My Lollipop
エンジンの音が止むと同時に、助手席でそれまで微動だにしていなかった金髪が大きく揺れた。
「……あ、レスタルム? 着いたの?」
覚醒したばかりの頭を持ち上げ、周りを確認した金髪の青年――プロンプトは待ち望んでいた町の光に照らされて、よかったぁと心底安堵した様子を見せた。そんなプロンプトの様子を後部座席から見ていたグラディオラスは、フッと笑う。
「おつかれさん」
「ほんと疲れた……」
呻くプロンプトの横では、イグニッションキーを抜いたイグニスが後ろを振り返り、車が止まっても反応のない主に声を掛ける。
「ノクト、着いたぞ」
「……無理。ねみぃ、マジ無理」
夜が更けると共に熱気も増していくレスタルムの街に辿り着いた王子様御一行は、半ば定位置と化している駐車スペースにとめたレガリアから、それぞれ這い出るように降車していく。
地面に降り立った若年者二人の足取りはとりわけ危うく、その姿はまさしくヘトヘトと形容するに相応しい。対して年長者二人は、体に汚れは見られるもののその足取りは比較的しっかりとしており、疲れを感じさせることはなかった。
「ほらあとちょっとだ、シャキっと歩けシャキっと」
最も体力の残っているグラディオラスが、ヘトヘトな二人の背中をそれぞれ軽く叩けば、二人は声を出すのも億劫だと言わんばかりにグエッとうめき声を上げた。蛙だってもう少しマシな声を出すぞと呆れる大男は、最後に軟弱者と口癖になりつつある単語を二人に投げるが、二人は既に言い返すことすら諦めている。極度の疲労と眠気で、思考力が著しい低下をみせていた。本人たちにもその自覚はあるがどうしようもない。一刻も早くベッドにダイブすることだけが二人に共通する望みだ。
そんな二人にとって、駐車場からホテルまでの道のりは果てしなく遠く感じるものだった。
普段であればなんてことのない坂道を、重い足を引きずりながら上り、往来の無い車道を横切ってもまだ道半ばにも達していない。移動中、レガリアの車内で死んだように眠っていたが、戦闘の疲れは軽減されるどころか増している。整備されたアスファルトと違い、石畳は疲労で上がらない二人の足先を幾度も掬おうとしてくるので、何度か躓きそうになっていた。
「先に部屋を用意して貰って来よう。グラディオ、二人を頼む」
「わかった」
そんな二人の体たらくに、一行の参謀であるところのイグニスは先んじてホテルへ向かうことを決めた。今の四人に必要なのが休息であることは考えるまでもないが、二人を待っていては夜が明けかねない。戦闘に次ぐ戦闘、更には運転までをこなした男は自身も疲れているというのに、そんな素振りは一切見せず石畳の上をその長い足で駆けていく。
「ああなれとまでは言わねぇが、お前らももうちっと体力つけねえとな」
イグニスの後ろ姿を見送りながら、グラディオラスは二人の背中に掌を当て、軽く押すように歩かせた。二人の反応はあー、とも、うー、ともつかぬうめき声だけだ。
常ならばよく回るプロンプトの舌も、負けん気の強いノクティスの減らず口も共に黙して、足だけが何とか動いている状態だった。ふらつき、今にも倒れそうなその歩き方は、王都に居た頃にノクティスがよく遊んでいたゲームに出てくるゾンビを彷彿とさせる。
彼ら四人が王都を出立してからそれなりに経ち、実践経験もそれなりに積んできた。ある程度のシガイ退治ならば既にお手の物なのだが、夜間に行動していればある程度以上のシガイと遭遇することも勿論ある。今回はそんなある程度以上のシガイ――それも複数と行き合ってしまった。一体だけならばなんとかなると張り切ったはいいが、相手の体力に終わりが見え始めた頃、同じシガイが更にもう一体、それに付随するように有象無象のシガイ達もわらわらと湧いてきたのだ。
逃げようにもレガリアは目と鼻の先に停めているので、迫り来るシガイを退けぬ限り発車出来ようはずも無い。地獄のような時間だった。
用意していたマジックボトルは空となり、回復薬も底を突きかけていたが、それでもなんとか全てを倒しきり、四人はレガリアに乗り込むことが出来た。シートに座った瞬間、車内は重い溜息で埋め尽くされ、エンジンをかけて走り出した頃にはノクティスもプロンプトも意識を手放していた。
――そうして今に至る。
厳しい戦いであったことは身をもって知っているので、軟弱者だとか貧弱だと二人を揶揄することの多いグラディオラスだが、この時はホテルに辿り着くまでの間、ただ二人の背を支え続けた。そうして二人を支えることで、自身の気力を支えていることはグラディオラスだけの秘密だ。
一足先にリウエイホテルへ辿り着いたイグニスは、フロントから鍵を二つ受け取ると、一目散に部屋へ向かった。隣り合った部屋、それぞれのバスルームに足を踏み入れ両方に湯を張る。
ツインを二部屋取ったのは、風呂の数が二つ必要だと判断したからだ。
ノクティスもプロンプトも部屋に辿り着けばそのまま眠ってしまうだろうが、汚れ具合を考えるとそうさせる訳にはいかない。ベッドに入るのは、風呂で汚れを落としてからだ。しかし一人ずつ入ったのではその間に片方が寝落ちしてしまうことは明白で、それを避けるには二人を一緒に風呂へ突っ込むか、二つ用意するかの二択になる。イグニスは後者を選んだ。
部屋に着いてすぐ入れるように湯量と湯温を調整し、イグニスは再びロビーへと戻る。大分年季の入った階段を降りていけば、ちょうど三人がロビーに足を踏み入れようとしているところだった。
イグニスは二部屋分の鍵を手に、ボロボロな三人のもとへ足早に駆け寄っていく。その足取りは、やはり疲れを見せることはなかった。
「やっと、着いたぁ……」
そう呟くプロンプトの言葉には力がこもっておらず、ただただ安堵と疲労のみが窺えた。今にも倒れそうなプロンプトに、イグニスは眉尻を少し下げる。
「すまないが風呂には入って貰う。準備はしてきたから、すぐに入れるぞ」
「あー、そっか……そうだね」
やっと体を休めることが出来るのだと期待していたが、自身の汚れ具合に気付いたプロンプトはぐったりとしながらも納得の様子を見せた。フロント係が嫌な顔を見せないのが不思議なほどの汚れ具合だ。土と汗と焦げたような臭いが、むわりとしたレスタルムの気候で更に増している気さえする。
「部屋は二つ取ってある。プロンプトは先に入るといい。――構わないか?」
イグニスの問いはプロンプトにではなく、二人の後ろに立っているグラディオラスに向けてのものだ。
「ああ、いいぜ。早く汗を流してぇところだが、こいつらがこんな様子じゃな」
「すまないな」
謝りながら、イグニスは鍵の片方をグラディオラスへと渡す。それを受け取りながら、グラディオラスはじゃあ王子は頼んだと告げ、ふらふらのプロンプトを押して階段を上がっていった。
明るい場所で改めて見れば、グラディオラスの疲労も相当のものであることが窺えるが、本人がそれを隠そうとしていることも分かったので、イグニスは何も言わずに二人を見送る。
かく言うイグニス自身も、ホテルに着いたことで安堵したのか体が重い。汚れてさえ居なければ、このままベッドに潜り込みたいところだ。
だが、まだイグニスにはやることが残っている。ここで力尽きる訳にはいかないと鼓舞し、先ほどから反応のないノクティスに向き直った。
「オレ達も行こう」
「……んー」
「部屋に着いたら眠ってもいい。あと少しだけ頑張ってくれ」
「風呂は……」
入らなくていいのかと尋ねる声は途中で途切れる。意識が途切れかけているのだろう、ノクティスの声音は眠くてむずがっている時のそれだ。
「任せてくれていい」
「じゃあ任せた」
それだけを絞り出すように言うと、ノクティスはのっそりと歩き始める。彼が歩く姿をすぐ後ろから見守りながら、イグニスもまた階段を上がっていった。部屋まで、あと少しだ。
扉の内側に入った瞬間、ノクティスは糸が切れたようにイグニスに全体重をかけてきた。それを受け止め、扉を静かに閉めると、イグニスは早速ノクティスの衣服を脱がしにかかる。立たせたままでは無理があるため、崩れ落ちそうなノクティスを床に直接座らせた。ノクティスが倒れてしまわぬよう、後ろから彼の体を抱え込みながら衣服に手を掛けていく。
布地の傷みや汚れを確認しながら始めに上着を脱がせる。どうせすぐに洗うことになるのだからと、いつものように丁寧に畳むようなことはせず、放り出すように床の上へ置いた。泥のこびりついたTシャツはしっかり浸け置きをせねば汚れが残ってしまいそうだ。黒の戦闘服だから汚れはそれほど目立たないが、白い私服であれば廃棄処分になっていたかもしれないと考えながら、慣れた手つきで汚れに汚れたTシャツも脱がせてしまう。
薄暗い部屋の中、露出するノクティスの瑞々しい肢体。日焼けしにくい体質のせいで、あれだけ日光の下を歩き回っているというのに彼の肌は白く輝いている。その肌にさっと視線を走らせれば、軽い打撲傷が数カ所残っていることに気が付く。
自身の手袋を外し、イグニスはノクティスの脇腹に残る一番色濃い打撲傷へ指を這わせた。気を失うように眠ってしまった主からの反応はない。風呂上がりに軟膏を塗っておく必要はあるだろうが、触れても痛がる様子を見せぬということは、見た目よりは軽傷で済んだのだろう。知らず安堵の息が漏れた。――だがそれでも。
「すまない、ノクト」
詫びずにはいられなかった。
今日は随分とノクティスに無理をさせてしまった。乱戦の中、終盤はもはや戦略など組み立てている余裕すらなく、ノクティスの魔力が尽きるまでシフトを駆使して飛び回り、撹乱し、その隙を突いて仲間たちが一斉に攻撃を仕掛ける。作戦とも呼べぬそんな戦闘を繰り返すことで、なんとか死地を脱することが出来たが、ノクティスの負担は相当のものだったろう。終わった時、彼はしんどいと零すがそれだけで、不甲斐ない軍師に文句を言うことは無かった。それが歯痒く、己の無力さを痛感する。
(二度と同じ事を繰り返さないよう、対策を立てておかねばならないな)
イグニスがそう決意していれば、腕の中でノクティスが小さく呻いた。起きた訳ではないが、いつまでも半裸のまま放置しておく訳にもいかない。今は反省よりも、ノクティスの体を労うことが先だ。風呂に入れ、ベッドでゆっくりと眠らせてやりたい。そしてイグニス自身も、休息を欲していた。
イグニスはノクティスの下半身から衣服を全て剥ぎ取ると、自身も羽織っていたジャケットを脱ぎ、眠る主の体を抱え上げた。意識の無い体は酷く重く、疲労した体にずしりとくるがその重ささえ尊い。全てを委ねられている、その信頼に少しでも応えたいと、イグニスはバスルームへとゆっくり歩を進めた。
浅いバスタブに張られた湯は少なめだ。王都と違い、外の世界では風呂に洗い場があることは非常に稀で、大抵は洗面所と地続きにシャワーとバスタブ、そしてバスマットが置かれているだけだった。バスタブと洗面台の間に仕切りやシャワーカーテンすらもないこの場所では、体を洗うのも、頭を洗うのも、バスタブの中で行わなければならない。その為、王都での風呂のようになみなみと湯を張れば床をびしょ濡れにしてしまう。
シャワーブースだけの宿には問題なく対応出来たが、洗い場のない風呂が設置された宿に初めて宿泊した時は、四人共どこで体や頭を洗うのかと首を傾げたものである。ノクティスは勿論、イグニスもグラディオラスも、そしてプロンプトも皆、王都式の一般的な風呂以外は体験したことがなかったのだ。
今では四人とも慣れてしまったので床をびしょ濡れにしてしまうこともなくなったが、やはり王都式の風呂が恋しいと思う事はある。こうして意識の無い主を風呂に入れる場合は尚更だった。
バスタブの中へ全裸のノクティスを静かに横たえ、汚れをやさしく拭っていく。肌を傷めるようなことがあってはならないと、イグニスはボディソープをしっかりと泡立てる。ノクティス本人に任せると力任せにゴシゴシと洗うので、せめてイグニスが洗うときぐらいは肌を労ってやりたかった。
安っぽいボディソープの香りがバスルームに充満していくにつれ、ノクティスの体や顔からは泥が取り払われていく。戦闘中大量に使用したポーションのおかげか、先程確認した打撲傷以外の傷は表面の泥を落としても出てくることはなかった。
バスタブの内側でシャワーや泡を跳ねさせないように気を付けながらノクティスの頭を洗い流し、夜空を落とし込んだような艶やかな黒髪が取り戻されたことで、イグニスの中には充足感が満ちていく。
一仕事を終え、汚れと泡だらけの湯を一度捨てようと立ち上がったところで、イグニスは自分の体も相当疲弊していることに気が付いた。いや、見ないようにしていただけで、ずっと気付いてはいたのだ。しかし、いよいよ抗いがたい疲労に、イグニスはこれ以上気力を保ち続けるのは難しいと判断を下す。
そうと決めれば、イグニスの行動は早い。泥だらけになっているシャツの釦を、濡れたままの手で一つずつ外していく。Yシャツ、Tシャツと脱ぎ捨て、下半身も同じようにズボンと下着を床に脱ぎ捨ててしまう。最後に眼鏡を外して洗面台の上へと置けば、身に纏う物は何一つなくなった。泥と汗に塗れた体一つで、イグニスはバスタブに足を掛けた。
ノクティスの汚れとボディソープの泡が充満する湯に足を入れ、自分の汚れも湯の中へ落としていく。ノクティスの足を閉じさせ、彼の膝を少し曲げることで自分の入るスペースを確保したイグニスは、バスタブの横壁とノクティスとの隙間に左右それぞれ足をねじ込んだ。対面でノクティスを膝の間に挟むような形になれば、狭いながらも入ることに成功する。疲労のおかげで程良く意識が散漫としているので、全裸で密着していることについては極力意識を向けずにいられた。
イグニスはバスタブの栓を抜き、汚れと泡が吸い込まれ始めるのを確認してから自身の髪と体を洗い流し始める。ノクティスになるべくかからぬよう、細心の注意をはらいつつ、かつ手早く済ませてしまう。自身を洗い上げ、湯が抜けきったバスタブの中も軽く洗い流して栓を戻すと、もう一度湯を張り始めた。地元の人は洗い流さずに体を拭いてそのまま上がるらしいが、そこまでの境地には未だ到達出来ずにいる。どうしても湯に浸かりたい気持ちを捨てきることは出来ず、洗い流さないことに慣れることも出来ないままだ。
臀部にあたる湯が温かくて心地よい。じわじわと湯量が増えていくのがわかる。湯が溜まるまでの間、イグニスは目の前の存在に視線を注ぎ続けていた。眼鏡がないので視界は多少ぼやけているが、大体は分かる。すっかり綺麗になった寝顔は幼い。呼吸で上下する胸部、打撲傷の残る脇腹、薄い皮膚の下で割れている腹筋、縦に窪んだ形の良い臍に視線を落としたところで下生えが目に入り、さっと目を逸らす。膝を曲げているので、イグニスからは彼の中心部は目に入らないがそれでもだ。張りのある太腿、滑らかな膝頭、まっすぐな骨が主張する脛までを舐めるように眺め、一呼吸を置く。湯は既に腰に到達しようとしている。あまり多くの湯は床を濡らすことに繋がるだけなので、そこで止めてしまう。肩まで湯に浸かるのは、王都に戻れたその時まできっとお預けだろう。
そのまま暫くじっとしていると、不意にピチャン、と水音がしてイグニスは静かな空間で目を開けた。温かな湯と、温かなノクティスの体に触れていたせいで、意識が飛びかけていた。ノクティスは未だ、目覚める気配は無い。魔力も体力も使いすぎたのだろう。今、彼の体は回復に専念しているに違いなかった。
湯の中にだらりと垂らされているノクティスの右腕を取り、イグニスはその手の甲へ唇を落とす。余程深く眠っているのか、ふやけた右手は反応を返すことはなかった。けれど、手首から脈を感じることは出来る。生きている証を指先から感じ取り、起こさぬよう静かに湯の中へ彼の手を戻した。
そうして次にイグニスが触れたのは、彼の膝頭だった。そっと指先を這わせると、つるりと滑らかな膝は、すぐ下に骨があることをイグニスに伝えている。野菜は食べないけれど、その骨は頑丈だ。優しくさすり上げれば、ノクティスの体がピクリと僅かに身動ぐ。くすぐったいのかもしれない。
そのまま膝裏に手を差し込み、ふくらはぎを持ち上げる。ぽたぽたと水滴が脛から滑り落ちていく様を眺め、持ち上げた脛に身を屈めて唇を落とした。安っぽいボディソープの匂いがイグニスの鼻を刺激していく。ノクティスには合わない、むやみに甘ったるい匂いだった。
口づけたまま舌先で脛を軽くつつき、ノクティスの反応を窺うが、特に嫌がる様子もなかったのでそのまま舌を這わせた。ぬるりと唾液を纏わせて、時折唇で吸い付きながら彼の硬い脛を足先に向かって辿っていけば、イグニスは体の芯に熱を覚える。疲れているせいで、うまく自分を制御できていない自覚はあった。だが、唇でノクティスの足に触れていれば、体に蓄積した疲労がするすると溶けていくように感じるのだ。それが気の所為なのかどうかは分からないが、少なくともストレスは確実に減っている。
「はっ……ノクト……」
イグニスがこうしてノクティスに、友人でも側付きでもおよそあり得ない触れ方をするのは初めてのことではない。その大半はきちんと、彼が起きている間、彼の許可を得て行っている。
けれどたまに、彼が眠っている隙を突くように触れることもある。そういう時は、大抵疲れているときだ。癒やしを求めているのだろう。ノクティスが嫌がる素振りを見せれば即座に止めるが、眠りの深い彼はいつもイグニスの好きにさせてくれる。ノクティスが寝ている間の行為に気付いているのかいないのか、確認したことはないので分からない。
「ノクト」
イグニスはチュッと音を立てて、彼の踝に口付け、その硬く丸い感触を楽しむ。更にノクティスの足を持ち上げ、踝から足の側面、そして甲へとゆっくりゆっくり、しっとりとした皮膚の感触を確かめながら舌を這わせていった。
足の指へ続く甲の骨を一本ずつ辿り、そうして彼の親指、その爪先へ口付けた。少し上向きの爪は、ごく最近切り揃えたばかりなので長さはちょうどいいままだ。風呂に浸かっていたせいで柔らかくなっている爪ごと、親指を口に含む。舌に乗るノクティスの親指は、やはりボディソープの匂いがしていた。指紋を確認するかのように、舌先でふやけた親指の感触を楽しんでいると、ノクティスの体がふるりと震えた。
「んっ……あ?」
小さな吐息と共に、ノクティスの瞼が薄っすらと開く。イグニスは彼の親指を口に含んだまま、その様子を眺めていた。親指を解放するつもりは今のところはなく、彼が反応をする前に足首を握って固定しておく。
「は!? おまっ、なにやってんだ!?」
予想通り、ノクティスは驚いて足を引こうとしたが、がっちりと固定されている為にその場から動かす事が出来ずに体を揺らした。イグニスの足がノクティスの体を挟み込んでいるので、勢い余って彼の体がバスタブの中にずり落ちることもなく、起こった事と言えばただお湯がちゃぷんと跳ねただけだ。
「見ての通りだが」
「見ての通りって……あー、やっぱおまえ……」
目覚めたばかりのノクティスは最初こそ驚きを隠しもしていなかったが、状況を把握すると次第に体から力を抜いていく。イグニスから無理矢理親指を取り返そうとすることもなく、はぁとため息を零す。
「足とか、汚ぇだろ」
「そう言うだろうと思ってしっかり洗ったからな、大丈夫だ」
「そういう問題じゃ……、いや……洗ったんならいっか」
好きにしてくれと、ノクティスは再び目を閉じる。その態度に驚いたのはイグニスの方だった。止められるか、良くても渋られると思っていただけに、素直に納得するその反応は想定外だ。
「いいのか」
思わず問いかければ、一度は閉じた瞼を再び開き、ノクティスは呆れたように笑った。
「離さねぇくせによく言うわ。まーオレも疲れて抵抗する気力とかないし? いーよ」
「なら、好きにさせて貰う」
「そうしろ。あ、でもくすぐったいのは勘弁な」
「分かっているさ」
正式に許可を得たイグニスは口角を僅かに上げ、親指の愛撫を再開する。ちゅっ、ちゅっと吸いながら、親指の腹や爪の表面をねっとりと舐っていく。舌をなるべく大きく動かすことで、彼の要望を叶えることとした。多少はくすぐったく感じるだろうが、小刻みに動かすよりは余程刺激は少ない筈だ。
「んっ、うっ……」
「まだくすぐったいか」
「くすぐったいのとは多分、違うんじゃね? でも気になって寝れねぇ。ねみーのに」
「同じ事をされていてもさっきまで寝られていたんだ、目を閉じていれば眠れる」
「無理だっつの。っていうかずっとやってたのかよ」
「いや、始めたばかりだった」
イグニスの言葉に、ノクティスはどこか懐疑的な表情を浮かべる。だが、イグニスとしては嘘を言っているつもりはない。むしろ目覚めるのが早すぎたぐらいだとさえ思っている。右足にはあと四本の指が残っているというのに、口に出来たのはまだ親指だけなのだ。
そんなイグニスの心情を読めた訳ではないだろうが、嘘は言っていないと判断したらしいノクティスは表情を緩める。
「続けていーぞ」
「ああ」
一旦親指から口を離し、伸びていた足首を曲げ、彼の右足に頬をすり寄せる。足の裏は柔らかく、イグニスの頬を受け止めていた。顔の角度をずらし、足の裏へ唇を寄せる。音を立てて吸い付けば、ノクティスの体はびくりと跳ね、耐えきれなかったのだろう、んっと吐息を漏らした。
唇を当てたまま舌を出し、土踏まずにねっとりと這わせていくと、ノクティスはその度にびくびくと体を震わせて声を押し殺し、刺激に耐えようと足に力をこめる。支えるために触れているふくらはぎにも力が入り、固い感触をイグニスの手へと伝えてくる。眠っているノクティスの足に口付けている時とは違う、彼の生々しい反応がイグニスを昂揚させていくようだった。
「ノクト……」
「なんだよ」
「力が入っている。くすぐったいのなら我慢するな」
「あのな、オレが我慢なんか出来ると思うか?」
ノクティスはくすぐったがりだ。敏感なのか、人に触れられることに慣れていないせいなのか、あるいはその両方か。ともかく、くすぐられることにとても弱い。それこそ、マッサージすら受け付けない程にだ。
幼い頃からのことなので、それについてはイグニスもよく知っている。ガーディナでマッサージを受けようとして飛び上がっていたのも記憶に新しい。
ノクティスの言うとおり、そんな彼が足の裏を刺激されて耐えられる筈もない。本来であれば蹴り飛ばされたっておかしくはない状況だ。
しかし、ノクティスは体に力を入れはすれどイグニスを蹴り飛ばすことも、風呂から飛び上がって逃げることもない。ただ悩ましげな声を小さく漏らすだけで、イグニスのもたらす刺激を受け入れている。つまり、くすぐったくはないのだろう。だとすればノクティスのこの反応が意味するところは一つ。
「……なら、気持ち良いのか?」
「わかんねー。すげーゾクゾクするっつーか、ビリビリするっつーか、なんかそんな感じ。あとそのまま喋んな!」
イグニスが言葉を紡ぐ度に、背中や腰のあたりに重い感覚が走るのだとノクティスは言う。その重い感覚に名前をつけるとしたら、それはきっと――快楽だ。
イグニスはたまらず、ノクティスの足の裏へ口付ける。また足に力が入るが、そのままちゅっちゅと何度も優しく口付けていればそのうち体は蕩けるように弛緩を始めた。
「はっ、あ……」
それまで押し殺されていた声も、小さく漏れ出てきている。ノクティスは体と同様その表情も蕩け始めていた。眠さのせいで理性やいつも見せている意地っ張りな部分が形を潜めているのかもしれない。ノクティスにそんな表情をさせていることに、イグニスもまたひどく興奮していた。
(まずいな……)
頭ではそう思うのに、体はノクティスの足へ口付けたり舌を這わせたりすることを止められずにいた。足の裏も、足の甲も、親指も、他の指も、その全てに粘膜で触れていく。ふやけきった彼の足は、お湯でふやけたのか唾液でふやけたのか既に判然としない。
「ノクト……ノクト……」
足の指と指の間に舌を滑り込ませ、指の腹をなぞり、その短い指を飴玉のように口内で転がす。手の指とは違う、丸みを帯びた腹のフォルムは甘ったるいボディソープの匂いも相まってそれこそ飴玉のようだ。
「ひっ、あ! イグニス、ちょっと、待っ、タンマ!」
陶然としている中であったとしても、待てをかけられたならイグニスはぴたりと動きを止める。ノクティスの足から顔を離し、息を荒げている主人の様子をほんのりぼやける視界でじっと探った。
「はーっ、はーっ、おまえ……ほんっと……はー…………」
荒ぶる呼吸を整えながら、ノクティスはイグニスを軽く睨めつけたかと思うと、目が合った瞬間には眉尻を下げたようだった。忙しく表情を変えるノクティスの煌めく深い青の瞳が、イグニスにまっすぐ注がれている。どこか不安げに揺れているように見えるのは、イグニスの願望だろうか。
「あーでも、顔色ちょっとはマシになったか」
「顔色? 別に普通だが」
「今はな。さっきまですげー疲れた顔してたぞ。つーか今もまだ疲れてんだろ。気が済んだならもう出て寝ようぜ、ねみーしだりーし」
確かに頃合いかも知れない。二人の下半身を包む湯も冷めてきている。レスタルムの気温は高いが、だからと言って湯の温度を快適なまま維持出来る程ではないし、湯の量が少ない分冷めるのも早い。明日は一日休養日ということになるだろうが、だからといって湯冷めをさせて良い筈もない。何より、ノクティスの言うように二人共疲れている。手早く入浴を終わらせるつもりが、随分と長湯になってしまった。その原因は考えるまでもなくイグニスにある。
「分かった。だが、ベッドに入るのは頭をきちんと乾かしてからだぞ」
「わーってるよ。……やってくれんだろ?」
「ああ、勿論だ」
イグニスは最後にこの日何度目ともしれぬ口付けを親指の爪先へ落とし、ノクティスの足をようやく解放する。冷め始めた湯の中へと静かに戻したのは、イグニスの唾液にまみれた足を洗うためでもあるし、これから立たせる為でもある。
「立てるか」
のぼせたのか、それとも照れているのか、ほんのりを頬を紅潮させているノクティスに声を掛けながら、イグニスはバスタブの中で立ち上がり洗面台へ向かって手を伸ばす。洗面台の上に用意しておいたバスタオルを手に取り、んーと気のない返事をしながら立ち上がるノクティスの体を、タオルでそっと包んだ。擦ることは勿論せず、優しく肌に当て、表面の水分をタオルへと移していく。
「あのさ」
「どうした?」
体を拭かれながら、ノクティスはイグニスを見ずに口を開いた。やや顔を逸らせているのは気のせいでは無い。覗き込むようなことはせず、イグニスはタオルを動かしながら主の言葉を待った。
「前から思ってたんだけど、おまえってオレのこと飴かなんかだと思ってんの?」
「なぜだ?」
「時々……あー、飴舐めるみたいに舐めてくるだろ、手とか、さっきみたいに足とか」
「ボディソープが甘い匂いだと思いはしたが、ノクトの足を飴だと思ったことはないな。食感としては肉だからだろうか」
「っ! そういうんじゃなくて!」
「冗談だ」
「あのなぁ!」
「すまない。……覚えて居ないだろうが、おまえは幼い頃、絵本を読んでいて指先を切ったことがある。紙で切ったからな、痛かったんだろう、随分と泣いていた」
「なんだよ急に」
訝しげに眉を潜ませるノクティスに、イグニスはいいから聞くんだと諭す。ノクティスの体が冷えないよう、肩にバスタオルをかけてやることも忘れない。上半身の水分は、髪を除いて既に拭き取られている。
タオルから手を離し、空いた手で眼鏡を手にした。テンプルを広げて眼鏡を掛けながら、イグニスは昔を思い出す。
「傷口からは血が出ているし、おまえは泣いているし、周りには誰もいないしでオレも焦ってしまってな。傷口を口に含んだんだ。するとおまえはビックリして泣き止んだ。泣き止んだ隙に人を呼んで手当てをして貰ったんだが」
「全っ然覚えてねぇわ」
「だろうな。その時、オレは初めておまえの指を咥えて、その柔らかさに驚いた。口の中に広がるのは血液の味で美味しくなどないのに、その柔らかさが妙に癖になる感触で、暫く忘れることが出来なかった。おまえが、また怪我でもしないかと思ったことさえある」
無論ノクティスに痛い思いをさせたかった訳ではないし、本気で願った訳でもない。ただそうすれば、また口に含むことが出来るのではないかと幼かったイグニスは考えたのだ。もっとも、すぐにそれは考えてはいけない事であると幼いイグニスは深く反省したが、思ったことそのものは事実として今も覚えている。
「ははっ、ひっでーの」
「そうだな、あまりに愚かだった。勿論本気でそう思った訳ではない。だが、それ程当時のオレにとっては衝撃だったんだ」
「感触が?」
「ああ。あの指の感触が、今も忘れられない」
だからこうして、彼の指に触れ、彼の指を口に含む。
だが、最初からこうだった訳ではない。はじめの内は爪切りの仕上げに、切り揃えた爪の先へ軽く口付ける程度だったスキンシップは、年数を重ねるうちに深いものへと変わっていった。唇の表面から、口腔内へ。
ノクティスはどういう訳か、イグニスが触れても構わないかと尋ねればそれを許した。この行為が普通でないことは、きっとノクティスも理解しているだろう。それでも彼は、イグニスが望めばそれを許す。時に不承不承、時に呆れながらも、本気の拒絶を見せたことは一度もない。望むのが、大抵疲れている時である事も関係しているかもしれない。彼の不器用な優しさにつけ込んでいる自覚はイグニスにもあったが、かと言って止められるものでは無く、また止めるつもりも無かった。
「つっても、ガキの頃と今じゃ指の感触とかぜってー違うだろ」
「全く違うな」
最初の衝撃から十数年。ノクティスは成長し、幼かったあの頃とは手も随分と変わってしまった。小さく可愛らしい紅葉のような手はとうに存在せず、今あるのは似ても似つかない、骨張った男らしい手だ。当時はほわほわと柔らかだった皮膚も、今は武器を握る為あちこち固くなっている。
「それでも、オレにはやはり心地良いと思える」
柔らかさを求めていたはずなのに、それが失われても尚、彼の手や足の指を口にするとひどく満たされた。ノクティスがその行為を許してくれる、それ自体を甘やかに感じているせいだろうか。
ノクティスに甘やかされていると感じる瞬間は、幼い子どもがご褒美に貰う飴玉に等しいと思えた。代替品など存在しない、イグニスにとって唯一無二の飴だ。
「そうだな、確かにノクトの言う様に『飴』のような物なのかもしれない」
「ま、飴は普通甘いもんだけどな」
肉の飴とか気持ち悪ぃしとノクティスは笑った。そんなノクティスに、イグニスは首を緩く振ってごく薄く微笑みかける。
「甘いさ」
「んな訳……」
「甘いんだ、ノクト」
そう断言して、イグニスはじっとノクティスを見つめる。
(おまえはオレを甘やかしすぎる)
口には出来なかった本心を、イグニスはせめてと視線へ込めたが、ノクティスはきっと気付かないだろう。それで良かった。まだ、この飴を手放すことは出来そうもないからだ。
イグニスを見つめ返してくるノクティスの深い藍の瞳は揺れていて、ひどく美しい。その透き通った飴玉のような瞳も、口に含むことが出来たならイグニスにとっては甘く感じるだろう。舐められないのが残念だった。
「っとに、そういう顔がずりーんだよな……」
ぼそりとノクティスが口にした言葉は、音量としては小さなものだったがイグニスの耳は決して聞き逃すことは無かった。
「何の話だ?」
「何でも! ハイハイ、風呂出て寝るぞ!」
「ああ、そうだな。このままでは風邪を引く」
それはイグニスの望むところではない。自分の顔の何がどうずるいのか追求したい気持ちもあったが、きっとノクティスは答えてはくれないだろうとも思ったので、追求は諦めて彼の世話に戻った。
下半身の水気も拭き取り、バスマットの上へノクティスを誘導する。話している声は思いの外はっきりとしていたが、やはり眠いのだろう、ノクティスの足取りはどこか覚束ない。早く寝間着を着せて、髪を乾かしてやらねばならなかった。
イグニスもまたノクティスを追うようにバスタブから出る。
バスマットに降り立ったイグニスの疲労は、バスタブに入る前に比べ驚く程軽減されていて、『飴』の効果を感じずにはいられなかった。
ノクティスを寝かせたら、彼の傷に軟膏を塗り、脱がせたまま放置してある服を洗剤に浸け、自分も休もう。眠ったノクティスの指先に、おやすみのキスを落として、そうして朝を迎えるのだ。
そうすればきっと、疲労も無くなっている。
それは予想でも願望でもなく、確信だ。
幼い頃から口にしてきた『飴』には、それだけの力があるとイグニスはよく知っている。
――その飴が、いつまでも口に出来るものではない事も、もう手放さねばならぬ事もまた、よく知っている。
イグニスは思考を振り切り、ドライヤーを待つ主の元へ静かに向かった。
《My Lollipop -end-》
2017.04.02