらで丁重に預かっているが、我々に出来るとしたらこの地に埋葬することだけだ。だが、もし帝都へ運び弔うことが出来るのなら、そちらに任せたいと考えている。適任者がいればの話ではあるが……どうだろうか?」
テオの遺体の処遇については、収容と同時に決めており、マッシュにもとうに許可を得ているので何も悩む必要は無い。しかしグレンシールには意外なことだったのか、彼は探るような瞳でアニスを見据えた。
「よろしいのですか」
「勿論。それで?」
「は。適任者に心当たりがあります。テオ様への忠義に篤い者達ですから、必ずや成し遂げましょう」
「ではそのように」
そこでアニスは一度口を閉じ、もう一度開くべきかどうか、ほんの少しだけ迷いを見せた。軍を率いる者では無く一人の人間として――テオ・マクドールの子としての願いを口にすることが、この場に相応しいのかという葛藤である。
言うならば今しか無いがしかし、と逡巡した瞬間にかち合ったグレンシールの瞳からは、そうと分かるほど剣呑さが減っていて、不思議と背中を押されたような気にさえなった。
アニスは心を決め、その唇を開く。
「それと、これはごく個人的な願いだが、どうか亡き母と共に眠れるよう取り計らっては貰えないだろうか」
「アニス様……」
アニスはクレオに向かって眉尻を下げ、優しく笑みを浮かべる。思わず漏れてしまったらしい彼女の声が、あまりにも痛ましそうだったからだ。
あくまでこれは、アニスの個人的な願いだ。父すら望んではいないだろう。
物心がつく前に亡くなり、声はおろか顔すらも覚えていない母とて、望んではいないかもしれない。それでも、そこがテオ・マクドールの眠る場所に相応しいとアニスは思っている。野晒しにするつもりも、戦場に埋葬するつもりも、見せしめにするつもりもない。せめて体だけでも、ただ静かに眠って欲しかった。
アニスの思いを汲み取ったのか、グレンシールは確と頷いてみせる。
「確かに承りました。他にも希望があれば仰ってください。出来るだけのことを致します」
「いや、これで十分だ。将軍の遺体は隣の天幕に安置している。そちらの準備が整い次第、引き渡しを行おう。今はパーンがついているが……クレオ、パーンと共に立ち会いを頼めるか」
尋ねれば、彼女はいつも通りの落ち着きでもって、はいと静かに答えた。引き渡しのその時が、彼女と父の最後の別れとなるだろう。少しだけでも、彼女に別れの時間を与えてやりたかった。
「ではグレンシール殿、引き渡しの準備が出来たら、彼女へ声をかけて欲しい。後のことは、彼女が担当する」
「承知致しました」
グレンシールとアレンはクレオへ視線を注ぎ、彼女もそれを受け止めて頷く。彼らが旧知の仲であったか、アニスは知らぬ。だが、立場は違えど同じテオの部下同士だ、通じるところはあるのかもしれない。
「……アレン殿、グレンシール殿」
呼びかければ、二人は表情を引き締め、アニスに向き直る。アニスはそこでようやく、彼らに向けて薄く笑みを浮かべた。
「あなた方が我らに力を貸してくれること、心より頼もしく思う。どうかよろしく頼む」
アレンとグレンシールは僅かに目を瞠り、一呼吸置いてから胸の前に拳を置くと、瞼を伏せて礼の形を示した。
それが、今の彼らに出来る精一杯なのだと知れた。
***
会談が終わり、アレンとグレンシールが天幕から退出すると、その後にクレオとマッシュも続く。遺体の引き渡しと今後のことをもっと細かく相談するのだ。
今回はあくまで防衛であったので、解放された土地はない。人数が大幅に増えた場合、養う先に少々困るかもしれない。まして加わるのは農民や商人などの戦の素人ではなく、歴戦の猛者とも呼べる帝国第二軍の兵士たちだ。戦力としてはこの上なく、一人でも多く確保しておきたいところではあるが、非戦闘時に各地に散って自身で生計を立てて貰うのは少々難しい。その人数次第では軍全体の再編も視野に入れねばならず、資金集めも更に精力的に行わなくてはならないだろう。
その運用を考えると正直頭が痛い。戦場から金に変換出来るものは回収するが、今回に関してはあまり期待出来ない。致し方なかったとはいえ、少し燃やしすぎた。
父さんもどうせなら兵士だけでなく金目の物も一緒に置いていってくれたら良かったのに、などと不謹慎極まりないことも脳裏を掠めていく。
だが、テオ・マクドールを打ち倒したことで、解放軍にこれ以上無い箔がついたことは間違いなかった。これで、各地の有力者に金銭的な協力を仰ぎやすくなったこともまた、間違いが無い。無敵を誇った百戦百勝将軍テオ・マクドールと鉄甲騎馬隊の名には、それだけの価値がある。そう考えれば、これこそが父の遺産と呼べるかもしれないなと、アニスは自嘲するように笑った。
「リーダー、少しいいか」
すっかり人気の無くなった天幕へ、入れ替わるようにやってきたのはフリックだった。覗かせたその顔は、なんとも名状しがたい表情を浮かべていた。
「報告したいことがあったんだが……」
「何?」
「今そこですれ違ったのは、あっちの副将か」
「ああ、アレンとグレンシール。今後、力を貸してくれるそうだ」
そう簡単に説明すれば、フリックの眉間には深く皺が寄せられる。
「ついさっきまで敵だったんだぞ、信用出来るのか」
彼らがテオに心酔していたことも、解放軍に入ることを自ら望んだ訳ではないことも、戦場にいた誰の目にも明らかだった。フリックの心配は当然と言える。けれどアニスは、この件に関しては絶対の自信を持っていた。
「出来るから受け入れたんだよ」
「知り合いだからって信用出来るとは限らないだろう」
「知り合い? 僕と彼らは殆ど初対面だし、会話をしたのもさっきが初めてだよ」
父から多少話を聞いたことはあるが、その程度だ。
父は仕事を家に持ち込むことはなかったし、最低限の使用人しか持たぬ家に人を連れてくることもあまりなかった。カイやパーンがそうであるように、気に入った人間を突然連れ込み住まわせることはあったが、誰かを客として招くことは思い返してみれば本当に稀なことだった。その分招かれることは多かったようで、家を空けることもまた多かった。アニスも挨拶回りにはよく連れ回されたものだ。おかげでアニスの顔を知る者は帝国には多い。
「知り合いでもないなら、なんでそんなに自信満々なんだ」
「そうだな……彼らがテオ・マクドールの忠犬だからかな。解放軍に参加するのに、必ずしも大義や信念を持っている必要はないし、僕らの剣となり盾となってくれるというのなら、それで十分だろう? それに、彼らにとって亡き将軍の命令は絶対だ。彼らの信念はそこに宿っている。主が我らに味方せよと言った以上、彼らがそれを違えることはない。今後どうあっても覆ることのない命に従う彼らは、信用に値すると僕は考えている。耐えられぬ者は、はなからこちらには来ていないしね。間者である可能性についても同じ理由で否定するが、そもそも間者であるかどうかなんて彼らには限らない話だ。これだけの人数を抱えている以上、今更だよ」
勿論、腹の内で何を考えているかなどアニスには知る由もないことだが、表向き彼らが逆らうようなことはないと言い切ることが出来る。それだけ、彼らにとってテオの遺言は絶対の効力を持つのだ。先ほどの短い会談で、アニスはそう確信した。
「それでも何かあれば、僕が責任をとろう。リーダーとしても、テオ・マクドールの息子としてもだ」
「わかったわかった、そこまで言うならもう何も言わん」
フリックは降参だとばかりに両手を顔の横に掲げる。面倒になったのは明らかだったので、アニスもそれ以上は重ねることなく、本題に戻らせる。
「それより、報告は」
「あ、ああ。そうだった。火炎槍であちこち延焼したのもあって、撤退に思ったより時間がかかってる。その上、あちらさんの救護用に人員と天幕を回せときたもんだ。もう撤退作業どころじゃないし、日も暮れるからな、今日はこのまま野営をすることになった。あとは俺たちが引き受けるから、リーダーは城に戻っていいぞ」
本拠地は目と鼻の先だ。手鏡を使えば一瞬、船でも辺りが闇の帳に包まれる前には戻ることが出来るだろう。だがアニスは首を横に振る。
「いや、明朝に約束があるから僕もここで過ごすよ」
「約束?」
「アレンとグレンシールが、兵を引き連れてくると。正式な顔合わせの場だ、勿論フリックにも同席して貰う」
「そういう事は先に言っておけ!」
「この後、皆に言って回るつもりだったんだよ。それより、僕も何か手伝うことはある?」
皆に明日のことを伝えるついでに、出来ることがあれば手伝おうとしたが、今度はフリックが首を横に振った。
「ないから大人しくしてろ。伝言も俺がやっておく。幹部連中に伝えておけばいいんだろ?」
「そうだけど、見ての通り手は空いてる。フリックだって忙しいだろう」
「いいから休んどけ。飯と毛布はあとで持ってこさせる」
「適当に干し肉でも囓るから問題ない」
「よく肉を食う気になるな……」
どこかげんなりとした様子のフリックの態度に、ああと合点がいく。あれだけ獣と人の焼ける様を目にし続け、強烈な臭いを嗅ぎ続けたのだ。肉を忌避する気持ちも十分に理解出来る。ましてフリックは前線で火炎槍を持っていたのだから、相当だろう。
「俺もそうだが、肉を食う気分じゃないヤツも多いからな。パンとスープの用意は始めてるんだ。干し肉だけでもいいが、食えるならもうちょっと腹に詰めとけよ。倒れられたら困る」
「わかった」
正直に言えば、食欲などありはしない。それでも頷いて見せたのは、フリックが気遣ってくれているのが分かったからだ。
この一連の戦が始まってから、フリックに限らず皆どこかアニスに対して腫れ物に触るような扱いを見せた。拒絶することも、渋ることすらもせずに父との戦いに臨んだせいで、逆に気遣われることになるとは思っていなかったなと、アニスは心中で密やかに笑う。
素直に頷くアニスを訝しむことも無く、報告を終えたフリックはじゃあなと天幕を出た。最後に、ちゃんと休めよと釘を刺すことも忘れなかった。
フリックを見送り、天幕内に一人残されたアニスは、息を一つつくと椅子に腰を落とす。
――ああ、疲れた。
フリックの前ではなんともないように装っていたつもりだが、実際のところ肉体的な疲労が激しい。戦では殆ど動かなかったが、テオとの一騎打ちで随分と体を酷使したせいだろう。
それに何より、テオを看取ったあの時から、アニスは右手にずっと熱を感じていた。ひどく熱い。それは紋章が興奮しているようにも、テオの命の熱さであるようにも思えた。
さすがに三回目ともなれば、この紋章が何をしたかもよく分かる。
だからこそ、何も考えたくなかった。
疲れていても、動いていれば考えなくて済む。だから手伝いを申し出たのだが、却下された上にやろうと思っていたことも取り上げられてしまったので、アニスにはもう休むしか無い。座ったことで、体も限界であることを思い出してしまった。
今は何も考えたくなかった。眠ってしまいたい。何も考えられないほどに、どこまでも深く。
「カゲも休んでくれ」
まだ控えているであろう忍に声を掛けたが、答えはなかった。最初から返事は期待していないので、それ以上は気にすることなく、アニスはそのまま目を閉じる。
重しが載せられているかのように、体中が怠い。
そのせいだろうか、すぐに外の喧噪も聞こえなくなり、アニスはそっと意識を手放した。
待望の、無だ。
***
夜半、グレンシールはアレンと共に、天幕の中で何をするでもなく過ごしていた。
テオ・マクドール敗北の報は、まだ帝都には届いていないだろうが、クワバの城塞までならば届いているかもしれない。早々に戦場を離脱した者達ならば、着いていてもおかしくはない頃合いだ。
テオの遺体を解放軍から引き取り、帝都に戻ると既に腹を決めていた者達に託したのはほんの数刻前の事。その中には、グレンシール達に怒りを示していた小隊長の男も含まれている。彼らは夜通しでクワバの城塞へ向かうと言い、簡素な棺を荷車に載せ、夕闇の中静かに出発していった。
アニス・マクドールの願いがどれほど叶えられるかは分からない。だが、クワバの城塞にいるであろうアイン・ジードの元へ遺体が辿り着きさえすれば、テオの埋葬はかの少年の望むように執り行われることだろう。 テオの遺体の胸元には、アイン・ジードに宛てた密書を忍ばせてある。内容は、テオの最期についてと、少年の希望についての二つだけだ。
アイン・ジードに遺体と密書が渡れば、彼は全力を尽くしてくれる。そういう人であると、グレンシールは知っている。
他の敗残兵と生き残ったガルホースたちも、クワバまで辿り着けばそのまま無事に回収されるだろう。
解放軍の軍師と今後について話した折、ガルホースを運用することは出来ないと言われている。その為、生き残った僅かなガルホースは帝都に戻る者達によって、既にこの地を脱していた。
ガルホースは馬の比でなく運用に金と手間がかかる。軍師が渋るのも無理からぬことだ。
ガルホースはかつて、その風貌から品がないと一部貴族から忌まれてもいたこともあり、騎馬としてあまり重きを置かれていなかった。テオがその脚力に注目し、騎馬としての有用性を示し、無敵を誇っていたからこそ、テオの下でのみ運用が許されていたのだ。その無敵が打ち破られた今、ガルホースの立場は苦しいものとなるだろう。せめて生き残ったガルホースたちが無事に生きられることを願うばかりだ。
グレンシールの愛馬はすでに死んだ。火炎槍から主を守って、立派に果てた。気性は荒いが、グレンシールによく従った賢い騎馬であった。アレンの騎馬も同じくである。
二人はこの日、何もかもを失ったのだ。
手元に残ったのは己の体と、捧げるべき相手のない剣と、テオの遺言だけ。他にはもう何もない。
重いため息を漏らしそうになり、グレンシールはぐっと堪えた。
もう眠ってしまった方がいいだろうか。何もすることがないのは、今のグレンシールには耐え難いことだった。かといって、そう易々と眠れる気もせず、結局ぐるぐると詮無きことを考え続けるしかない。
そうしてグレンシールが悩んでいる横で、アレンが突然立ち上がった。
顔を上げれば、アレンは天幕の出入り口へ真っ直ぐに視線を注いでいる。
「どうした」
「少し出てくる」
「どこへ」
「散歩だ。このままでは眠れそうもないしな。……お前も来るか」
疲れを滲ませた表情で、アレンはグレンシールを見下ろした。
「……ああ」
頷けば、アレンはすぐ側に置いたままだった剣を腰から下げ、水筒と巾着を手にして出入り口へ向かっていった。グレンシールも帯剣し、アレンに続いて天幕を出る。
外は相変わらず、焼け焦げた匂いが強く充満していた。チリチリとグレンシールの胸もまた焦げていく。
数刻前と比較して、辺りは随分と静かになっていた。松明すら殆ど設置されておらず、夜の闇に沈む天幕の群れは、まるで墓場のようだった。
対照的に、戦場に近い天幕には明かりが灯されているものが多い。あれらは救護用の天幕だ。人の出入りも未だに多いようで、影が蠢くのが離れた場所からでも確認が出来る。
解放軍から提供された天幕と人手のおかげで、怪我人の収容はかなり進んだ。解放軍による救護を拒む者も多少はいたが、大半は素直に運ばれたり治療を施されたり――看取られたりした。
アレンとグレンシールも、少し前まではあの場所にいた。人員や物品の取り纏めをしつつ、手が空けば怪我人の救護に回り、幾人もの部下を見送った。恨み辛みを吐き出す者も、苦しみに呻き続けたまま事切れた者も、家族への遺言を頼む者も、まだまだ隊長と共に戦いたかったと嘆く者もいた。それら全てを背負ってやりたくとも、そんな事出来る筈もない。彼らの最期は、グレンシールの心に重く降り積もり、そしてすり減らしていく。
重い砂を胸に、アレンとグレンシールは明るい天幕に背を向け、人影のない方へと足を進めた。息抜きの散歩に目的地はなく、ただ人の気配から離れたかった。
暗い夜の草原を、明かりも灯さずに二人は歩く。殆ど手ぶらで、鎧すら着けてはいない。幸い月明かりがあるので、ランプがなくとも困ることはなかった。
黙々と歩き続ける二人の足取りは、散歩というより行軍のそれに近い。まるで目的地があり、そこへ一直線へ向かっているかのように淀みなく進んでいく。
そのまま暫く歩き続けると、次第に周りが木立に包まれ始める。どうやら小さな林に入り込んだらしい。ちょうど獣道であったのか、足下はほんの少しだけ開けている。
微かな道なりに進んでいけば、その先には小さいながらも清涼な泉が広がっていた。
獣道はそこで途切れている。獣たちが水を飲みにくる為の道だったのだろう。
そこは、すぐ近くの広大な湖から取り残されてしまったかのような、閉じた小さな世界だった。樹木に囲まれた中、ぽかりと空いたその空間。月明かりを反射させた泉は、きらきら輝いて見えた。
「休むか」
そう呟いたアレンは、獣道を脇に逸れて泉の畔に腰を下ろした。グレンシールもそれに続く。緑の濃い常緑樹に背を預け、息を吐いて泉を眺めた。アレンは水筒を取り出し、水を口にする。ピクニックと呼ぶには、心も体もあまりに疲弊していた。
それでも、天幕の中でただ息を詰まらせているよりは、随分と心持ちが楽になる気がした。
夜闇に響く虫や鳥の声、風のざわめき、焦げ臭さのない土と植物の匂い。そんななんでもないものに包まれながら、二人はただぼんやりと泉を眺める。
こんな風に、何もせずに過ごすのはそういえば随分と久しぶりだ。いや、初めてだろうか。
グレンシールはこれまでずっと走ってきた。テオに憧れ、兵学校に入り、テオの部隊に引き立てられ、テオ直属の部下にまで上り詰め、その後もテオの役に立つべく、ずっとひた走ってきたのだ。それこそ、物心がついてから今日まで、ずっとずっとテオを目標に生きてきた。それが失われた時のことを、考えたことがなかった。百戦百勝将軍が負けることなど、まして、自分が残され彼の人だけが失われるなどと。
自分が先に死ぬものであると、グレンシールは信じて疑っていなかった。盾となって死ぬことは覚悟していたつもりだ。それだと言うのに、どうしたことだろう。自分は生きて、テオだけが死んだ。完全に想定外だった。
何故そうなったのかと言えば、テオが望んだからだ。
テオはグレンシールに、共に死ぬことを許してはくれなかった。許されていれば、こんな夜中に、ぼんやりと小さな水面を眺めることもなかっただろうに。
こんな時間、欲しくはありませんでしたよと、グレンシールは上官に向けて一人思う。
林の中から、ホゥホゥと鳥の声がする。次いで慌ただしく羽ばたく音が聞こえ、そして――何者かの足音が鼓膜を震わせる。
それまで呆けていたアレンも足音に気付いたのだろう、二人の間に緊張が走る。
木陰に身を隠し、気配を殺し、息を殺し、近付いてくる足音を警戒する。
足音は獣道を進んでいるようだったが、明らかに獣のものではない。
眩しいほどの月明かりの下、足音は先ほどの二人のように泉の前までたどり着いた。
月光に薄く照らされたその人影を目視し、二人は体は硬直する。
人影は、数刻前に相対した人物のものだったからだ。
(アニス・マクドール!)
最後に会った時には着けていた彼を象徴するバンダナはなく、全て露わになった黒髪。赤い胴着も身につけてはおらず、白いシャツと山吹色のズボンだけだ。驚くほど軽装のまま、それでも棍だけは握っているのが見て取れた。ちらりと窺えた横顔は、月明かりのせいか蒼白に見える。
二人が息を潜めたまま見守っていれば、彼は突然その場に崩れ落ちるように両膝を折った。
次に聞こえてきたのは、嘔吐の声だ。
オエッと短く吐き出し、その後一気に逆流してきたのだろう、オロロロロと水気を含んだ激しい吐瀉の声が響く。びちゃびちゃと音を立てながら、吐瀉物が地面に広がっていった。
「はっ、はっ」
少年は四つん這いになったまま、荒く短い呼吸を繰り返す。開いた口からは、唾液が糸となって垂れていった。
ざぁっと音を立て、強く風が吹く。
風向きが変わったのか、それまでよりも鮮明に彼の呼吸音が聞こえてくる。
「はぁ、はぁ……う……」
胃酸と食べ物の混ざり合った、独特のツンとした吐瀉物の匂いと共に聞こえてきたのは、呻くような声だ。まだ吐き気は治まっていないようで、彼は背を丸め、更に吐こうとしているように見える。
本陣から遠く離れた人気のない場所にたった一人、人目を忍んで嘔吐している姿から、それが病や食あたりによるものでないことは、二人にもすぐに察せられた。
すぐ近くに二人もの人間が隠れているのに、彼は気付いた様子もなく、泉に向かっている。あまりに無防備な姿だった。そして見た目の通り、この時の彼は本当に無防備だったのだろう。
「……父さん」
風に乗って、ほんの僅かに聞こえてきたのは、そんな苦しげな呟きだった。
その声を聞き、頭に血が上ったのだろう。アレンは隠れていた木陰から、アニスに向かって矢のように飛び出す。止める間もなかった。グレンシールも急いで立ち上がり、アレンの背中を追う。
音に気付いたアニスは顔を上げ、瞬時に棍を構えた。見事な反応だと思わず感心したが、飛び出してきた人物の相貌を確認すると、彼はすぐに武器を持つ手を下ろしてしまう。
そのまま突進してきたアレンに胸ぐらを掴まれ、膝立ちの状態にされた少年の瞳には、既に先ほどまでの弱さは見られなかった。
「それほどまでに辛いのならば何故っ! 何故だ!」
アレンは顔を歪め、揺さぶるように叫ぶ。それは、端で聞いていても体がビリビリと痺れそうな程に激しい咆哮だった。
「何故テオ様を!」
「……何故?」
アレンの頭の向こうに見えるアニスの瞳は、恐ろしいほどに冴え冴えとしている。彼の声音は硬質で、一瞬にして場に緊張感が満ちた。
「それが僕の選んだ道であり、父の望みだったからだ」
真っ直ぐにアレンを見つめ、アニスは言った。
「他の道を選ぶことも出来たろう。だが父は、武人としての我を通した。ならば、それに応えることしか僕には出来ない。二人が父の遺言に従い、不本意なまま解放軍へ降ることしか出来ないように、僕には、父を手に掛けることしか出来なかった。殺されてやることも、投降することも出来ない僕が、唯一父にしてやれることがそれだった。それだけのことだ」
淡々とした語り口は、彼の感情を感じさせない。そんなアニスの態度が余計にアレンを刺激する。
「中から、正すことも出来ただろう! テオ様がいて、お前がいれば!」
「無理だ。僕がお尋ね者になる前であれば、あるいはそんな道もあったかもしれない。だが、僕はとうに国を追われた身だ。そんな僕が、どうやって内側からこの国を正せると思う。それに、父は今日まで、王を諫めて正道を歩ませることも、ウィンディを追放することも出来なかった。何もしていなかったのか、注進した上で聞き入れて貰えなかったのか、そもそも何もする気がなかったのか。離れていた僕には分からない。だが、何も変わっていない事だけは間違いない。むしろ国の腐敗は進んでいる」
アニスの瞳は冷静そのものだ。それでもその奥底に漂うのは、悲しみのようにグレンシールには見えた。
「それは……! テオ様はずっと北方の守りにあたられ、その後も反乱の鎮圧を任され、帝都には長らく戻っておられなかった」
「忙しいことは、言い訳にはならないだろう。北の守りが重要なのはその通りだし、中枢の誰かが父を厭ってずっと遠方の任務につけていたのかもしれないが、国の惨状を父は知っていた筈だ。勿論、あなた方も」
全く知らぬといえば、それは嘘になる。各地で軍政官や地方軍の兵が横暴に振る舞ったり、私腹を肥やすため不当な税を徴収しているという噂は、アレンとグレンシールも聞き及んでいた。反乱軍の動きが大きくなるにつれ、その噂は人里離れた地で守護の任務についていた二人の耳にもしきりに届くようになった。
北方滞在中、テオが自身の領地に対して連絡を密にしていたのも、そんな噂が絶えなかったからだろう。
領地となってはいるが、将軍が行うのは自身による直接の自治ではなく、軍政官を任命することである。任命された軍政官が地方軍をまとめ、民から税を徴収し、将軍と国に上納することになっている。テオは軍政官の任命を慎重に行っていたし、不正がないよう定期的に監査員を派遣してもいたが、遠征中は視察に赴くことも出来ず、歯痒い思いも抱えていたようだった。
「全く知らぬ訳ではない。だが、テオ様の領地では、そのようなことは起こってはいない! テオ様は北方の地にあってもその職務を全うされていた」
「それは認めよう。勿論皆無ではないが、他の地域に比べ、解放軍に賛同する人間も、駆け込んでくる人間も少なかった。だがそれも今日までだ。将軍を斃してしまった以上、中央から新たな人間が送り込まれてくる。まず間違いなく、ウィンディの息の掛かった者がだ。そして、百戦百勝将軍という抑止力を失ったことで、解放運動の灯火は更に各地で広がるだろう」
「だから! そうならぬよう我々がいたのだろう!」
「自分の領地だけを守ることに何の意味がある。解放の灯火を消し、他の地域の腐敗には目を瞑り、国政に興味を失った王に唯々諾々と従うことが正しかったと? 王に忠誠を誓う将軍を二人も紋章の力で操り、悪逆の限りを尽くさせていた、そんな王と国を守ることが正しいと、本気で思っているのか」
「紋章? 操る? 一体なんのことだ」
アニスの言葉に、アレンは困惑の表情を浮かべた。グレンシールは表情にこそ出しはしなかったが、それでもアレンが抱えたものと同じ困惑をその胸に抱く。
アニスだけが一人、なるほどその辺りの情報は遮断されているのかと、どこか複雑そうに呟いた。
「知らぬのなら、今からでも知っておくといい。クワンダ・ロスマンとミルイヒ・オッペンハイマーの二人は、ウィンディにブラックルーンと呼ばれる紋章を与えられ操られていた。でなければ、誇り高き将に、あのような非道の行いが出来る筈もない。仕える将の誇りすら踏みにじり、世に混乱を齎しているのが今の帝国の姿だ」
「まさか、そのような……」
アレンの声は驚きを含み、横でそれを聞いたグレンシールもまた、愕然とする。人を操る紋章など、俄には信じられないような話だ。だが、稀代の宮廷魔術師であるウィンディが新たな魔術を開発している、という噂は軍の中にも確かに流れていた。アニスの言うブラックルーンという紋章が、その新たな魔術であった可能性は高い。
「僕の言葉では信ずるに値しないというのなら、彼ら二人の行いも、どのように操られていたかも、直接話を聞くと良いだろう。望むのならば、会見の場ぐらいは設けてやれる。彼らも話すことを厭いはしない」
疵ではあろうが、それこそが彼らの役目だとアニスは言った。他ならぬ、帝国腐敗の生きた証拠である。
アレンもグレンシールも、アニスの言葉を疑うことはなく、黙するしかない。帝国の腐敗は、二人が思っていたよりもずっと深いものであると認めざるを得なかった。
「……テオ様は、バルバロッサ様を信じておられた」
ぽつりと、アレンの口から零れた言葉は、それまでの彼よりも随分と弱い。
「それはそうだろう。だが、父と同じように今でもバルバロッサを慕っているクワンダとミルイヒが、なぜ自らの意思で解放軍にいると思う?」
消沈してしまったアレンを諭すように、アニスの声音も、それまでよりいくらか穏やかなものに変わった。アレンの返事を待つこと無く、少年は続ける。
「内側から正すことはもう無理だと彼らは知っているからだ。王さえも、ブラックルーンでウィンディの支配下にある可能性もある。ウィンディの力はそれほどに強力なんだ。腐ってしまったこの国を、武力で制圧する以外の選択肢は、もうとうに失われていたんだよ」
「それを承知であっても、テオ様はバルバロッサ様を裏切らぬ、そういうお方だ」
「そうとも頑固者だ。テオ・マクドールは、最期まで王の臣下であることを選んだ。国が腐ろうとも、民が苦しみに喘ごうとも、治世を顧みぬ王への忠誠を選んだ。そういう忠義の形もあるだろう。僕とてそれは理解しているつもりだ。だからこそ、僕はこの道を選んだ。選ばざるを得なかった。父が決して折れぬことは、分かっていたからね」
テオは、解放軍に降る気は微塵もなかった。アニスの言うとおり王への忠誠を貫き通したのだ。国のおかれた状況も、遺される部下たちの悲しみも、我が子の背負う苦しみも全てわかった上で、それでも自分の我を通しきった。
その上で、自身の配下たちには敵対していた解放軍に行けと言い残し、果てた。
それが、配下を思っての発言であることも、アニスを思っての発言であることも、グレンシールは承知しているつもりだ。
アニスとて、分かっているのだろう。だからこそ、彼は怒り、悲しんでいる。
置いて行かれて途方に暮れるグレンシールと同じように。
「二人は怒るかもしれないが、本音を言えば、自分勝手なひどい父親だと思っている。だが僕はそんな父を、それでも……それだからこそ、愛しているんだ」
アニスはそう言って、顔を歪めた。嘔吐していた時と同じような、苦しみを抱えたその表情に、アニスの胸ぐらを掴んでいたアレンの手が力なく落ちる。
解放され、小さく咳をしたアニスはまた嘔吐感がこみ上げてきたのか、二人から隠れるように軽く嘔吐く。だが吐き戻すまでには至っていないようで、もどかしい苦しさだけが彼を襲っている。
グレンシールは素早く手袋を外し、そのままアニスに向かって手を伸ばすと、二本の指を彼の口の中へと無理矢理に差し込む。
「まだ吐き切れていないのでしょう。全て吐いてしまわれた方が良い」
柔らかな舌を抑え込み、その奥へと指先を進める。喉の奥に触れるか触れないかというところまで進めれば、アニスの体がびくりと跳ねた。彼の喉が動いているのを察知し、急いで口の中から指を引き抜く。
アニスはその場に崩れ落ち、そのまま吐瀉物を地面へ広げていった。
オエッ、と苦しそうに嘔吐き、瞳には嘔吐による生理的な涙が薄らと膜を張っている。水気の多い嘔吐きの声と共に吐き出されたものに、既に固形物は見られない。水分ばかりだ。
吐き続ける彼の表情は、苦しみに歪んでいる。
胃の中のものを吐き切ってしまうまで、グレンシールは彼の背中を労るように摩った。そうすることで、背を丸めて吐き続ける少年の体が、まだ子供の細さと柔らかさを僅かに残していることを知る。
この未熟な体でテオを打ち破ったのかと思うと、素直に感服するしかなかった。あの時のテオは十全でこそなかったが、動きを見る限り武人としての腕は衰えてはいなかった。息子を相手にして怯むような人でもない。テオはあの時持てる全力でもって、相対していたはずだ。
少年はこれからも自分の信じた道を進んでいくのだろう。心に傷を負いながらも、父さえその手で殺したのだ、止まれるはずも無い。
「はぁ、はぁ……最悪だ」
とうとう胃液さえも出なくなったところで、アニスは荒く息を吐き、同時に悪態もつく。恨めしげに見上げてくる視線を受け流し、グレンシールは泉を指さす。
「落ち着かれたのであれば、口を漱いだ方がよろしいかと」
「そうさせてもらう」
アニスは泉へと体を向け、その水面へ手を差し込んだ。波紋の広がる清涼な水を両手で掬い上げて、何度かうがいを繰り返す。グレンシールはその間に、アニスの吐瀉物に土をかけて処理してしまうことにした。辺りの土は思ったより柔らかく、軽く蹴るだけで良かった。すぐに覆われ、嘔吐の跡が消えていく。
「後始末までさせてしまってすまない」
「吐かせたのは私ですから」
先ほどまでアニスが口を漱いでいた場所で膝を折り、グレンシールも手を洗う。泉の水は冷たく心地よいが、飲用に向いているかはまた別の話だ。アニスも口を漱いではいたが、飲んではいなかった。吐いた後は粘膜が荒れるので、出来れば何か口にさせたいところではあるが、生憎とグレンシールは何も持っていない。
そこではたと気付く。アレンは水筒を持っている。
立ち上がって振り返り、アレンに水筒を寄越すように言おうとしたが、グレンシールは口を開きかけそのまま黙した。振り返ったその先で、既にアレンの手からアニスに向けて、水筒が差し出されていたからだ。
「毒味が必要か」
憮然としたアレンの言葉に、アニスはいいやと笑い、水筒を受け取る。
「ありがとう」
「礼はいらない。どうせあまり入っていないんだ」
「関係ないよ。ありがとう、アレン」
「……ああ」
アレンの目の前で、アニスは水をゆっくりと呷った。こくりと喉が嚥下し、水が食道へと落ちていく様をアレンとグレンシールは黙って見守る。
ふっと息を吐き、文字通り一息ついたアニスは水筒を軽く振った。ちゃぷんと微かな水音が聞こえてくるので、まだ多少は残っているようだ。
「この水筒、このまま預かっても構わないかな。明日、洗って返そう」
「……別に返さなくとも構わない」
アレンの水筒は特に貴重なものでもなければ、彼にとって思い入れのあるものでもない。軍からの支給品の一つでしかなく、代わりはいくらだってある。だから、アニスに与えてしまったところで特に困りもしないのだ。だが、アニスは首を横に振った。
「そうはいかない。必ず返すよ、明日」
「そう何度も念を押さずとも、俺は明日、解放軍へ行くと決めている! そもそも、俺が行かずともそちらに不都合などないだろう!?」
念を押す必要などない筈だとアレンが勢い込んで言えば、そんなことはないよとアニスはひどく穏やかに返した。その穏やかさに、アレンの気勢が削がれていくのが端から見ていてもよく分かる。
「言っただろう、心強く思っていると。あれは紛れもない僕の本心だ。その力、頼りにさせて欲しい」
力強さの宿る瞳が、真っ直ぐにアレンを見つめている。口端だけを僅かに上げて笑うアニスのその表情を、アレンは真正面から受け止めた。
その瞬間、アレンの瞳に微かな光が灯るのを、グレンシールは確かに見た。
「勿論、グレンシールもだ」
次いで、アニスの瞳はグレンシールを捉える。そして、ああなるほどと合点がいった。アレンの瞳が輝いてしまった、その理由。
この時のアニスの瞳を例えるならばそう、満月だ。
太陽ほどの、目が眩むような眩しさではない。優しさと強さをいっぱいに湛えながらも、どこか影を感じさせる柔らかな光が、そこにはあった。
その光に中てられると、不思議と優しい気持ちが湧いてくるような気さえする。
きっとあの瞬間、アレンはこの瞳に希望を見てしまったのだ。
今のグレンシールと同じように。
「僕を許す必要も、僕に忠誠を誓う必要も無い。例え殺したい程憎んでいたって構いはしない。それでも、僕らを助けて欲しい」
「私は、テオ様のご遺言に従うだけです」
「十分だ。ただ、いきなり指を口に入れるのだけはやめてくれないか」
困惑しているらしいアニスに、グレンシールはにこりと笑顔を浮かべた。はいともいいえとも言わず、ただ笑みを浮かべるだけである。
グレンシールが従順なのはテオに対してのみであることを、その笑みから悟ったのだろう。アニスはため息を一つ零し、骨が折れそうだと小さくぼやいた。
「どうせならば上手く使って下さい。我々は役に立ちます」
「努力しよう。……さて、迎えも来たことだし、僕は戻るよ」
そう言うアニスの視線の先には、いつからそこにいたのか、一人の忍びが暗闇の中薄ぼんやりと立っていた。忍びの男は無言でこちらを窺っているが、それ以上近付いてくる様子も無い。あの場で主を待っているのだろう。
「アニス様」
彼が忍の方へ足先を向けたところで、グレンシールは彼を呼び止めた。
アニスはその場で足を止め、首を傾げるように上半身だけで振り返る。
「何?」
「アレンが飛び出した時、武器を置いた理由をお聞きしても?」
「二人だとわかったからだけど」
「我らが貴方を害するとは思われなかったのですか」
グレンシールの問いに、アニスはフッと笑った。
「そんな形で父の遺言を違える二人ではないだろう」
顔を正面へ戻し、それじゃあおやすみと、彼は水筒と棍を手に来た道を引き返す。忍びの男と合流し、一言二言その場で会話を交わすと、忍びを従えて振り返ることなく進んでいく。忍びの男も、もうこちらを見ることは無かった。
グレンシールはアレンと二人、彼の背中を無言で見送る。
彼らの後ろ姿が木立の向こうへ消え、辺りに再び静寂が戻ると、アレンはずるずるとその場にしゃがみ込んだ。そのまま気が抜けたように、長く息を吐く。
「……とんだ散歩になった」
「ふっ、そうだな」
アレンの言葉に、グレンシールは小さく笑んだ。全く以てその通りだ。
よもやこんなところで彼に会うことになり、彼の弱さに触れることになるとは思いもしなかった事態だ。
「しかし、趣味が悪いな」
「何の話だ」
「お前の話だ。無理矢理吐かせて、少しは溜飲が下がったか」
「……」
「人目の無いこの場所でなら、きっと彼は殴られも蹴られもしただろう。俺が突っ込んでいったのに、武器を置いたのがその証左だ。だが、お前はそれを選ばずに、無理矢理吐かせて、苦しむ彼を見ていた。殴る蹴るの暴行の方が、よほどわかりやすいだろうに」
「それでは彼が楽になるだけだろう」
あの少年が、断罪を望んでいることは分かっている。それをしてやるつもりは、グレンシールにはない。
「趣味が悪い」
もう一度繰り返すアレンに、グレンシールは少しばかり苦々しい気持ちになる。
「そういうお前はなぜ手を出さなかったんだ」
「言っておくが、始めから手を出すつもりなど無かった。少し頭に血が上ったことは認めるが、それだけだ。……テオ様が望んでおられないからな」
「……そうだな」
望んでくれていたなら、もっと簡単な話だったのだ。アレンにしろグレンシールにしろ、心の置き所に迷うことも無かっただろう。
「はぁ、テオ様はずるい。ご自分だけ満足して逝かれてしまった。俺は最期までご一緒したかったのに」
「ああ」
しゃがみ込んだまま、アレンはため息をつき、自分の顔を膝の間に埋めるように背を曲げた。地面に向かって、声がこぼれ落ちていく。それはグレンシールに語りかけるというよりは、独り言に近い。
「ご子息を苦しめると分かっておいでなのに」
「ああ」
「だがそれでも、やはり俺はテオ様の部下だ。テオ様が遺してくださった道を、俺は進む」
アレンは顔を上げ煌々とした月を、真っ直ぐに見上げた。月光がアレンの瞳を明るく灯す。
「もう迷いはない」
はっきりと言い切るアレンとは対照的に、グレンシールはまだ、どこか思い切れてはいなかった。テオの遺言に従う気持ちは強いが、それだけだ。こればかりは、時間が解決するのを待つしか無いと分かっている。解放軍の一員として戦い続けていれば、自分の心の置き所を決められる時も来るだろう。そう信じて、とりあえずは示された道を進んでいくしか無い。
「さて、俺たちもそろそろ戻るか。夜明けまでに少しは休まねば」
「寝過ごすなよ」
「当たり前だ!」
夜が明けたら、兵士達を集めて、もう一度解放軍の本陣へ向かわねばならない。
そうしてあちらへの挨拶が済んだら、アレンは人目を憚ってこっそりと少年から水筒を返して貰うのだろう。その様を想像して、グレンシールは心の中で小さく笑った。
なんとも微笑ましい姿じゃないか、と。
***
木立を抜けると、焼けた戦場の臭いがアニスを包んだ。湖から吹いてくる風が、遠くまで臭いを運んできている。
アニスは振り返らず、後ろに従う忍びの男に話しかける。
「マッシュに言われて探しにきた?」
「左様」
男の返答はいつだって短い。忠誠や絆で結びついた訳ではなく、金で雇い雇われた関係は、拠り所がはっきりしている分信用に値する。
この戦が終わるまで、カゲは決してアニスと解放軍を裏切ることはなく、その力を発揮し続ける。彼の働きぶりを考えれば、追加報酬があってもいいぐらいだ。
「カゲ。彼らと会っていたことはマッシュにも内密に。僕は一人で散歩をしていた」
「承知」
アニスは水筒を腰から下げ、密やかに笑う。
父自慢の優秀な忠犬たち。
彼らはやはり、正しく忠犬だ。盲目的に主人を慕い、主人の命令に従う。主人を失っても尚、彼らは主人の忠犬であり続ける。死で別たれるような忠誠ではない。
アニスは彼らの新たな主ではなく、テオから一時的に預かっただけだ。だから責任を持って預かり、戦が終われば返さねばならない。
彼らがその力を存分に振るえる環境を整える義務が、アニスにはある。彼らの部屋も、急ぎ湖城に用意しておかなければ。彼らにはもう、戻るべき場所などないのだから。
――そう、僕のところ以外には。
彼らの心境を思えば、哀れと言うほか無い。主の頼みとは言え、仇の下で働かねばならないのだ。これから先、表向きは聞き分けの良い忠犬の顔をしながら、その身の内に怒りと憎しみを蓄えていくのかと思うと、同情するばかりである。……などと思っていたのは、もう過去のことだ。
泉の前で相対した彼らの内にあるのは、怒りよりも悲しみであり、戸惑いであるように見えた。それは自身の胸の内に巣くうものと似ているのかもしれない。
目の前が真っ暗になる、ひどい喪失感。
足下が崩れ落ち、奈落の底に落ちていくような感覚が、ずっとアニスに纏わり付いている。少し眠っても、しっかりと食べても、離れることのないそれを振り払いたくて、本陣から遠いこんな場所まで歩いてきてしまったのだ。
解放軍を預かったあの日から、ずっとこんな日が来ると思ってきた筈だった。覚悟だって、とうに決めていた筈だ。だというのに、アニスの心は今も千々に乱れている。
少し後ろを歩くカゲの足音が耳に心地よい。普段の彼は足音を立てることはないので、アニスにその存在を示しているのだと知れた。自分の後ろにいるのが死者ばかりでないと示してくれているようで、少しだけ心が安らぐ。勿論それはアニスが勝手にそう感じているだけだったが、どう受け取るかはアニスの問題なので、事実かどうかは関係のないことだ。
金で結ばれた関係であっても、良い仲間を持てたことをアニスは嬉しく思う。
父にとって、アレンとグレンシールも信頼に足る良い麾下だったのだろう。だからこそ、アニスに託していったのだ。
もう吐き気はない。指を突っ込まれた時には驚いたものだが、文字通り全てを吐き出して体は楽になっている。
背中を撫でるグレンシールの手からは労りを感じた。無遠慮に、断りも無く口の中に指を突っ込んできた男のものとは思えないほど、優しいものだった。
ほんの少し前まで己の感情を暴れさせていたアレンも、水筒を差し出してくれた。
彼らの優しさと労りは、同情から与えられたものだ。
本来であれば、誰にも見せるべきでない姿を彼らには見られてしまった。自陣から離れているからと油断しすぎていたことは否めない。彼らが飛び出してくるまで、その気配を察知することも出来なかったのだ。気付いていれば、嘔吐することもなかったろう。
だがおかげで、彼らの声を聞くことが出来た。
――自分の声を、知ることが出来た。
彼らに告げたことは、全て本音だ。隠すことも、取り繕うこともない、生の声だ。それを彼らはきっと理解していただろう。だからこその同情である。
去り際、グレンシールに問われたことを思い出す。
『我らが貴方を害するとは思われなかったのですか』
思わなかったと言えば嘘になる。アレンの表情には鬼気迫るものがあったし、彼が冷静でないこともわかった。それでも武器を置いたのは、害されてもいいと思ったからだ。
父の遺言を思えば、彼らが自分の命を取ることはないと思っていたのは事実で、実際、彼らにそんな気はないだろう。
命を差し出すことは出来ない。解放軍の仲間たちの前で彼らの怒りや嘆きを受け止めることも出来ない。けれどあの場であれば、殴られるぐらいは構わないと判断した。
もしくは、殴られたかったのかもしれない。
仲間達はテオのことでアニスを責めることは無い。仲間達にしてみれば敵将なのだからそれも当然だ。だが、父の部下であったクレオもパーンも、一番辛いのはアニスだと言わんばかりに、アニスを労るのみである。
彼らが敬愛する上司を、家族のように共に暮らしてきたその人を、この手で殺めたというのに。
グレミオがいたら、なんと言っただろうか。どうして殺し合わなきゃいけないんですかと、怒ってくれただろうか。間違っていると、言ってくれただろうか。それでもやはり、責めることはなかっただろう。
だから、怒りを見せた彼らの存在が、アニスには眩しく見えたのだ。
アレンの真っ直ぐで鮮烈な怒りと嘆きも、グレンシールの静かで激しい憤りと戸惑いも、そのどれもが眩しい。
力に訴えることこそなかったが、アニスが浅ましくも求めていたものを、彼らは与えてくれた。
だから今度は、彼らのためにアニスが与える番だ。
父のようにはなれないし、彼らもそんなものを求めてはいないだろう。失った人の代わりなど誰にも務まらない。帝都を追われてから、幾度も実感させられてきたことだ。
だからせめて、父の最後の道しるべが間違っていなかったと示そう。
苦しむ人々を解放し、新たな国を築き、この戦いが無駄では無かったと示そう。
やり遂げることこそが、父への弔いとなり、彼らへ報いることになる。その為には、リーダーとして彼らを上手く使ってやらねばならない。彼らもそれを望んでいる。
何があっても、これから先どれだけ失い続けようと、進み続けるしかない。選んだのは自分だ。
(僕もとんだ頑固者だ)
こんなところばかり、父に似てしまったとアニスは自分に呆れる。
それでも、忍びと二人、焦げた草原を歩むアニスの足取りに迷いは無かった。
***
湖の近くは朝霧が多い。しかしこの日は、珍しく透き通るように晴れた朝だった。
太陽が昇り、身支度を調えたアレンとグレンシールが天幕を出れば、そこには昨日の夕方と同じか、あるいはそれ以上の兵士達の姿があった。見渡すことは出来るが、さっと数えることが出来ぬ程度の人数が、そこでアレンとグレンシールを待っていた。
昨日は血や煤に汚れている者は多かったが、怪我人自体はいなかった。しかし今は、包帯を巻いている者も、立っているのに誰かの助力が必要な者の姿も多く見られる。
それは期待以上の数だった。
疲弊しているのは明らかだったが、それでも、誰も彼も瞳には力がある。膿んだ顔つきの者は一人としていなかった。
その事実に、アレンの胸は震える。
「皆、よく集まってくれた! テオ様も喜んでおられよう。我らはこれより解放軍に助力し、勝利へ導く剣となる。第二軍の力と誇りを示し、我らが勇名をテオ様へお届けするのだ。それが、テオ様への供養となろう」
兵士達の表情に硬いものが浮かぶ。それはテオを偲ぶものであり、昨日まで掲げていた帝国旗に反旗を翻す緊張でもあるだろう。この場にいる者は、帝国の兵であることよりも、テオの兵である事を選んだ者たちが大半だ。それでも、帝国に対しての忠誠心が急に失われた訳ではない。その胸中の複雑さは、アレンとて同じだ。
それでも進むと決めたのだ。アレンだけではなく、この場にいる全員が、決意を固めて立っている。
「ではこれより、解放軍本陣へ向かう! 歩けぬ者はこの場で待機せよ!」
「残りの者は隊列を整え、我らに続け!」
アレンとグレンシールは声を張り上げ、兵士達を先導する。
朝日に照らされた戦場跡は、あまりに黒かった。失った仲間を越え、失った将を思い、焦げた草と血を吸った土を踏みしめ、兵士達は列をなして進んでいく。
解放軍の本陣前には、アニスを筆頭に幾人もの人間が悠然と立っていた。その出で立ちから、幹部かそれに類する者達である事は容易に知れた。誰の目にも敵意はないが、緊張感は漲っている。
頭に黄色のバンダナ巻いた解放軍兵士達が見守る中、静かに第二軍は迎え入れられた。
部下達を本陣の手前で待機させ、アレンとグレシールは並んでアニスの前へ進み出る。
「お約束通り、我ら元第二軍、テオ様のご遺言に従い参上仕りました」
アニスは静かに頷き、アレン達に向かって右手を広げる。
「皆、よく来てくれた。解放軍は貴君らを歓迎する。その決意に必ずや報いよう」
「は。今より我らは解放軍が剣にして盾。存分に振るわれよ」
アレンとグレンシールはアニスに向かって膝を折り、剣を捧げ持つ。
そうして、そのままゆっくりと頭を垂れた。
後方に控える兵士達も一斉に追従し、剣の波がアニスに捧げられる。
「貴君らの剣は、今、民に捧げられた。暗雲切り裂く鋭き切っ先たちよ、民のため、自由のため、未来のために、我らと共に戦ってくれ」
「御意!」
二人が顔を上げれば、昨夜の苦しみを微塵も感じさせず、晴れやかに笑うアニスがそこにいた。その笑顔の下では、今も苦しんでいるのだろうか。
アレンとグレンシールは彼を見上げ、そうして月のような優しい光を宿した瞳に向かって、にやりと笑みを返す。
アニスの腰には、見覚えのある水筒が一つ、提げられていた。
《主なき忠犬たちと少年の夜は -end-》
2020/11/11