blind drunk(サンプル)


(坊ちゃん:アニス・マクドール)

 ***

 その夜アレンが煽っていたのは、世間一般で言うところのヤケ酒だった。
 人気の無くなった兵舎の食堂。既に灯りが落とされ、今は手元に置かれたランプが唯一の光源だ。消灯後の為当然ながらアレンの他に人はなく、薄暗い中テーブルの端に居座り一人飲む酒は、上品な晩酌からは程遠い。
 つまみの一つもなく、ただ酒だけを煽り続ける。酔えさえすればそれで構わなかったので、味わうようなこともせず、ただひたすらに喉の奥へと流し込んでいった。そもそも味わう必要もないような安酒だ。杯に注ぎ続けるアレンの手に遠慮は無かった。
「何故駄目なんだ……」
 噎せ返りそうなほど濃いアルコールの臭気と共に小さく吐き出されたのは、紛れも無い愚痴だった。聞く者のいない愚痴は、虚しく空気に溶けていく。更に零れ落ちそうになる愚痴を飲み込むべく、アレンは勢い良く手の中の杯を煽った。
「はぁ……」
 液体を飲み干したアレンの口からは、重い溜息が一つ零れただけ。愚痴を飲み込むことには成功したが、安酒で喉が焼ける度、気分は沈んでいく。
 誰も居ない場所で孤独に酒を呑みたかったからこそアレンはこの場所を晩酌の場として選んだが、あまりにも静かな空間はより気分を滅入らせた。そもそも誰も居ないからと言って、食堂で呑んでいること自体褒められたものではない。首都警備のトップが一人、兵舎の食堂で飲んだくれている様を晒すのは、あまりにも他の兵士に示しがつかないだろう。誰かに見られる前に撤退しなくてはなるまい。もし相棒である眉目秀麗な男がこの体たらくを見たら、その整った眉を顰め、深い溜息と共に呆れた視線がアレンを射貫くこと間違い無しである。
 まだ体の半分も酒に満たされた気がしなかったが、用意した酒も残り少なくなってきた。テーブル上にある分を全て飲みきったらさっさと部屋へ戻ろうとアレンは決意し、一気に杯に注いだ。揺れる液体を見つめるその目は、完全に据わっていた。

 手持ちの酒を全て飲み干し、空き瓶や杯を片付けたアレンは食堂を後にすると、ランプを片手に兵舎の廊下を一人歩く。既に皆寝静まっているのか、食堂同様廊下にも人気は無かった。その足取りはどこかふわふわとしていて、全く飲み足りぬと思っていたが、自分で思っているよりずっとアルコールが回っているようだった。
 娯楽室の前を通り過ぎ、建物の最奥にある階段を上って自室のある階へ向かうその途中で、アレンは見覚えのある後ろ姿を見つけた。気のせいか、あるいは酔っているせいで幻を見たのかと思いきや、何度瞬きを繰り返してもその後ろ姿が消えることはなかった。耳を澄ませば小さな足音も聞こえてくる。夢でも幻でもないと確信した瞬間、アレンは自分でも気付かぬうちに小走りで後ろ姿を追いかけ始めていた。驚きに、酔いがほんの少しだけ醒めた気がした。
「アニス殿!」
 階段を上っている後ろ姿に声をかければ、彼は踊り場で足を止め、音も無く振り返る。揺れるしなやかな黒髪は、やはり幻などではない。力強さを湛えた琥珀色の瞳が、驚きを隠しもしていないアレンを捉えた。瞬間、アレンの体が緊張と期待に固まる。
「幽霊でも見たような顔してるね、アレン」
 アレンを見下ろしながら少年は笑った。アレンは酔いで縺れそうになる足を鼓舞しながら階段を駆け上がり、彼のもとへ忠犬よろしく馳せ参じる。
「このような場所で何をなさっているのですか」
「兵舎の娯楽室に稀書が何冊か混じってるって話を聞いて、グレンシールに入れて貰ったんだ。読み終わったから、お礼がてらグレンシールの部屋に報告に行くところだったんだけど……すごい匂いだね」
「あ! はい、申し訳ありません。少し呑んでいました」
 アレンの答えに、アニスは呆れた顔を見せる。
「少しって匂いじゃないだろう。足元も覚束ないようだし、明らかに呑み過ぎだ。でも……今日ばかりは仕方ないか」
 眉尻を下げるアニスの言葉は、明らかに事情を知っている者のそれだ。彼はアレンが酔いに身を任せたくなった理由を、既に聞き及んでいるに違いなかった。
「ヤケ酒なら付き合ったのに」
「……ご存知なのですね」
「耳の早い人と、今日たまたま会ったからね」
 彼の言う耳の早い人が誰かなんて、わざわざ確認するまでもなかった。かつて解放軍の中でも随一の噂好きで知られた女性は、その脅威の情報網でもって解放軍が解散し数年経った今でも、アニスに噂を伝え続けているのだろう。深酒の原因が今日起こった出来事で、尚且つアレンは誰にも話していないというのに、既にアニスの耳にまで届いているのだから彼女の耳の早さは尋常ではない。解放軍の活動において、彼女の噂話が大いに役立ったのも納得である。
「何か言っていましたか」
「懲りないよねぇって笑ってたよ。振られたの、これで今年に入ってから何人目だっけ」
「……二人目です」
 そう――アレンは今日、付き合っていた女性に振られたのだ。ヤケ酒の原因もそれだ。


【中略】


「俺なりに彼女を大事にしていたつもりでしたが、彼女には自分ではなく別の人間を重ねているだけだと言われました。自分は代わりに過ぎず、その代わりにすらなれなかったと、泣かせてしまった……」
 彼女の細く柔らかな黒髪も、溌剌とした薄茶の瞳も、アレンにとって好ましいものであったことは間違いがない。だが、彼女の言うように彼女の髪と瞳だけを好ましく思っていた訳ではないのだ。彼女の笑顔や、商売人の娘らしく気の利く明るい性格も、アレンは気に入っていた。それが通じていなかったとは今も思わない。
 だが、それだけでは駄目だったのだ。彼女は恋人として愛されることを望んでいたが、アレンは結局彼女の望みを果たしてやることは出来ず、彼女を泣かせることになってしまった。彼女の泣き顔が、アレンの心に重くのしかかる。
「落ち込んでるのは振られたからというより、彼女を泣かせてしまったからかな」
「そう、ですね。少なくとも、彼女を泣かせたい訳ではありませんでしたし、自分のせいで女性に泣かれるのは堪えました……。彼女を誰かの代わりなどと考えたことはありませんし、何度考えても彼女の言う誰かが思い当たらないので、どうしたら最善であったのか今も分かりません」
「……本当に?」
「アニス殿?」
 椅子から立ち上がり、アニスはアレンの正面に立つ。見下ろしてくる視線は、冷静そのものだった。
「黒髪と薄茶の瞳をアレンは好む。以前アレンが交際していた人達の中で、僕が知っているだけでも三人はそうだった。今回を含めれば四人だ」
「よくご存知ですね」
 アニスに付き合っていた女性を紹介したことは一度もない。世間に隠れて交際をしている訳でもないので、知られていてもおかしくはなかったが、アニスが知っていたという事実に正直なところ驚きを隠せなった。
「僕にも責任がないとは言えないことだからね」
 見上げた先にあるアニスの表情は、困った時のそれだ。
「実を言うと、今回アレンが付き合っていた女性は、僕も少しだけ知っているんだ。昔、野菜の新鮮さが違うからってグレミオがあの店を贔屓にしていてね。何度か家を手伝う彼女と顔を合わせたことがある」
「……そう、でしたか」
「多少負けん気は強いけれど、優しいし気が利くと専ら評判の女性だ。あんなに良い人でも駄目なら、もう正面から向き合うしかないだろう、アレン」
 アレンの視線の先には、しなやかな黒髪と、力強さを湛えた琥珀色の瞳があった。彼女と色こそ似ているが、質感や他人に与える印象はまるで異なっている。女性的な柔らかさや繊細さからは遠く、少年らしい堅さと幼さが残っている。けれど彼から漂ってくるのは無邪気な少年の雰囲気ではなく、柔和さの中に重きを背負った男のそれだ。そんなアンバランスさがアレンを惹き付けてやまないのかもしれない。視線を吸い取られていると、アニスもまたじっとアレンを見つめ返し、そしてぽつりと言った。
「アレンは、僕のことが好きだろう?」
 彼の言葉に、アレンの心臓が大きく跳ねる。じわりと脂汗が滲み、吐き気まで催してきた。安酒と共に心臓も口から飛び出しそうな程の動悸。頭がグラグラと揺れ、足下からは血の気が失われていく。自分が今立っているのか座っているのか横になっているのかすら覚束なくなる中、流れ落ちていく汗の感覚だけが嫌にはっきりとしていた。
「そ、れは、勿論、お慕いしています」
 なぜこんなに動揺しているのか、自分でもその理由が分からない。しどろもどろになりながら、なんとか彼の言葉を理解しようとする。好きかと問われれば、無論好きだ。彼はアレンにとって言わば第二の主であり、今は直接仕えることこそないが、それでも主であるという認識は変わっていない。
「貴方はテオ様と同じく、俺の主ですから」
「アレン、貴方の忠誠が今も父のもとにあることは知っている。解放軍に力を貸してくれていた間も、トラン共和国を打ち立ててからも、そして今もアレンの忠誠はずっと父のものだ。僕に捧げられているものではない。父に対する思いと、僕に対する思いは全くの別物だという事ぐらいは、自覚しているだろう」
 テオもアニスもアレンの主であることに変わりは無い。だが彼の言う通り、確かに二人に対する思いはそれぞれ違う。アレンにとってテオは今も偉大な存在だ。アレンの人生に多大なる影響を及ぼし、今も尚アレンの剣はテオと共にあると言っても過言では無い。帝国軍を捨てアニスに仕えることになったのも、こうしてトラン共和国を守護すべく要職に収まっているのも、全てはテオの言葉があればこそだった。アレンにとってこれからも尊敬と憧れの象徴であり続けるだろうことは間違いがない。
 だが、アニスもまたアレンにとって特別だ。テオを失い解放軍に身を寄せた当初こそ気持ちの整理がつかず自分でも戸惑っていたが、解放軍で彼と共に過ごし、彼を知ることで少しずつわだかまりは解けていった。自然とアニスの力になりたいと願うようになり、何年も経った今もその思いは変わらずアレンの中に存在している。テオへは畏敬の念を抱いているが、改めて考えてみるとアニスへの感情には名前が付けにくいことに気付く。アニスに対しては、主と認めていてもどこか庇護したい気持ちがあるように思えた。アニスがテオの息子であり、テオに託されたという気持ちがどこかにあるからだろうか。アレンは首を傾げる。
「確かにテオ様と貴方は違います。ですが……ならば貴方への思いは何だと仰るのですか」
「恋愛だよ」



《サンプル終了》
2016/08/13発行
通販:BOOTH




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