病めるときも健やかなるときも




 あの子が私の元から去ってどれぐらいの月日が流れただろうか。
 そんなに経っていないかもしれないし、長い時間が過ぎ去ったのかもしれない。
 時間の感覚も、日にちの感覚もなくなってしまっているので、よくわからない。
 カレンダーはあの子がいなくなった日から変わらず、時計は……手元にはないのでやはりわからない。
 あの子の部屋にならあるのだろうが、何となく入る気にはなれなかった。入ってしまったら、あの子がいないのだという事を認めてしまうような、そんな気持ちになりそうだった。
 もっとも、あの子はもういない。それは決定事項なので、部屋に入るとか入らないとか、認めるとか認めないとかそんな事は関係ないのだけれど、気持ちの問題だ。この際事実などどうでもいい。こんな風に考えることは、科学者として失格だけれどそう思うのだから仕方ない。あの子のせいで私はずいぶんと変わってしまった。こんなに変えたくせに、その責任を負うことなくここからいなくなってしまうとは、ずいぶんと無責任だ。少し甘やかしすぎたかもしれない。お互いに少しなあなあになっているところがあったから、それがよくなかったのだろう。もう少し、厳しくしておかなければいけなかった。そうすれば、今もあの子はここにいただろうか。それとももっと早く、ここからいなくなっていただろうか。考えたところで本人がいるわけでもないのでわからない。答えを得るために必要なのはあの子。あの子を、追いかけるべきなのだろうか。けれどあの子を追いかけてどうしようというのだろう。なぜいなくなったのかもわからないのに、追いかけてどうなるのか。
 いない者の事を考えるよりも、私にはやるべきことがあったはずだ。論文はどこまで進んだのだったか。そもそも締め切りはいつだっただろうか。ああ何もかもが手につかない。今日はいつだろうか。あの子はなぜいないのだろうか。
 ――ピピピ、ピピピ
 高い電子音が断続的に鳴り響いてくる。よく知っているこの音は、あの子の目覚ましだ。
 朝が苦手なあの子がいつも使っている目覚まし時計は、止めるまでいつまでも鳴り続け、鳴る度に音量が上がっていくはた迷惑なもの。
 ――ピピピ、ピピピ
 やまかしいったらないと、何度も私が止めてそのたびにあの子は顔面を蒼白にしていたものだけれど、それも遠い昔の事のようだ。今これを止められるのは私だけなのだから止めなければいつまでもうるさく鳴り響く。はやく止めよう。イライラする前に。
 ――ピピピ、ピッ
 音の方へ手を伸ばすと、電子音は止んだ。けれど私は、時計に触っていない。勝手には止まらない、そういう仕様の時計なはずなのにと、顔をそちらへ向けた。視線の先には時計どころか一切の物がない。何もない世界が続いている。それを重い頭で確認するとすぅっと意識が遠のいていくような気がした。
 私は今、いつ、どこにいるのだろう。



「おはよう先生」
「……」
 頭が重い。無理矢理瞼を押し上げれば、見知った顔がそこにはある。
「……あんた、何してんの」
「何って、旅行から帰ってきたから洗濯したとこだけど」
「旅行? あんた旅行なんて行ってたの?」
 どうも意識がはっきりしない。ここが自宅のリビングだということはわかる。だが今がいつで、何がどうなっているのかがわからない。なぜこの子は、目の前で服を畳んでいるのだろうか。何でここにいるのだろうか。
「はぁ? 先生寝ぼけてんの?ユース達と一週間旅行行ってくるって言ったろ?」
「そうだったかしら。……そうだったかしらね」
「そうだよ。もしかして先生体調悪い?顔色悪いし。そういえばリビングで寝るとか珍しいよな」
 風邪薬って買い置きあったっけと立ち上がり、薬箱のある棚を探り出すあの子を視線で追いかけながら、重く痛む頭を抱える。戸棚の上に置いてあるその箱に、もう少しのところで手が届かないでいるあの子を見たら、体が勝手に起き上がっていた。後ろについて、箱を代わりに取ってやると、受け取って腕の中でごそごそと薬箱を漁りだす。その指先が、なぜだかとても大事なもののように思えて仕方がなかった。
「夜徒って風邪薬とか効……先生?」
 問いかけようとしていた彼の指先を手に取り、そっと握った。そのまま後ろから抱き込んで肩口に顔を埋めると、重い頭が少しスッキリしたような気がする。夜徒に薬が効くかどうかはわからない。何しろ病気などしないので、薬など必要とした事もない。見た目だけは人と変わらぬ夜徒だが、中見までそっくりそのまま人間なのかと言えばそうでもないようなので、はっきりとした事は言えない。そういえば夜徒を研究対象にしたことはなかった。
「マジで病気? なんか手あっついけど、病院とか」
「いらないわよ。あんた以外、いらないわ」
「は!?」
「ルカさえいれば、いいわもう」
「先生!?」
 ずるりと体から力が抜けていくのを感じる。耳元でやかましく叫ぶあの子の声を聞きながら、意識を手放した。



 次に目覚めた時は、自分のベッドの上にいた。
「先生、気分どう? 飯とか食える?」
 隣でずっと見守っていたのか、すぐにルカの声が飛んできた。眼鏡がないのでよく分からないが、声には不安と憔悴が入り交じっているように感じた。同時にルカが傍にいたことにひどくホッとした自分に気付いて、胸中を苦々しいものが占めていく。
「大丈夫よ、何でもないわ」
 実際、体も意識もはっきりしている。あんなに重かった頭も軽く、痛みもなにもない。
「大丈夫ってことねぇだろ。先生が倒れるのなんて、初めて見た」
「安心して頂戴、私も初めてよ。それより眼鏡くれないかしら」
「その情報のどこで安心しろって言うんだよ!」
 怒りながらも眼鏡は手渡してくる。クリアになった視界には、疲れた顔をしたルカがいた。どれぐらい意識を失っていたのかは分からないが、相当心配していたことは伝わってくる。
「……目ぇ覚めて、良かった」
 額を私の手の甲に当てられて、そこで、ずっと手を握られていた事に気付いた。汗で湿っている手を快適だとは思わなかったが、振り払うつもりもない。この子の手を、不快に思ったことはそういえばなかった。
「大袈裟ね」
「大袈裟じゃねぇよ。熱いし倒れるし変な事言うし、冷蔵庫見たら食材全然減ってねぇし。先生飯食ってなかっただろ」
「よく覚えてないわね」
 これは嘘じゃない。本当によく覚えていない。そもそも、ルカが旅行に行ったという事すら、青天の霹靂状態だ。
「どんだけ体調悪かったんだよ。俺が旅行行く前から?」
「さぁ?」
「さぁって……」
「本当に覚えてないんだもの、答えようがないわ。今はもう何ともないんだし、いいでしょ別に」
「よくねぇ! 知ってたら行かなかったよ。出掛けてたこと、すげぇ後悔した」
 本当に大袈裟だ。なんて大袈裟なんだろう。バカだバカだと思い続けてきたけれど、いつまで経ってもこの子はバカなままだ。
 夜徒がこの程度でどうにかなる訳がない。倒れたことは初めてだが、それでも少し眠ればこの通りだ。心配などするだけ無駄というものなのに、それがこの子にはわからない。私が目覚めるまで、本気で心配をして、本気で後悔していたのだろう。そう思うと、その馬鹿さが愛おしくすら感じてしまうのだから、私もやはりおかしいのかもしれない。
「もう本当に何ともないわよ。意識もはっきりしているし、おかしいとこなんてどこもないわ。そうね、強いて言うなら空腹ぐらいかしら」
「お粥あっためてくる。あ、起きないでそのまま寝てろよ」
 手を離して、ドタバタとキッチンへ向かっていく背中を見送った。それまでどこか暗く翳っていた気配が、太陽のように眩しくなっていくのを感じる。いつも通りのルカの気配は、心に平静さを取り戻させた。ルカの居ない間、正確にはいつの間にいなくなっていつの間に帰ってきたのか把握出来ていないが、とにかくルカの居なかったこの数日間の記憶はひどく曖昧だ。白く濁り、思い出すことが出来ない。ルカがいないことだけは分かっていて、それ以外はわかっていなかった。食事をしたのかどうかも、眠っていたのかどうかも、仕事に関しても、自分がどんな生活を送っていたのか、何もわからない。ルカの言うとおり、体調が悪かったのだろう。飢餓とは違うので今まで体験はした事がなかったが、体調不良以外に説明のしようがない。人間が罹る病で似たようなものはあっただろうか。人間とは違うと思ってきたが、この体は既に人のそれと同じなのかもしれない。案外、薬も効くのではないだろうか。次にまたこういう事が起こった時には試してみよう。人間の薬程度で死ぬこともあるまい。
 ふと喉の渇きを覚えて、ベッドサイドへ目を向ければ水入れとコップがトレイに乗せられて用意されていた。ガラスの水入れはだいぶ周りに汗をかいているので、用意されてからそれなりに経っているようだった。常温の水を口に含めば、体中が求めていたと騒ぎ出す。胃に何も入っていないせいか、水が体のどこをどう通って染み込んでくるのかがよく分かった。カラカラに乾いていた体が満たされると、今度は違うものが欲しくなる。こんな時、ずっとずっと遠い昔であれば人間を喰えば満足出来た。けれど今は人間を食べたいとは微塵も思わない。求めていた理由もわからない程、それは昔のことになってしまった。最後の降夜祭までは私だけだったけれど、今は私以外の全ての夜徒もそう思っていることだろう。夜徒はもう寂しさから人を喰う生き物ではなくなってしまったのだから。
 ルカの足音が聞こえてくる。慎重に歩くその音は、部屋の前で止まると少し逡巡したようだった。何を躊躇うのかはわからないが、あのこのことだから理由なんてくだらない事だ。
 控えめなノックの後に、ゆっくりとドアが開く。
「なんて顔してんのよ」
「普通の顔だよ。それよりいきなり食って平気?」
「大丈夫じゃない? 水を飲んだけれど、特に問題なかったもの」
「そっか」
 ルカの固まっていた表情筋が、少し和らぐ。そのことに安堵を覚える心を無視して、ルカから粥の乗ったトレイを受け取った。湯気を立ち上らせる白いミルク粥の真ん中には、黄色く丸い卵黄。普段のミルク粥にはのっていない太陽のようなそれを、そっと崩す。太陽の気配を纏ったルカは、じっと食べる様子を観察していた。どれだけ口で大丈夫だと言ったところで信じないのだろう。大丈夫だと本人が言っている上に、ルカと違って私は自分を誤魔化したり嘘をついたりはしないというのに、自分の事を信じ切る事ができないルカは私のことも信じる事が出来ずにいる。
 少しずつ口に含み咽下することを何度か繰り返すと、ようやく肩から力が抜けたようだった。
「おちおち旅行も行けねぇ……」
「こんな事そうある訳ないんだから、好きに行けばいいじゃない。そういえば、あんたどこ行ってたの。彼と一緒だったんでしょ」
「事前にあんだけ言ったのにマジで覚えてねぇの!?」
「だったら何よ」
「先生が体調悪いの気付かないで旅行行った俺も俺だけど、自分でも気付いてなかったろ、絶対! 体調悪いなら分かりやすく顔に出してくれりゃいいのに」
「言われて出来るもんじゃないわよ。大体、自分でもわかってないっていうのに」
「だったらやっぱり、俺が先生の事ずっと見張ってなきゃダメじゃん」
「……」
「あ、今度は一緒に行けば……って無理か、そうするとミンミ来ねぇかもしれないし、何より講義と研究あるもんな。そういえば論文終わってんの? 明日までだろ」
「…………」
「先生? もしかして論文全然進んでねぇ、とか?」
 かちゃりと音を立てて、サイドボードにトレイごとお粥を載せる。まだほこほこと温かな湯気を立てているそれを横目に、ルカへと手を伸ばした。
「……先生!?」
 首に手を回して引き寄せ、ルカの耳元に囁く。
「あんた、それってプロポーズ?」
 真っ赤になって否定して、それでも最後には頷いて、どこにも行かずにずっと傍にいると誓わせてしまおう。これから先、おかしな夢を見なくても済むように。


《病めるときも健やかなるときも -end-》
2011/04/11





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