sotto voce




 古びた校舎は、隙間から風だけではなく音もよく通した。
 校舎の一角を歩いていたルカの耳に届いたのは、ポーンという高い音。
 それはピアノの音で、そろそろ門限の近いこの時間に、まだ誰かが音楽室にいるという事を示している。ピアノはポン、ポンと間を置いて音を立てていた。だが、そうして音を立てているだけで、曲を奏でる気はないらしい。そのうちやる気のない音も止まった。
 しかしその無音は、準備期間であったのだとすぐに知る。
 ルカが音楽室の前に差し掛かる手前で、ピアノは再びポンと音を立て、それを切欠に今度はなめらかに旋律を奏ではじめる。
 ルカの知らぬ曲ではあったが、どこか切なさを含んだメロディに、胸が締め付けられる心地がする。寂しい曲だと思った。同時に、必死さを感じる曲だとも思った。そして、どこか懐かしさを感じる曲だった。知らない曲なのに、懐かしいと感じる不思議さに首を傾げる。
 音楽の素養がないルカに、演奏の良し悪しは分からない。だが、淀みなく流れる音から、演奏者が手馴れていることは分かった。となると、音楽教師が誰もいなくなった時間に弾いているのだろうか。時間が時間だけに生徒ではないだろう。ルカが今この場所にいるのだって、近くの教室で頼まれごとをこなしていたからであって、普段であればとっくに寮へ戻っている。
 音楽室の前を通り過ぎる時にちらりと覗いていこうとルカは考え、それまでの短い間、物悲しくも美しいメロディを楽しんだ。
 曲が突然途切れたのは、ルカがまさに音楽室の前に辿り着いたその時だった。
 こちらの気配に気付き演奏を止めてしまったのだとしたら申し訳ないと思いつつ、通り抜け様に室内へとさり気なく視線を投げる。
 音楽室のドアは大きく開いたままで、そりゃ派手に音漏れもするよなと、ルカは一人納得する。校舎がぼろいのは事実だが、ぼろいだけが理由では無かったのだ。
 ピアノは部屋の最奥部に設置されている。黒光りするその大きな楽器の前に座っていたのは、見覚えがありすぎる後ろ姿でルカは思わず足を止めた。
「は? ジェシー先生?」
 ピアノの前のその人はゆっくりと、視線だけをこちらに向けるようにごく小さく振り返った。眼鏡の奥に見える紫は、面倒くさそうに細められている。
「何か用?」
「いや別に用がある訳じゃ……つーか、ここで何してんの? 用事は?」
「終わったわ。あんたの方こそどうなの。もう終わったならさっさと行きなさい。生徒は戻る時間でしょう」
「だから帰ろうとしてたとこだろ!? つーか、先生の用事こなしてたからこんな時間になったんだぞ!」
 ルカがこの時間に、特別教室が集う校舎の一角にいた理由は、ジェシーその人にある。
 そもそもの始まりは数時間前、本日のランチタイムのことだ。
 カフェテリアでスペシャルランチを頬張っていたルカの前に、ジェシーは突然やって来た。テーブルを挟んだ正面に立ったかと思うと、いきなり「これ、準備室の鍵」と一つの鍵を手渡して来たのだ。
 何の準備室かは聞かなくても分かっている。このところ、ルカが手伝っている引っ越し作業に使っている鍵だからだ。
 そろそろ夏休みが視野に入り始めた頃合いで、ジェシーは突然片付けを始めると言い出した。赴任して一年、医務室もその並びの空き教室も、すっかりジェシーの実験室である。この一年、何度か片付けが敢行された筈なのだが、暫くするとまたよく分からない実験道具やたくさんの書類で、部屋が溢れそうになるのを繰り返してきた。医務室に寄りつく生徒が減っていったことで、余計に実験室化が激しくなっていった側面があるとルカは思っている。
 そんなジェシーが片付けを始めたのには、もちろん理由がある。一年間の産休から、本来の保健師であるソニア先生が戻ってくるのだ。つまりは実験室のような医務室を原状回復させ、本来の主に明け渡す必要がある。
 およそ二部屋分にも及ぶ物の中から、いるものいらないものを選り分け(選別作業は当然ながらジェシー担当だ)、しばらくは使わないが必要なものを生物準備室に運ぶのが、最近のルカの日課だった。もちろん報酬は貰っている。このときルカが食べていたスペシャルランチは、ここ一週間分の報酬だ。
 そんな生物準備室の鍵を手渡され、ルカは訝しげにジェシーを見る。
「なんで今?」
「ちょっと用事が出来たの。何時に終わるか分からないから預けておくわ。運ぶ物はまとめておいたから、あとは頼んだわよ」
 と、会話もそこそこにジェシーは鍵を預けるだけ預けて行ってしまった。ルカの返事を待つことすらなかった。
 ランチの途中であったし、ジェシーは急いでいるようだったので、追いかけることもしなかった。荷運びだけならこれ以上の指示は必要ない。ルカが手伝いを受け入れる前提なことは多少気に食わなかったけれど、嫌がってみせたところで結局引き受けるのが常だ。それでも交渉なしで押しつけられるのは癪なので、あとで報酬の水増し要求をしようとルカは思った。
 放課後、訪れた空き教室には段ボールが山と積まれていて、分かっててやりやがったなと怒りが揺らめいた。空き教室と準備室を一体何往復しなければならないのか、考えるだけでもため息が出る。絶対に報酬は水増しして貰うと改めて決意を固め、ルカは渋々荷運びを始めた。
 最後の一箱を運ぶ頃には、すっかり日が傾き、そして今に至る。
「あんなにあるなんて聞いてねぇ!」
「まとめておいたって伝えたでしょう。数の確認を怠ったのはあんたで、あんたの怠慢を私のせいにしないでちょうだい」
 段ボールの山を目に入れた時の怒りを思い出しジェシーにぶつけるが、彼は全く意に介していない。それどころかルカが悪いと言い出す始末だ。
「そうだわ、終わったんなら鍵」
「ほらよ!」
 ポケットに入れていた鍵を取り出し、怒りを抱えたまま少し強めに投げる。ジェシーは苦も無く受け取ると、ご苦労様と嫌みったらしく笑った。
「あんだけ運んだんだから、いつも通りの報酬じゃぜんっっぜん足りねぇからな!」
「いいわよ。明日のランチも奢るわ」
「え、マジで?」
 あまりにもあっさりと提案を受け入れられ、拍子抜けした。
「自分で言っておいて何なの」
「いやだって、そんなあっさりOK出るなんて思わないだろ」
「別に意地悪がしたい訳じゃないもの。当然、相応の対価は支払うわよ。今までだってそうしてきたでしょう」
「……そうかも」
「かもじゃなくてそうなのよ。さあ、納得したなら早く戻りなさい」
 しっしっとジェシーは追い出すように手を払う。
 その仕草にむっとするが、明日のランチも確約されたところなので噛みつくことはしなかった。門限が近いのはその通りだ。
 しかし、ルカは最初に投げた質問の返事を貰っていないことを思い出し、帰るどころか音楽室の中へ足を踏み入れた。
 ルカの様子に、ジェシーの眉が顰められる。
「ちょっと」
「まだ最初の質問には答えてないだろ。先生、ここで何してんの?」
「あんたには関係ないでしょう」
 歩き進めながら改めてジェシーに問うが、その答えはけんもほろろだ。だがその程度で退くようなルカではない。ジェシーの横に辿り着き、座る彼を見下ろしながら尚も食い下がる。
「関係はないけど気になる。先生ってピアノ弾けんだな、すげーじゃん」
「すごくはないわよ。他人に聞かせられるようなものじゃない、ただの手慰みだわ」
「うまいかは俺にはわかんねぇけど……でも、すげー綺麗だった」
 まっすぐにジェシーを見ながら、ルカは言う。それは素直な感想だった。
 最初にルカをこの場に引き寄せたのは、間違いなくジェシーのピアノの音だ。良し悪しは分からなくとも、耳に心地よかったのは事実である。
「…………はぁ。それはお強請りかしら」
「バレた? なぁ、もっかい弾いてくんねぇ? 少しでいいから。さっき、途中で止めちゃっただろ」
「あんたが来たからよ。あんたに限らず、誰かが来たら止めるつもりだったわ。そのためにドアを開けてあったんだもの」
「聞かれたいんだか聞かれたくないんだかわかんねーな」
 聞かれるのが嫌ならドアは閉めて然るべきだろう。音楽室は防音設備があるのだから、ドアを閉めていればいくらボロくてもあそこまで音が響くことはなかったし、ルカが引き寄せられることもなかった。
「この時間帯は、この辺りに人なんていないでしょ。だから開けっぱなしの方が気配に気付けて好都合だったのよ」
「俺はいたけどな」
「いたわね。こんなに時間がかかるなんて、サボってたんじゃないでしょうね」
「あんだけの量だぞ! 医務室から準備室までどんだけ距離があると思ってんだ」
「はいはい。……労い代わりに少しだけ弾いてあげるわ。猫踏んじゃったでいいかしら」
「全っ然よくねぇ。さっきのやつがいいんだけど」
 そう強請れば、ジェシーは少し嫌そうな顔をした。
「難しいとか?」
「難しくはないわ。ただ、あんたあの曲知ってるの?」
「さっき初めて聞いた。でも、なんか懐かしい感じがするんだよなー。ガキの頃とかに聞いたのかな」
「今もガキじゃない」
「ガキじゃねぇし! そんで、あれなんて曲なんだよ」
「さあ。曲名なんて知らないわね」
「は?」
 楽譜もない状態であれだけすらすら弾いておいて?とルカは首を傾げる。そう、楽譜はないのだ。ピアノのどこにも、楽譜らしきものは置かれていない。つまり、そらで弾ける程ジェシーに馴染んでいる曲ということだ。
「書いてなかったんだもの、知りようがないでしょう」
「楽譜に?」
「そうよ。不親切な楽譜だったわ。ところどころ濡れて滲んでいるし、タイトルもないし、指示も殆どない手書きの楽譜。夜が、どこからか持ってきたのよね」
「……え、ユースが?」
「ええ。彼、音楽になんて全く興味ないくせに、あの曲だけは時折聴きたがっていたわ」
 もう随分と昔の話だけれど、とジェシーの指が鍵盤に乗せられる。
「ドア、閉めてちょうだい」
 言われたとおり、ルカはドアまで戻ってしっかりと閉めた。
 ドアノブから手を離す。微かな恐怖が、指先に点っていた。先ほどの曲と、ユースが結びついた時、頭の奥で何かが囁いた気がしたのだ。
 夜空と、知らないユースの顔が一瞬浮かんだ。
 あれは、誰かの記憶なのだろうか。例えば、この曲を作った誰か……ずっとずっと昔の、朝の使者。赤が、脳裏を掠める。怖いと思った。ジェシーの側に行きたいと思った。ばたばたと小走りになって、ジェシーのすぐ横へと戻る。邪魔にならないよう椅子の真横で、床に直接座り込んだ。ジェシーの手がぽんと、ルカの頭を一瞬だけ軽く叩いたかと思うと、ピアノが音を奏で始める。
 それはすぐにメロディになり、ざわめいているルカの心を優しく撫でていくかのようだった。
 先ほど聞いたのと同じメロディ。曲の構成なんて当然知らないけれど、最初から弾いてくれているらしいことはルカにも分かった。目を閉じ、音に集中する。やはり、最初に聞いた時と同じく寂しいし、必死さを感じるし、懐かしさを感じる、美しく切ない曲だった。
 そうしている間に、先ほど途切れた部分に差し掛かる。最初はまた途切れたのかと思った。しかし、顔を上げればジェシーはルカを見下ろしてはいたが、指を鍵盤から離してはいなかった。ゆっくりと小さく、鍵盤を叩く。
 途端、曲から必死さの部分が消えた。弱々しく、静かで、どこまでも優しく、悲しい音だと思った。
 その音のまま、曲はゆっくりと小さく続いていく。
 メロディはよりか細くなり、そして、曲は消え入るように終わった。
「はい終わり。……ちょっと、顔が真っ青よ」
「え、あ……なんでもない。ちょっと、なんか」
「血の記憶でも見えたのかしら」
 ぎくりと体が強張る。怯えていることもバレているだろうか。ルカは微かに震える手を後ろに隠す。が、すぐにその手を捕まえられ、上へと持ち上げられた。
「いでで! 先生!」
「立って」
 腕を持ち上げられながら、そのまま立ち上がる。尻の埃を払う余裕もないまま、ルカはジェシーに引き寄せられた。椅子に座ったままのジェシーが、ルカの胴体にしがみつくように腕の輪を縮める。
「……頻脈。動悸もすごいわね」
 ルカの胸に耳を当て、その脈を数えていたらしい。
「誰のせいだよ」
「さあ。私には、あんたに何が見えたのかわからないもの」
「俺がドキドキしてんならそっちじゃなくて、先生のせいだよ」
「今更こんなことで?」
 にやりと意地悪く笑うジェシーの手が、ゆっくりと下がってくる。撫でるようにルカの尻に触れ、そのままパンパンと叩く。埃を払ってくれたらしい。音楽室の床は埃っぽかった。
「満足したかしら」
 ジェシーは右腕をルカの腰に回したまま、少しだけ体を離した。話しやすい距離が出来て、ルカはその身の内に少しばかり寂しさを感じたけれど、指先に宿っていた恐怖はいつの間にか消えていた。
「うん、ありがとな。弾くの嫌がってたのに。……先生はあの曲、好きじゃねぇの?」
「レクイエムなんて柄じゃないし、湿っぽい曲だとは思うけど、別に嫌いではないわよ」
 レクイエム。その単語を聞いて、やはりとルカは思った。
 あれはきっと、いつかの朝の使者が自分のために作ったレクイエムなのだ。その楽譜を自分を喰らう者に預けたのは、どんな気持ちからだろう。ほんの微かに見えた光景からは、判断することは出来なかった。
「でも最後は気に食わないわね。こんな、全部諦めたようなsotto voceなんて」
「そ……? 何?」
「sotto voce。なんて言えばいいのかしらね……囁くようにとか、声をひそめるようにとか、とにかく弱く弾けって指示よ。他のところには一切ないのに、あそこにだけ指示があるのよね」
 途切れたと思われたあの箇所のことだろうと、それはルカにもわかった。あそこで、曲から必死さが消えたように感じたからだ。
「多分、諦めたんだろうな……」
 名前も顔も知らない、いつかの生贄。ルカとは違って血の記憶があっただろうその人は、どんな思いで百年目の夜までを過ごし、迎えたのだろう。ユースは、何を思って楽譜を受け取ったのだろう。どんな思いで、彼のレクイエムを聴いていたのだろう。
「まぁそうね。あんな曲を作るぐらいだもの、よほど繊細だったんじゃない。最後まで足掻くあんたとは違って」
「どうせ俺は諦めが悪いですよ」
「あら、それが悪いなんて言ってないでしょ。それに、諦めの悪いあんただからこそ、今もここにいるんだわ」
 それはそうだと、ルカは納得する。諦めの悪さだけは自他共に認めるところである。そうでなければジェシーの言う通りここでレクイエムを聴くことはなかったし、あの夜に命を落としていただろう。レクイエムの作者と、同じように。
「なぁ先生」
「何かしら」
「いつか、また弾いてくれねぇ? その時は……なんだっけ、そっとぼーちぇ?は無視していいからさ」
「ふっ、ひっどい発音。いいわ、いつかね」
「そう、いつか」
 そのいつかが遠い未来であればいいとルカは思う。ずっとずっと遠く、ルカの手も顔もしわしわになったような、そんな今は想像も出来ないような未来だ。
 その時、ジェシーはきっと今と変わらぬ見た目で、今と同じようにピアノの前に座るのだろう。sotto voceを無視して、ルカの為だけに奏でるのだ。
「さ、満足したなら戻りなさい。ここも閉めないと」
 ルカの腰から、ジェシーの腕が離れる。ジェシーはそのまま椅子から立ち上がると、鍵盤の上に赤い布を被せて蓋を閉める。カーテンの薄い隙間から垣間見える外は、すっかり暗くなっていた。
「明日のランチ、忘れんなよな」
「忘れてないわよ。あんたこそ、明後日提出のレポート、忘れてないでしょうね」
「あ!」
 引っ越し作業のごたごたですっかり忘れていた。そういえばそんな物もあったと言わんばかりのルカの反応に、ジェシーは深い深いため息をついた。
「忘れられないように、耳元で囁いてあげましょうか」
「へ」
 肩を掴まれ、耳元に唇が寄せられる。
 そっと囁くように、ジェシーの舌が耳の穴を優しく撫でた。
「ひっ!」
 その感触に、ルカの腰が砕ける。ずるずると座り込みそうになるルカを引き上げながら、ジェシーは愉快そうに笑った。
 すぐに回復したルカが文句をぎゃんぎゃんと吠え始めたが、それはsotto voceからはほど遠い声だった。


《sotto voce -end-》
2022.05.01





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