望んでいた未来
放課後、ユースを迎えにルカは医務室へと向かう。
相変わらず寝てばかりのユースだが、医務室の主であるところのジェシーによれば、以前に比べユースの医務室滞在時間は減っているらしい。
以前……降夜祭よりも前には朝から夜までずっといるのも珍しい事ではなかったから、それに比べれば朝からせいぜい放課後までの今は確かに短いだろう。
調子が良ければ授業にも出ているらしいと聞いた時は驚いたが、ユースが普通の生徒のようでルカは嬉しかった。
とはいえ明らかに単位が足りていないと思われるので、一学年上であるはずのユースが同級生になる日も遠くない気はしているが、その時はその時だ。ルームメイトとしてもクラスメイトとしても交流していけばいい。もう、夜徒とその生贄ではないのだから。
「失礼しまーす」
医務室のドアを軽くノックして、扉を開ける。中から暖かな空気が流れてきて、同時に遅いと、定位置である自分の椅子に腰掛けたジェシーから声がかけられた。
「授業終わって真っ直ぐ来たのに遅いって言われても」
「あんたがさっさと迎えに来ないから、仕事にならないのよ。彼も待ってるんだから、早くいらっしゃい」
「待ってる? 珍しいな、起きてんの?」
「ちょっと前からね」
いつもは閉じられている事の多い仕切り用カーテンが、今日はしっかりと開かれている。
ルカがそちらへ視線を向ければ、ベッドの上ではユースが珍しく上体を起こして座っていた。顔色も悪くはなく、少しホッとする。
「ユースおはよう。どうしたんだよ」
「腹が減って、目が覚めた……」
「カフェテリアに行くように言ったんだけど、あんたが来るからってグーグーお腹鳴らして待ってたの、彼」
ジェシーの補足を聞きながら、ルカは眉を八の字にする。
「腹減ったんなら俺の事はいいからカフェテリア行けよ。先生に伝言残してくれたらそれで十分だし」
そもそも、こうして迎えに来ることはルカが勝手にやっていることだ。
明確な約束があるわけではない。
ただ、放っておけば本当に一日中眠っているユースが心配だったのだ。以前に比べ体力は戻ってきているらしく、以前ほど眠り続けることはなくなったが、またいつ倒れるかわかったものじゃない。そんな時にすぐに支える事が出来るように、ルカはユースの傍になるべくあろうとしていた。
それを言った事はないが、薄々と察してはいるのかもしれない。ユースは静かに頷いた。
「そうか」
「次からはそうしろよな。腹減って倒れたら元も子もないだろ」
「ああ、わかった……」
「勝手に人を伝言板扱いしないでくれるかしら」
ユースが納得してくれたので、そのまま素直に話がまとまりそうだったというのに、とルカは振り返ってジェシーを見た。
「ちょっと、何よその顔」
「それぐらい協力してくれたっていいだろ」
「嫌よ。面倒だもの。大体ここを待ち合わせ場所にするところから間違っているのよ。医務室って何をする部屋なのか知っているかしら」
「少なくとも、実験するための部屋じゃねえことはわかる」
ジェシーの嫌味が含有された質問は、ビーカーフラスコそのほか訳の分からない実験道具その他が場所を占有しているこの医務室で放っていいものではないとルカは思う。
いつ来てもここは医務室の臭いではなく、化学室の臭いに満ちている。
「医療だって立派な化学よ」
「そりゃそうだろうけど、明らかに医療の実験じゃねぇじゃん。っていうかこの前空き教室にどっさり荷物運んだのに何でまた戻ってんだ」
「こっちで試したい事があったから持ってきたのよ。終われば戻すわ、あんたが」
「また俺がやんの!?」
「当然でしょ。そのためにランチ奢ってやってんだから働きなさい」
そんなに頻繁に奢ってもらってねぇしとルカが言い返そうとしたところで、隣からぽそりと、けれど切実な呟きが聞こえてきた。
「腹、減った……」
「あーもー、分かった分かった。何か食いにいくぞユース」
「そうか」
幾分元気な返事が返ってきたかと思えば、ユースはそそくさと立ち上がり始めた。
食事が絡んだ時のユースはひどく現金だと思う。そして憎めない。悪いことだとは思わないし、最近では微笑ましいとすら思える。勿論呆れることもあるけれど、空腹で辛い思いをするよりは、黙々とひたすら何かを頬張っている方がよっぽどいい。食事をしている時のユースは楽しそうだと思うし、ユースが普通の食事だけで満足出来るようになった事は、きっと幸福だ。誰にとっても。
毒気をすっかり抜かれた気分になって、ルカはいつの間にか扉に手をかけようとしているユースを追いかけようとした。
が、大きな手にそれを阻まれる。机の前に座っているジェシーの前を横切ろうとした瞬間に、手を取られてしまった。
「何、先生」
ユースの方へ視線を投げるが、既に廊下に出てしまったらしい。姿は見えない。
包まれている手から、ジェシーの体温が伝わってくる。それは相変わらず、冷たかった。
「行かねぇと」
「そうね」
そう言うくせに、手は離さない。待ち合わせ場所にすることは嫌がるくせに、いざ出て行こうとすればこうして引き留める。素直じゃないといつも思うけれど、嫌だとは思わなかった。
ギギィっと椅子が声をあげ、ジェシーが立ち上がることをルカへと知らせる。
それまで見下ろしていた顔がルカの頭よりも上にくると、そのまますっぽりと抱きしめられた。二十センチほどの身長差は、いつだってジェシーの胸の中をベストポジションとしてしまう。
「あとで図書館に行くわ」
「わかった」
端から見てもそうとわからないように過ごす、自習時間の密やかな逢い引きの約束。
二人きりの今はこうして教師と生徒の枠を超えてしまっているけれど、いつだってこうな訳じゃない。
恋愛感情を確りと自覚してしまってからは、余計に周りに気を遣っているつもりだ。
ジェシーの手にルカの熱が伝わって、ほんのり体温が灯る。
それを確かめて、ルカはジェシーの腕からするりと抜けた。
「またあとで」
「ええ」
いっそ素っ気ない挨拶を交わし、何事もなかったように医務室を出た。
扉を閉める直前また椅子が鳴いたのが聞こえた。これから自習時間までの間は仕事を進めるのだろう。もっとも、自習時間は自習時間で、ジェシーは仕事を続けている。ルカとジェシーは互いに横にいるだけ。それだけの逢い引きだ。
「終わったのか」
廊下に出れば、ユースがいつもと同じような無表情で待っていた。
「悪い、待たせた」
「大丈夫だ」
グゥゥゥと腹の虫を鳴かせながら言う台詞ではないことは、ユースにもきっと分かっているはずだ。
「無理すんなよ。我慢はしないって約束しただろ」
「すまない」
腹が減ったなと呟くユースとそんな彼に対してつくづく燃費が悪いよなあと感想をこぼすルカは、廊下を足早に歩き出す。
楽しいことばかりではないし、お気楽で普通な生活とは少し違う現状。
それでも、かつてルカが望んでいた普通の生活よりも、今はきっと楽しいはずだ。
《望んでいた未来 -end-》
2011/02/09