「ねぇ、ルカ。聞きたいことがあるんだ」
「なんだよ改まって」
 メイの隣ではピットが、俺の横ではベナがそれぞれ昼食を口に運んでいる。
 しかしこうやって見てみると、メイも含めた三人とも食い方が綺麗だ。これが育ちってやつだろうか。ああでもベナはどうなんだろう。ピットと出会ってから綺麗になったのか、それとも昔からなんだろうか。
 それだと元々の性格っていうのも関係しているのかもしれない。ベナなんて、普段の動きとかは結構雑だもんな。
 スープを啜る姿も、改めて見るとなんか澄ましてる感じがして、普段とはギャップがある。
 そんな事を考えながら、ポテトをフォークにぶっ刺して、口に運ぶ。
 メイを見れば、表情から巫山戯ている雰囲気は感じとることが出来ない。
 目があって一呼吸した後、メイはその口を開く。
「君さ、ジェシー先生とお付き合いしてるって、本当?」
 メイのとんでもない発言に食ってるものを思いっきり噴き出したのは、俺じゃなくて隣のベナだ。
 俺はといえばつい反射的に立ち上がってベナから離れたわけだが、取り残された俺の昼食はベナの噴き出したスープにまみれてしまっている。ああ、俺の飯……。っていうか、なんでわざわざ俺の方に向かって噴き出すんだこいつは。
 おかげで、正面に座っていたピットはベナの餌食にはならずに済んだようで、落ち着いてとベナにナプキンを差し出している。当たり前のようにベナの口元を拭っているが、こいつらも相当仲が良いよな。
 事の発端であるメイは、ビックリしたような顔でベナを見ていた。
「どうしてベナがそんなに驚くの」
「あ、あんたが変な事言うからでしょうが!」
「僕としては噂をたしかめたかっただけなんだけど」
「噂って、そんな噂流れてんのかよ」
 初耳だ。いつ、どこでそんな噂が流れているのか、俺としては是非聞いておかねばなるまい。
「僕も詳しくはないんだけどね。何でも、コック長との三角関係の末に、ジェシー先生と君が付き合ってるって聞いたよ。ルカとコック長がジェシー先生を取り合ってとも、コック長とジェシー先生が君を取り合ってとも聞いたけど、どれが正解?」
「どれも不正解に決まってんだろ!」
 なにやらもう昼飯どころではない。噂の出所はどこなのか皆目検討もつかない。そもそもなんでフォルと三角関係なんてことになってるんだ。
 男三人で三角関係なんて、虚しいにも程がある。せめてベナとピットが俺を取り合うとかそういう噂にしてくれと言ったら、それは絶対にあり得ないから噂になりようがないわよとベナに一蹴された。
 だったら俺とフォルと先生の三角関係はありなのかよと問いたかったが、そんな事おぞましいので口にもしたくない。
「ルカ、本当に覚えがないかよく思い出してみてください」
 それまで黙っていたピットが、俺を見てそう言う。
「噂が出始めたのは、降夜祭より後だったと思います。私が初めて聞いたのはここ二週間ほどでしたが、降夜祭前後に何かあったんじゃありません?」
「降夜祭……」
 降夜祭といえば忘れたくても忘れられない出来事だが、俺の言う降夜祭は他の奴らと違って、その前夜の方が比重が大きい。
 まさしく生きるか死ぬかの瀬戸際だった訳だが、先生を交えた説得の末、俺はこうして今も生きている。
 いざ迎えた朝はといえば穏やかなものだったし、朝の使者としてのお務めもつつがなく終わらせたし、自由になった後は色んな所を見て回った。
 そう、そうだ。あの時、俺と先生が契約するキッカケになった事があった。ちょうど、カフェテリアの厨房でのことだ。
 ちらりと厨房を見ると、フォルがニヤニヤニヤニヤいやーな笑いを浮かべてこっちを見てた。
 あげくに投げキッスまで放ってきて、アイツは完全に分かっててやっている事が伺える。
「ちょっとフォルの野郎殴ってくる」
「それって、余計噂に拍車をかけるだけなんじゃ」
「自分から飛び込むなんて、ホント馬鹿よね」
「噂なんて、無視しているのが一番ですわ」
 そう言いながらも、ベナは一緒に行ってくれるらしい。唯一俺と一緒に立ち上がり、ピットとメイに食事を続けるように言う。
 ピークの過ぎた厨房は一息ついているところらしい。皿洗いをしている人と、給仕が一人。そして問題のフォルだ。
 厨房の中に入るわけにはいかないので、カウンターでニヤニヤしていたフォルを捕まえて、話を聞く。
「フォル、お前噂のこと知ってるだろ」
「ああん、なぁんの事でしょうねえー」
 わざとらしい棒読みは、知っていると言っているようなものだ。本人も隠すつもりはまったくないらしいし、気にもしていないようだ。
「お前も巻き込まれてんのに、なんでそんな余裕でいられんだよ!」
「ふっふーん、やっぱり知らねぇんだな。ま、噂自体知らなかったみたいだもんなあ」
「何だよ……なんかあんのか?」
 声を少し潜めて、乗せられているとわかっていてもつい身を乗り出してしまう。
「なぁに、あの野郎が噂のおかげでちょいとばかり居心地悪いみたいでな。ウソをつけない夜徒ってーのは面倒だねえ」
 なるほど、フォルの機嫌の良い理由がよく分かった。本当に先生とフォルは仲が悪い。
「自分だって夜徒のくせに」
「俺には関係ないからな。それに、お前を取り合ってたってのはあながちウソでもねぇだろ。降夜祭の真っ昼間にちょいと派手にやらかしたからな、アレが効いてるみてぇだな。わーっはっはっ!」
 俺と先生が契約をかわすきっかけを作ったのは誰あろうフォルだが、あの件は厨房で行っていたせいで目撃者も多い。しばらくはひそひそとされていたのは知っていたが、それがまさかこんな内容だとは思ってもいなかった。
「笑ってる場合か! そこで否定しないから噂が広まるんじゃねぇか!」
「無駄よルカ、そいつに何言ったって」
 そこで黙っていたベナが口を挟んでくる。フォルは相変わらずニヤニヤと笑っているばかりだ。
「おう? 相変わらず冷たいねぇ」
「はぁ。あいつもルカもこの通り真面目なんだから、あんたも面白がってないで適当なとこで切り上げてやんなさいよ」
「ま、そろそろ消えるんじゃねぇの。最近はもう下火になってるみたいだしな。ただな、俺のせいで噂が広がってるって思われるのは心外だ。噂をなかなか消させねぇのは俺の態度じゃなくて、こいつら自身のせいなんだからよ」
「俺?」
「そ。お前らが校内でイチャイチャしまくってるから、それが噂の後押しになってんだよ。まあ、無自覚みてぇだから? 無駄かもしれねぇけどな」
「イチャイチャなんかしてねぇし! したこともねぇ!」
 何を言い出すんだ何を。フォルの戯言にいちいち反応したり、真面目に受け取ってはいけないとわかってはいても、これだけはきっぱりと否定しておかねばならない。ベナの方を見れば、何ともいえない表情で固まっていた。
「…………」
「ベナ?」
 呼びかけるが、微妙な顔のままこちらを見ている。一方のフォルはベナに向けて楽しそうな表情をしていた。
「な、俺のせいじゃないだろ」
「そうね……全部が全部あんたのせいじゃあなさそうね」




「まさか無自覚だったなんて」
「正直、すごく驚いたよ」
「すげえ仲良いんだってーのは多分誰でも知ってんぞ」
 口々に言うのはメイ、ネクト、アクセルの三人だ。
 ラウンジでだらしなく会話をしているが、その内容に俺は正直げっそりしている。
「そんなに仲良くしてるつもりはねぇし、何より俺いつも虐げられてんだぞ」
「虐げられてるって言う割に、しょっちゅう一緒にいるよねー」
「今のルカの主張から導き出される答えは一つ」
「お前、マゾ?」
「違う!」
 反論してもこの調子で、正直反論するのも疲れる。
「まあそれは冗談にしても、ルカがジェシー先生と仲が良いっていうのは本当に皆が知っていることだ。ルカがどう思っているのかは知らないけど、端からはそう見える」
「でもその割には、ジェシー先生がルカを贔屓したりしてるって感じはねぇよな」
「むしろ成績はあんまり芳しくないって言ってなかったっけ?」
 メイは笑顔で結構ひどいことを聞いてくる。確かにその通りだから、否定も出来ない。
「うっ。そういう意味でなら贔屓はしてもらってるかもな。授業で俺にあてる回数半端ねぇし! レポート多いし! 普段だって雑用手伝わされるし」
「ジェシー先生は、そういう所キッチリしているからね。これでルカが不当に贔屓されていたら今頃立場を失っていただろうけど、そうじゃないから、周りも特に何も言えない。相変わらず言葉に刺はあるけど、不正はしていないからね」
「だな。ま、多分普段の先生への鬱憤も含んだ嫌がらせみたいなもんなんじゃねーの」
 それは大いに納得する説だ。先生がかってる恨みは、一つや二つなんて可愛いもんじゃない。絶対に。これだけは自信をもっていえる。
 だから勇者フォルは、生徒達に希望としてこっそり支持を集めていたりするのだ。
「それに巻き込まれたルカにはご愁傷様としか言いようがないけど、ルカも悪いんだよ」
「何でだよ」
「さっきカフェテリアでも言われてたけど、本当にイチャイチャしてるもの」
「だからしてねぇって!」
 またこの話に戻った。どうあっても俺と先生をそういう風に仕立て上げたいのか。
「じゃあ訊くけど、毎朝先生に紅茶を淹れてあげてるのはなんで」
「何でって、飯の時間が被って一緒に飯食ってて、俺も飲むからついで?」
「前はコーヒーを飲んでいたんじゃなかった?」
「今だってたまには飲んでるし、コーヒーの時はわざわざ先生に淹れたりしてねぇよ。そりゃ頼まれれば淹れないこともねぇけど」
「っていうか、なんで朝飯一緒に食ってんだよ」
「飯食いに行って見かけたら挨拶ぐらいするだろ」
 これは別に間違ってないはずだ。挨拶は大切なことだと、小さい頃から言われている。しないよりはした方がお互いに気持ちも良い。
「挨拶はしても、別に並んだり向かい合ったりして食べる必要はないじゃないか」
「ルカってばそのまま当たり前のように座るんだもん」
「そうか?」
「そうだよ」
「でも、そんなのお前らと一緒になった時だってそうだろ? 同じだよ」
「僕らと居ても、先生の近くに座ろうとするけどね」
「そうだっけ?」
「そうだよ !あんまり自然に横に座るから俺らどうしていいかわかんねぇ時あるんだぞ?」
「悪い、全然気付いてなかった」
「ほらみろ」
「やーっぱり」
「無自覚」
 なんでこうも息が合ってるんだこの三人。俺への嫌がらせなんじゃないかとじわじわ思い始めた。
「だからって、朝飯一緒に食うぐらいでイチャイチャなんて言われる筋合いはない!」
「では次の質問」
「まだあんのかよ」
「校内で会ったとき、わざわざ駆け寄ってるのはなんで」
「なんでって、俺そんな事してねぇよ」
「これも無自覚かよ」
「はい、次ー」
「じゃあ放課後一番に向かう場所はどこ」
 取り仕切るメイに、打ち合わせでもしているかのようにネクトが質問を繰り出す。さっきからこいつらの言動を見てると、してないのかと本当に疑いたくなる。台本があると言われても信じるだろう。
 とりあえず、質問には素直に答えることにする。嘘ついてもしょうがないからだ。
「……医務室」
「なにしてんだよ」
「……雑用。書類とかファイルとかレポートとか整理したり、あと掃除。使用済みの実験道具洗ったりとか、部屋の掃除したり。最近は実験の手伝いもしてるけど、それだってガキでも出来そうな事ぐらいだけだな。あ、時々報酬として飯奢ってもらってる。考えてみりゃ、そのせいで一緒に飯食うこと多くなったんだよなあ」
「自習時間に二人で居ることも多いよねー」
「課題重なりまくった時にほんの少しヒントもらったりはしてるけど、ちゃんと自力でやってるぜ? 先生そういうとこは厳しいから」
「いや、そういう事じゃなくて何で一緒にいるんだっつーことだよ」
「図書室とカフェテリア以外じゃ会わねぇから、そんなに一緒にはいねぇよ」
「その目撃率が高いから、こんな風に噂になってるんだよ」
「そもそもジェシー先生って、前は医務室に籠もってる事が多かったからあんまり夜の時間に会わなかったよね」
「そういや最近よく見るよな」
「ルカとセットでね!」
「一緒にいるったって、たまたま同じ空間にいるってだけで別に先生と話したりしてるわけじゃねぇよ。むしろ話なんかしてない方が多いんじゃないか? 大抵先生はなんか読んだり調べてるし、俺も勉強したり休憩したりしてるし」
「………………」
「………………」
「………………」
 三人は黙ってお互いに顔を見合わせた。俺変なこと言ったか?いや、言ってない。
「なんで黙るんだよ」
「なあ、ルカ」
「なんだよ」
「やっぱりお前の自業自得だわ」
「はぁ!?」
 思いっきり不満の声をあげれば、やれやれとメイはこれ見よがしにため息をついた。
「ねえ、夜に二人でいる時の会話とか、覚えてる?」
「いや、特には。そんな変わった会話とかした覚えはねぇし」
「それじゃあ、そんなルカに教えてあげるよ。アクセルはルカ、ネクトは先生の役ね」
「役ってお前ら」
 なんだか小芝居が始まるらしいが、これは虐めなんじゃないだろうか。
「『あ、そうだわルカ、この前届いたアレどこにしまったか覚えてる?』」
「『アレ? ああ、アレなら一番右端の棚の引き出しに入れた。この前そう言ったじゃねーか』」
「『そうだったかしら? まあいいわ、ありがと』」
「……わかった?」
「何が?」
 さっぱりわからない。おかしなところはどこにもなかった。確かにそういう会話をする事もあるなぁという程度だ。
「こういう会話はね、一教師と一生徒がするもんじゃないってこと」
「アレで通じていいのは夫婦だけなんだよ!」
「あの時たまたま通りかかってそのやり取りを聞いてしまった時は、アクセルと思わず顔を見合わせたよ」
「だな」
「お前ら好き勝手言いやがって」
「だって、ルカってば本当に自覚ないみたいなんだもん」
「お前にとっては当たり前なのかもしれねぇけど、俺らからしてみりゃ仲良すぎなんだよ」
「だから噂の格好のネタにされてしまったんだ。火のない所に煙は立たないっていうだろう? こういう日々の積み重ねがあるから、余計に今回の噂は成長してしまったんだと思うよ。最初はないないって笑っていたけど、それを聞いてから二人の姿を見たらもしかして本当なんじゃ……ってね」
 三人ともふざけているわけではないらしい。空気がそれを物語っている。だが、素直に頷けはしない。
 俺だけは否定を続けなければ、噂を受け入れてしまう気がした。
「俺が悪いって言いたいのかよ」
「少しぐらいはね。勿論悪いのは面白がって噂を立ててる人だけど、程々にした方がいいんじゃないって事。今はまだ可愛いものだけど、悪意を伴ってエスカレートすると本当に洒落じゃすまなくなるかもしれない。最悪、先生とルカに処分をって事にもなりかねないしね。職員室にも結構聞こえてるみたいだし、気をつけた方がいいよ」
「フォルもそんな事言ってたな。先生が噂のせいで居心地悪い事になってるって」
「でも、当のジェシー先生は気にしていないみたいだ。ルカへの態度も変わらないし」
「ルカが今日まで噂を知らなかったのが、そのいい証拠だよね。ルカを気遣って、変わらずに接してたのかな」
「気にしてねぇだけじゃねぇ? そういうのくだらねーって思ってそうだし」
 それには同意だ。先生はそんな事気にするようなタイプじゃないと思う。まあ噂の内容にもよるだろうが、今回のような噂はくだらないの一言でばっさり切って捨てている気がする。
 勇者フォルのいたずらには高確率で憤慨しているから、フォルはそのへんを突くのがうまいと思う。
「そもそも気をつけろったって、どうすりゃいいんだよ」
「意識すればいいんじゃない?」
「意識?」
「そう。人目を気にして、人前ではイチャイチャしない! これに限るよ」
「だからイチャイチャなんかしてねぇって……もういい。いちいち否定すんのも面倒くせぇ」
「二人にとっては程よい距離かもしれないけど、ここにいる以上は先生と生徒なんだから、ある程度の線引きは必要だと僕は思う。教師っていうのは特定の誰かを贔屓してはいけない立場だからね」
「つってもなあ」
「何も、僕らだって先生と君が本当に付き合ってるとかそんな事思ってない。仲が良いのだって悪いことじゃない。でも、今の二人は少しその線を越えてる気がする。少なくとも周りにはそう見えてる。最近、スキンシップも多いしね」
「スキンシップ?」
「ジェシー先生って、よくルカを撫でてるもんね。あとまあ色々、細かいスキンシップが多いなって僕も思ってた」
「あー、ほっぺたに手添えてたり、あれはまずいな。違うって分かってても、こいつら付き合ってんじゃねーかって思っちまう」
「そんな事した覚えねぇんだけど」
「しているよ。たまに、だけど」
「それすらも分からないんじゃ、やっぱりまずいと思うなぁ」
「なあルカ、想像してみろよ。誰でもいいからさ、俺らが今言った事全部、自分じゃなくて別の誰かと別の先生で」
「……」
 アクセルに言われたとおり、適当に思い浮かぶ誰かと誰かを、聞いたばかりの俺と先生の行動に当てはめていく。
 誰と誰の組み合わせであっても、答えは一つ。
「ね、そういう噂、立ってもおかしくないでしょ?」
「……」
 メイの言葉に、静かにうなずくしかできなかった。




「先生」
 夜、医務室を訪れる。
 隠れてではなく、堂々と。本当に体調が悪いからだ。なんでか、腹が痛い。
「あら、珍しく顔色悪いじゃない。どうかしたの」
 延びてくる腕が、当たり前のように頬に触れた。この手の冷たさにも心地よさを覚えたのはいつだろう。
「なんか腹っていうか胃の辺りが痛くてって……て!」
「手?」
「そう、手! 俺も本当に今まで気付いてなかったけど、これおかしいだろ」
 昼間指摘された事を思い返して、急いで先生の手を振り払った。
「何がおかしいのか、私にはよくわからないわ。説明してちょうだい」
「だからさ、先生当たり前に触るけど、普通こんな風に触ったりしないだろ?」
「呆れた、何意識してんのあんた」
「意識っていうか、当たり前のことに気付いたっていうか、髪で遊ぶなって」
 懲りずに伸びてきた手は、俺の短い髪をくるくると巻き付けては離れていく。俺も先生の神を結ったりするけど、確かにこういう行為は他人を勘違いさせるかもしれない。
「噂、聞いたんでしょ」
「…………」
「図星、ね」
 手が離れ、先生はその目をそっと細めた。俺は先生に対して嘘がつけない。
「今はまだいいかもしれないけど、このまま続くと先生の立場悪くなるかもしれないだろ。あんまり意識してなかったけど、今日メイたちに指摘されて、それからよく思い返してみて、やっぱまずいかなって思った」
「私の立場なんて、あんたが気にする事じゃないでしょ。別にあんたを贔屓してるわけでも、ましてや付き合ってるなんてこともない。これが私たちの普通なんだから、それをわざわざ変える方がよっぽどおかしいわよ。疚しいことは何一つしてないんだから、堂々としてなさい」
「でも」
「私がいいって言ってるんだから、良いのよ。ほら、胃が痛いんでしょ。診せてみなさい」
「うん……」
 先生の前に座って、腹を出した。いくつか質問に答えながら、聴診器とか使うんだとか、まるで本当の医者みたいだとか、他人事のように眺めていた。
 軽い診察が終わって服を直す。
「ストレスかしらね。たかが噂を気にしすぎなのよ」
「それでも気になるだろ。俺のことはまだいい。ただ、それで先生が変な目で見られるのは嫌だ」
 そう、俺がずっと気にしているのは、そこだ。俺が傍にいるせいで、先生の立場が悪くなるのは嫌だと思う。勿論自分のことだって気にならないわけじゃない。嘘のせいで変な目で見られたりするのはご免被りたい。それでも先生は、教師という立場上俺よりもっとまずいと思う。
「……ルカ、標、見せなさい」
「なんで」
「いいから」
「……わかった」
 先生につけられた新たな標。先生の指が伸びてきて、標に触れると、そこだけ氷を当てられたかのようにひやりと体が反応する。何度触れられても慣れるものではない。
「いい? 私たちはこれで繋がっている。いつだって。望まない時だって、否応が無しにね。私の一部がここにいるんだもの」
「俺からはよくわかんねぇんだけどな」
「でも、私が近くにいることはわかるでしょう」
「先生が見てるんだなってのは、なんとなく」
「そうやって、私たちは繋がっているわ。そんな私たちが特別な関係でないと言い切れる? これはあんたを守るためだけの契約の標で、他の用途はないつもりだったけれど、お互いを意識し合って契約を交わすということは、この標をそれだけのものでは無くしてしまう。私はあらゆる場面であんたを意識するし、感じる。あんただってそう。私がそばにいることがわかってしまう。契約を交わしてしまった以上、私とあんたはただの教師と生徒だけではいられない。私の研究対象でもあるしね。あんたの観察が私の実験だもの。見ないわけにはいかない。それが周りの人間にどう見られていたとしても、私たち自身が間違えていないならそれでいいの」
「でも先生は教師だろ。生徒とそんな噂が立つだけで、普通はまずいんじゃねぇの」
「世間体という意味で問題はあるかもしれないけど、それは付き合っていた場合でしょ。事実とは反しているんだもの、問題ないんじゃない」
「でも、先生が噂のせいで居心地悪いって聞いたけど」
「何よそれ。……ああ、呼び出されはしたけど、ちゃんと納得してもらったわよ。あとは噂の収束を待つだけだわ。実際、もう消えそうだしね」
「そっか……。俺だけ何も知らなかったんだな」
「別に構わないじゃない。問題なんて何もなかったでしょ。くだらない噂なんて、好きなように言わせておけば勝手に消えていくわよ。良くも悪くも人は慣れるし飽きる生き物なんだから、放っておくに限るわ。むしろ気にしたり関わったりした方が面倒は起きるし馬鹿を見ることになるんじゃないの。知った途端に胃を痛めてる今のあんたみたいにね」
「うっ……そんなもんかな」
「そんなもんなのよ。だからそんな事を気にしてないで、忘れて眠りなさい。どうせもうじき消灯なんだから。そうね、もし明日になってもまだ痛むようなら、またいらっしゃい。よく効く薬、処方してあげるわよ」
「その薬、副作用とか」
「飲めばわかるんだから説明なんていらないでしょ」
 万が一のことを考えて恐る恐る尋ねれば、予想通りの返答が返ってくる。
「ぜってぇ来ねぇ! そうやって隙あらば人体実験しようとすんのやめろよな!」
「あら、人聞きの悪いこと。私があんたで人体実験なんてした事あったかしら」
「あるだろ! さんざん!」
「あんた勘違いしてるみたいだけど、今までのは実験じゃなくて条件を投下した上での観察よ」
「俺が被害を被ったらどれでも一緒だ!」
「ほんっとにうるさい子ね。たまには自ら進んで頭開いてみてくださいぐらいのこと言いなさいよ」
「言ったら本当に開けるだろ! 先生こそ、たまには純粋に俺の体調気遣うとか、レポートなしにするとかしてくれよ」
「いつだって純粋に心配してるじゃない。これ以上望むなんて、ちょっと欲張りすぎよあんた。そもそもレポートはあんたが授業中に上の空だから課せられたものであって、自業自得って言葉知ってるかしら?」
「ぐ……」
 言葉に詰まると、先生は小さく苦笑を漏らす。
「元気出たなら帰って寝なさい。……そうね、レポートの期限、三日延ばしてあげるわ」
「え、マジで?」
「マジよ。さ、ここも消灯するから出てって頂戴。それから、帰り道気をつけなさい。夜徒に喰われないように」
「俺を喰える夜徒なんて先生しかいねぇじゃん」
「そうね。だから私に喰われないうちに帰りなさいって言ってるのよ」
「冗談」
「だといいわね」
「失礼しましたー」
 医務室を飛び出ると、廊下は真っ暗だ。
 それでも慣れた道なので、迷うことはない。こうも暗いと、ほんの少し怖いと思わなくもないが、気にしないように寮へとまっすぐに帰る。
 胃の痛みは既に治まっていた。
 本当にこのままでいいのかどうかは分からない。
 先生は態度を変えるつもりは毛の先ほどもないようだし、先生の言うとおり気にしすぎない方がいいのかもしれない。
 何度も言うが、イチャイチャなんてしているつもりは本当になかったのだ。
 いつの間にかこの距離感が俺と先生の自然な距離感になっていて、それを周りが見ると確かに仲良く見えたかもしれないけれど。
 フォルが言うには、噂は既に下火らしい。先生もそろそろ消えそうだと言っていた。
 それなら、やっぱり気にしないで放置すればいいのだろう。先生方にはもう話はついてるようだし、俺が気にすることはない。気にしたところで無駄だ。
 しばらくは周りの視線が気になるだろうが、自意識過剰だと思うことにする。
 事実に反してることを言いふらされて良い気持ちはしないが、誰が言っているのかも知らない俺にはどうしようもない。噂を流した奴を許すつもりはないけれど。
 その時、ゆらりと紫の炎が立ち上った。
 見覚えのある火の玉は、先遣りだ。
 そう認識した途端、抵抗する間もなく後ろから羽交い締めにされた。パニックにならなかったのは多分、相手が誰だかわかっていたからだ。
「ルカ」
「先生?」
 耳元で囁かれる声は優しかったが、恐怖を感じていないといえば嘘になる。頭の中では、つい今し方別れた時の言葉がフラッシュバックしていた。
 先生に食欲はない。先生は俺を喰ったりしない。そう思っていても、やはり夜徒に対して染みついた恐怖は完全になくなることはない。
「何怯えてんのよ。おやすみを言いに来ただけでしょ」
「へ?」
「おやすみなさい、ルカ」
「お、おやすみ」
 くしゃりと頭を撫でて、先生は顔を見せることなくそのまま先遣りとともに、消えた。振り返ると、医務室の明かりも消えている。
 びっくりした。
 本当にびっくりした。
 消える瞬間、先生が微かに笑っていたのを感じた。
 喰われないとわかっていても、怯えてしまう俺が、おもしろかったのだろうか。
 なんだか急に腹が立って、くそっと吐き捨てる。
 そうだった。先生はそういう夜徒だ。噂のせいで胃を痛めた俺もバカだし、噂のせいで先生の立場が悪くなってるかもしれないなんて気にした俺もバカだった。
 気遣いなんて無用だ。
 だって、相手はジェシー先生なのだから。
 悩んでいた俺を見て、馬鹿だと思っていたに違いない。
 噂を立てた奴だって、先生はとっくに突き止めていて、既に報復をしていてもおかしくない。
 不本意な噂を立てられて黙っているわけがないのだ。呼び出したという先生方も、多分さんざん嫌みを言われたに違いない。同情すら覚える。
 急にばからしくなってきた。
 噂だって誰かによる先生への嫌がらせだろうし、俺は巻き込まれただけだ。噂の原因だって、俺じゃなくて先生にある。
 全部先生のせいじゃねぇかと思い始めると、ムカムカした気持ちはおさまるところを知らない。
 全部先生のせいなのに、俺だけ心配して、体調まで崩して、まるっきり馬鹿だ。
 さっさと部屋に戻って寝よう。
 元々の締め切りよりも更に三日だけ延びた課題のことは、また明日考えればいい。
 しばらくは医務室へ手伝いに行くこともしないと今決めたから、時間はある。
(おやすみなさい、ルカ)
 耳に残る先生の声を振り払いながら、寮へと戻った。



 それから噂はとんと聞かなくなり(元々俺は聞いていなかったけれど)、皆の予想通り収束したようだった。
「おはようルカ。噂、おさまったみたいで良かったじゃないか。最近全く聞かなくなったよ」
 朝からすっきりした顔をして、ネクトがやってきた。これから朝食らしい。俺はといえば、既に終わっている。メイが食い終わるのに付き合いながら、甘くしたコーヒーを啜っていた。
「あ、そー」
「何? どうかしたの?」
「最近医務室に全然行ってないみたいだから、ジェシー先生不足なんじゃない?」
「メイ、変な事言うな」
「今だって先生居るのに、挨拶にも行かないじゃないか」
「別にわざわざ挨拶なんてしに行く必要もないだろ」
「噂のせいでケンカでもしたのかい」
「してねぇよ。元々こうだったろ」
「ね、この調子でさ」
「なるほど」
 何がなるほどなのかと思うも、聞き返しはしない。やぶ蛇だってことぐらい、今の俺にだってわかる。
「あ、ほら先生行っちゃうよ」
「別に、授業で嫌でも顔合わせるし」
 わざわざ挨拶になど行かない。近くにいれば別だが、今は離れている。これだけ距離があるのに、わざわざ追いかけて挨拶なんてしない。
「……あれ」
「こっちに来るね」
「え?」
 顔を上げれば、もう先生がすぐそこに来ていた。
 目がばっちりと合うと、先生は口角を少しだけあげる。
「おはよう、ルカ」
「……おはようございます」
「レポートの提出期限は今日だけれど」
「授業の時に提出します」
「放課後、医務室まで持ってきてちょうだい。ついでに頼みたいことあるの」
「俺忙しいんですけど」
「いいからいらっしゃいよ。忙しいったって、あんた今特に課題とか出てないでしょ」
「それはそうですけど」
「いい、放課後よ。来なかったら……」
 それだけ言い残すと、先生はその場から立ち去った。意味ありげな視線だけをのこして。
 俺と先生のやりとりを間近で見ていたネクトが、ようやく椅子に座りながら口を開いた。
「行かないとまずそうだね。ご愁傷様」
「くそ……脅迫とか卑怯だろ」
「急に避けたりするからだよ。ほら、先生も寂しかったんじゃない?」
「そんな訳あるか」
「えー、わからないじゃない」
 メイは口をとがらせるが、分からないわけがない。
「わかるよ。先生は俺で遊んでるだけだ」
「そうかなあ。そうは思えないんだけど」
 いいや、絶対そうに決まっている。
 それ以外にはない。絶対にだ。



 気の重い放課後。行きたくないし何度帰ろうかと思ったが、結局医務室の前にいる。
 だが、扉に手をかけるには至らない。
 入りたくないのだ。バカにされたり、遊ばれたりするのはいつもの事だけれど、なんとなく気まずい。ずっと来ていなかったせいだろうか。
 噂のことはもう全く気にしていない。
 先生もそうだろう。
 ならば何を気にしているのか、もう自分でもよく分からない。ただ、自分から行くことは絶対にしないと決めていた。
 多分、意地だ。
 今日も、呼ばれたから来ただけで、そうでなければここにはいない。
 何度目かわからないため息をついて、医務室の扉の前でただ立ち尽くしていた。
「ちょっと、いつになったら入るのよ」
 声がかかったのは医務室の中からではなく後ろからで、思わず飛び上がっていた。
 近くにいることは気付いていたが、中にいると思い込んでいた。まだ時間は早いので、先遣りで後ろにきたわけではなく、最初から外にいたのだろう。
「い、居たなら見てないで声かけてください」
「あんた、声かけてほしくないみたいだったから、気を遣ったんだけれど?」
「結局声かけてるじゃないですか」
「いい加減焦れったいんだもの。なんなのあんた」
「なんなのって、呼ばれたからその通り来たのに」
「そういう事を言ってるんじゃないわよ。はあ。もういいわ、中入って」
 背中を押されて、そのまま医務室の中へ足を踏み入れた。その瞬間にわき上がる懐かしいという感情を、知られまいと必死に隠す。
 懐かしいってなんだよ。
 最後に訪れてからまだ二週間も経っていないというのに、こんな風に思うなんて。
 さっさと自分の椅子に座った先生は、こちらを見て手を差し出してきた。
「はい」
 何のことかと首を傾げてしまったが、そうだった。レポートを提出しに来たのだ。
「はい、これ」
「時間かけたんだもの、さぞ立派なレポートになっていると期待しているわ」
「思ってもないこと言うな」
「あら、思ってるわよ。たまには優の判子に出番あげたいしね」
「どうせいつも可ですよ」
「分かってるなら努力してちょうだい。じゃ、確かに預かったわ。次は本題」
「本題?」
「そうよ、そのために呼んだんだもの。これは口実」
 それぐらいわかってるでしょと言いながら、その長い足を組む。
「なんのつもり?」
「なんの事ですか」
「その態度と、しばらく無視してた理由。噂を気にしての事だったら今すぐ実験に付き合ってもらうわよ」
「違います。先生のせいです」
「私?」
「他に何があるっていうんですか」
「身に覚えがないもの」
「まあ、俺もよくわかってないし」
「……はぁ? ちょっと、本当に手術が必要なんじゃないの。あんた頭大丈夫」
「手術はいりません。もう帰っていいですか。課題出たんでやっちゃいたいんですけど」
「却下。理由をきちんと説明するまではいてもらうわよ」
「わかんないもん説明しろって言われたって」
「だからなんで分からないのよ。理由は知らないけど、あんた私に何か不満があるんでしょ」
「不満っていうわけじゃないけど」
「じゃあ何よ」
「…………先生のせいで、俺があれこれ悩むの馬鹿らしくなっただけです」
「なにそれ。理由になってないわよ」
「十分な理由だと思いますけど。先生に振り回されるのに疲れたんだと思います」
「あんたの方がよっぽど私を振り回してるわよ」
「へ?」
「見てわかんない?」
 言われて初めて気付く。そういえば、医務室内……特に机周りが大分荒れている。積み上げられた紙類、散乱する器具類、机だけにとどまらず、部屋中のあちこちから手紙や書類がひょこひょこ顔を出している。無事なのはベッドと治療器具や医薬品類の並んでいる棚と大事な書類の並ぶ棚ぐらいのものだが、そこは元々俺の管轄外だ。鍵をかけて管理する場所は先生の責任なので、俺は触れないし触らない。
 医務室へ来なくなる前は毎日のようにやってきては雑用をして、机周りは特に頼まれて片付けることが多かった。俺の管轄だといつの間にか決まっていた箇所は、何日間も来ていなかったことをこれでもかと物語っていた。
「ひっでー」
「あんたが来るのサボっているから、医務室がこんな状態になるんじゃない」
「元々は自分で片付けてたんだし、自分でやればいいじゃないですか」
「最近はずっとあんたにやらせてたから、微妙に位置が違ったり、整理する時間が足りないのよ。学会の発表まであまり時間がないっていうのに」
 迷惑だと言わんばかりの態度を取られると、まるで俺が悪いかのようだ。この部屋は先生の管轄であって、元々俺が片付けをする義理だって無い。そもそも生徒に触らせていいものでもない気がする。すごく、今更だけど。
「だから、片付けてちょうだい。とりあえずそこに積まれた書類、あんたに見られたらまずいものはないから、種類ごとにファイルに分けておいて」
「はぁ!? なんで俺が」
「それがあんたの仕事だからよ。決まってるじゃない。今日はそれを頼みたかったの」
「帰ります」
「あら、仕事の依頼断るの?」
「先生に振り回されたくないって言ったじゃないですか。もう、手伝いません」
「……なに駄々こねてんのよ」
「駄々じゃなくて、当然のことを言ってるだけですけど」
「駄々よ。私をさんざん振り回したんだから、その責任ぐらい取って然るべきだわ」
「振り回してなんかいないし、責任だって生じてない。先生こそ、俺のこと今までいっぱい振り回したんだから、放って置いてください」
「そんな顔して言われてもね」
 どんな顔をしているっていうのか。俺にはわからなかったけれど、先生の手が伸びてきて、優しく顔に触れた。
 頬を撫でる大きな手は、大事なものに触るかのように優しくて、なんでかとても腹が立つし、泣きたくなる。泣いたりしないけど。
「何度も言うけど、今の研究はあんたが対象なの。ここ最近の観察もまあ悪くはないけどやっぱり近くで観察したいのよ。だから、さっさと機嫌なおして戻って来なさい」
 久しぶりに、先生の目をしっかりと見た気がする。眼鏡の奥で光ってる紫の瞳。
 先生が何を考えているのか、わからない。
 俺を便利に使いたいだけなんじゃないか、小間使い程度にしか思ってないんじゃないかとも思う。それでも、戻ってこいと言われて素直に従ってしまいそうになる自分に、嫌気がさす。必要とされているんじゃないかと、勘違いしそうになる自分が嫌だ。
「先生は勝手だ」
「そう?」
「そうだよ。この前だって、俺はずっと何も知らなくて、俺ばっかり先生のこと気にして、悩んで、馬鹿みたいじゃねーか。先生は全部自分で処理できるし、心配する必要なんて全然ないし、そんな事わかってたのに、気になってしょうがないのがすごく嫌だ。嫌だから離れてたのに、離れてれば気にならないと思ってたのに、さっさと戻ってこいなんて、全然俺のこと考えてねぇ。だいたい、アシスタントが欲しいならもっと話の分かる奴いっぱいいるだろ。俺じゃなくたって」
 何を言っているんだろう。頭ではそう思ってる。支離滅裂じゃないか。これで先生に俺の言いたいことが伝わっているのだろうか。
 わからないけど、自分の中のぐちゃぐちゃとしていて整理出来ていない感情が勝手にこぼれていく。
 俺だけが勝手に先生のことで悩んでいらない心配をしていた。先生はそんなのどこ吹く風で全く気にしてないどころか、問題なく処理を済ませていて、俺も関わっていることなのに俺には一切知らせてくれなくて、周りも含めてただ俺一人だけ、何も知らなかった。知らなくていいと先生は言っていたけれど、俺は知らせてほしかった。先生にとってはどうでもいいことだったんだろうと思う。くだらない事だったんだろうと思う。実際、くだらないと俺も思う。それでも共有したかった。終わったあとに知って、悩んで、心配して、それが全部無駄なことだと分かった時、とても腹が立った。
 俺が勝手に心配したところで、そんな事に意味なんてなくて、その意味がないという事が悔しいのだ。
 先生の中でとっくに終わってしまっていた事で、今更大騒ぎしていた俺は、どこからどう見ても滑稽そのもの。
 馬鹿にされていたと思う。自分でも、馬鹿だと思う。
 それが悔しい。俺ばかりが振り回されていて、先生にとって俺はその程度なのだと知ってしまった事が、悔しい。
 ああそうか、やっぱり俺は馬鹿だ。怒っていたんじゃない。
 認めたくないけれど、俺にとって先生はどこか特別で、けれど先生にとって俺は特別ではないという事が、悔しかったのだ。
 確かに駄々かもしれない。
 馬鹿な子供だと言われても仕方ない。
「どこまで馬鹿なのかしら」
 呆れ声でそういう先生は、俺の腕を掴んで抱き寄せた。
 引き寄せられた勢いで中腰になり、そのまま抱きしめられる。
 首に腕が回され、先生の頭がすぐ真横にある。顔は当然見えないが、声はすごく近くにある。あり得ない距離。
 俺は動くことが出来なかった。
「馬鹿だとは思っているけど、迷惑だと思ったことはないし、あんたでなきゃダメなのよ。あんた以外をそばに置いたって意味ないってこと、わからない?」
「それは俺が、先生の研究対象だからだろ」
「そうでもあり、そうでもないわ。あんたを近くで観察したいのは本当。でもそれだけで、四六時中傍に居させたりしないわよ。私はあんたにアシスタントして欲しいの。それは私の意思よ。だから、勝手にどこかに行かれちゃ困るわ。ちゃんと来なさい」
「俺の意思は」
「あら、あんたは私が気になって仕方ないんでしょう? だったら素直になりなさいよ。それと、心配したり悩んだりするのが自分だけなんて思わないことね」
 それはどういうことだろう。そのまま受け取るなら、先生も悩んだり心配するという事なんだろうか。
「先生?」
「何よ」
「報酬は」
「そうね、今まで通りランチぐらいは奢ってあげるわ」
「しょうがねぇ。やってやるよ」
 冗談めかしていうけれど、そうでもなければ素直に引き受けることなんて出来ない。恥ずかしくて。
「そうしてちょうだい。あんたがいない間にずいぶん仕事溜まってるの。まとめなきゃいけない論文もあるし、しばらくは毎日通ってもらうわよ」
「うん」
「私のアシスタントは、ルカだけだもの」
「うん……」
 腕を伸ばす。先生にこんな風に抱きついたのは、初めてのことだ。
 こんなところを誰かに見られたら、せっかく消えた噂がまた復活してしまうかもしれないけど、今ここにある感情は噂されていたようなものじゃないから、少なくとも俺はそれをわかっているから、きっと問題ない。


《噂 -end-》
2010/12/03





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