重く沈む熱
「うわあああああああぁぁぁ……!!」
悲鳴をあげる彼の目の焦点がぼやけていく。
悲鳴が途切れると同時に、ぐらりと崩れ落ちるルカを床に倒れるすんでのところで受け止め、ジェシーは面倒そうに溜息をついた。
血溜まりに倒れ込まれたらますます面倒な事になりそうだと判断してのことだが、受け止めるのも面倒な事に変わりはない。意識を手放した彼の体は、ずしりとジェシーにその全体重を預けてくる。
それがまた、ジェシーを苛立たせる。ルカは今、敵であるはずの存在を目の前にしてあまりにも無防備だ。
"彼"の標をその身に宿しているが故に、"彼"以外の夜徒はルカに手を出すことは出来ない。しかし一切の記憶を受け継がずに生まれてきているルカがその事実を知ることはない。当然、ジェシーが夜徒であることも知らない。
知らないからこんなにも無防備でいられるのだ。
知ってさえいれば、目の前で老教師を殺され、自身も襲われて尚、夜徒の前で気絶するなどという自殺行為にも等しい事はしないだろう。
こうして、ジェシーの腕の中で気を失うことも、だ。
ジェシーはルカを抱えあげ、鮮血の中に佇む。夜が明けてもなお色濃い夜の気配と、むせ返るような鉄分のにおいが充満している聖堂内は心地よかった。
しかし、いつまでもここにいるわけにはいかない。
まずはルカを部屋へと運び、それからソニエラに連絡をして、警察も呼ばなければならない。全く面倒な事をしてくれると、ジェシーは双子の姿を思い浮かべた。
学内で狩りをするなとは、何度も言ったことだ。フォルスラコスも今の生活をそれなりに気に入っているせいか、そこには同意しているので、双子にも再三言っているだろう。もっとも、誰が何を言ったところで双子が言うことを聞くとは思っていない。"彼"の言うことすら聞かない双子を、誰が従えさせる事ができるというのだ。
降夜祭が近付くにつれ、本来の闇黒を取り戻していく彼らを止めることなど出来やしない。
面倒はこれだけでは終わらないだろう。
イレギュラーが多い今回、無事に契約を果たすことができるのか。心配をしている訳ではない。これ以上の面倒が嫌なだけだ。円滑に進める事が自分がここにいる理由で、自分はそれに従事していればいい。そしてやるならば円滑に何の問題もなく終わってほしい。どうせ心配などしなくても夜は続いていく。何かが引っかかっていても、"夜"は絶対で、それが変わることはきっとない。
変わってほしいと思っている訳でもない。
"夜"は、絶対だ。
ルカを正面から抱きかかえ、ジェシーは聖堂の扉に手をかけた。
忌まわしい聖堂からの廊下を抜け、建物内に逃げ込むとソニエラのお坊ちゃんがそこにはいた。ルカを部屋へ運んでから探そうと思っていたが手間が省けた。彼は固まったように動かない。視線は自分の腕の中で固定されていた。
「ル……カ……」
「そんな青い顔しなくっても死んじゃいないわよ」
びくりと体を震わせたが、ルカが生きていると知ったからか表情は安堵のそれだ。どうせそう遠くないうちに死んでしまうというのに、その時この子どもはどんな顔をするのだろう。
「一体何が」
「聖堂守が死んだわ。ルカは無事よ。聖堂守の遺体はすぐに発見されるでしょうから警察でも呼んでちょうだい、不本意だけれど」
「……校内での狩りは禁止されているはずです」
驚きに目を見張りながらも平静を装う姿は何とも健気だと思う。こちらに舐められまいとしているのがよく伝わってくるが、伝わってくるようではまだまだだ。冷めた表情と落ち着いた声を取り繕おうとしているが、その間もルカへの不安に揺れる視線は変わらない。
計画が円滑に進まなくなる事を危惧しているのか、それとも"友人"の安否を心配しているのか、ジェシーには分かろう筈もないし、理解するつもりもさらさらない。
「不本意だと言ったでしょう。それに今回は、聖堂守自身が望んだ事のようだし、私達にはどうしようもないわね。面倒なだけだわ」
「ディプル先生が、望んだ?」
「そうよ。それより通してもらってもいいかしら。そこにいられるとこの子、運べないんだけれど」
「ルカは!」
そこで感情が小爆発を起こしてしまったようだ。自然と大きくなってしまう声に自分でも気付いたのだろう、眉根を寄せはしたが問う視線は真っ直ぐジェシーに向けられていた。
それを絡め取ってから、腕の中のルカへと視線を移す。穏やかな呼吸以外今は聞こえない。怪我もなく、ジェシーの腕に負担をかけているこの重みはこの年頃の少年としてはごく平均。運動を自ら進んで行うタイプではないからだろう、筋肉はやや薄い。
スーツ越しでも体温は高いように感じる。しかしそれとて悪影響がある程のものではない。ルカの体は至って健康だ。
「血液にあてられたのと、精神的なショックで気絶ってところかしらね。起きればいつも通りでしょうよ。部屋に寝かせたら処理しに行くから、その間のこと頼めるかしら」
「わかりました。彼をよろしくお願いします。こちらは現場を確認して、祖父とことにあたります」
もうその瞳に不安の色はない。きつく決意のにじんだ瞳が聖堂へと向かっていくのを見送ることなく、ジェシーは学生寮へと足を進める。両手にかかるこの重さから、早いところ解放されたかった。
少しずり落ちそうになるルカを上へ軽く揺すって抱え直す。
気絶している人間を運ぶのに、正面抱きは効率が悪かったかもしれない。横抱きの方が楽だったか、もしくは肩に抱えた方が楽に運べただろう。だが今更抱え直すのもそれはそれで面倒だ。さっさと意識を取り戻してくれればそれが一番面倒がなくていいが、それには期待出来そうもない。結局、肩に乗せられた顎から涎が垂れてこない事を祈るばかりだ。
「ああ面倒……」
ルカの部屋の扉を開ける。
部屋の中には、二段ベッドと机が二つ。そして真っ正面にぼんやりと立っているこの部屋の住人。
「ご要望通り連れてきたわよ。私が助けに行かなくても、貴方の標がルカを守っていたけれど」
「……そうか」
彼の表情は静かだ。しかし今は彼の表情など気にしている場合ではない。
「いい加減重いんだけど、この子寝かせていいかしら」
「ああ」
ベッド前からスッと退き、スペースを作ってはくれるが手伝う気はないらしい。もっとも、そんな事を望んではいなかったし、そもそも自ら助けに行くことが出来ない程に弱っている彼にそれを望むのは無茶というものだ。
普段は彼が下で、ルカが上段で眠っているようだが一人でルカを上段へ寝かせるなど面倒にも程がある。
正面抱きから横抱きへと抱え直して、そっと下段のベッドへ横たえた。
うっと小さな呻きが聞こえたが、ルカはそのまま眠り続ける。当分起きることはないだろう。
この間にソニエラと共に今後について話をしなければならない。警察がくればそちらの対応もしなければなるまい。
ああなんて面倒なのだろう。
しかし自分以外に動ける夜徒など、こちら側にはいない。自分がやるしかないのだから仕方のない事だ。
「私はもう行くけれど、後処理が片付いたら説明にでも来るわ。その間に起きることがあったら」
「俺から説明しておこう」
「貴方が?」
「何か問題があるか」
「いいえ、何も。それじゃ」
ルカの光に満ちている部屋から逃げるように出る。ドアをしめる際にちらりと見えた彼は、ルカをじっと見つめていた。
彼が何を考えているかなど分かりようもないが、心配しているのかもしれないと思った。
「なんて」
そんな事あるはずがない。彼には感情などないのだから。
仮に生け贄が死んでいたところで契約は出来るのだし、実際は怪我の一つもなくピンピンしているのだ。感情があったところで、心配などする要素がない。
自分の馬鹿げた考えを、頭を緩く振って払いのける。
これから待っている出来事には溜息しか出ないけれど、ルカの重みから解放された体は軽い。
それだけがせめてもの救いだった。
だというのに。
「何かしらね、この物足りなさ」
ルカの眩しさも、ルカの重みも、ルカの熱も、ルカの吐息も、ルカの髪の感触も、さっきまで自分にかかっていたルカの全てから解放されて喜ばしいはずだ。
けれど心の奥の方からじわりと滲んでくるこの感情は何だろう。
ルカを見つめる“彼”の視線を思い出す。
ルカは“彼”の生け贄だ。“彼”の元にあるのは当たり前で、何ら間違っていない。そう分かっているのに。分かっていても。
起きたルカが目にするのは自分ではない。
迫り来る降夜祭の夜、最期にルカが見るのは自分ではない。
そんな当たり前のことが、なぜだかじわりと心を黒く染めていく気がした。
ジェシーは聖堂へと向かう足を速める。
響く靴音に迷いはなかった。
《重く沈む熱 -end-》
2008/08/19