密約
生徒達の消灯時間はとうに過ぎ、校内には当然ながら人気はなく静寂と暗闇に包まれている。
明日の授業の準備と送られてきたばかりの論文を読むために、ジェシーは一人医務室に籠もっていた。
手にしている論文の最後のページを読み終え、デスクの右側へ放り出す。
着眼点は悪くなかったが、結論までの行程に粗さの目立つ内容だった。
次の論文へと手を伸ばす前に軽く体を伸ばせば、ギシリと安い椅子が鳴いた。
窓の外へ目をやれば大きな月が煌々と夜空に浮かんでいる。
いつもより見える星の数が少ないのは、月が明るすぎるせいだろう。
満ちた月はここぞとばかりに光を反射し、そこにいた。
大して面白くない論文を読み続けていながらも少し気分が高揚しているのはそのせいかもしれない。
残っている最後の論文を手に取ると、思考は月から論文へと瞬時に移り、眉根を寄せながら読み進めていく。
紙を捲る乾燥した音が静かな室内に規則的に広がっていった。
音が止んだのは、それから暫くしてからの事。先程と同じようにデスクの右側へ放り出す。こちらは題材から結論まで終始して物珍しさのない論文だった。
時間の無駄だったわねと、ジェシーは読み尽くした論文達をまとめて封筒に仕舞い込む。
整理はまた、ルカが来た時にでも手伝わせればいい。
散らかり放題だったデスクの上をざっと片付けると、ジェシーは立ち上がり医務室を後にする。
カチャッと施錠する音がいやに大きく響いた。
月明かりの差し込む廊下を歩き、誰ともすれ違うことなく校舎を出る。
目指す職員寮へ目をやれば、既に半分以上部屋の灯りは消えていた。いつもより少し遅くなってしまったようだ。
さっさと帰ってシャワーを浴びようと足を速めるジェシーに、ぞわりとした感覚が襲ってきたのは職員寮の近くまで辿り着いた時。
誰かに呼ばれたような気がして、その場に立ち止まる。
近くに人影はなく、夜徒の潜んでいる気配もない。
誰かが近くで呼んだわけではない事ぐらい分かっていたが、念のために確認は怠らない。
また、呼ばれる感覚がやってくる。この感覚には覚えがあった。
ルカが呼んでいるのだ。
脳裏に浮かぶ彼の姿はバカみたいに笑っている。怒っていたり、困っているような表情の方が多い気もするが、浮かんできたのはそれだった。
彼に何かあったのかもしれないと、ジェシーは職員寮に入ることなく近くの柱の間に身を潜めた。
己の手から先遣りを出すと、それを学生寮へと向かわせる。
彼の暮らしている部屋へまっすぐに向かい、気付かれないように気をつけながら様子を探り始めた。
部屋は静かな闇に包まれていながらも、彼の持つ昼のような明るさに満ちている。
ルカの気配を感じる。
衣擦れの音と、わずかに上がった息と体温。何をしているのかなんて、すぐに分かった。分かりたくなくとも、分かってしまう。
年頃の少年なのだから、誰もが寝静まったこの時間に性を吐き出す事ぐらいするだろう。
身の危険があるわけでもなく、自分の出番など当然ない。
なのに何故、自分は呼ばれたような気がしたのか。答えなど判るはずもなかった。
兎にも角にも異常がなかったのだからこれ以上覗く必要もない。
くだらない事に闇黒を使ってしまったと思いながら、先遣りを戻そうとしたその時、幽かに、けれど確かにルカの声が聞こえた。
『せん、せ……』
思わず呟いてしまったのだろう言葉は、間違いがなければ"先生"と言っていた。
先程感じた呼ばれる感覚は、これのせいだったのだろう。
『ジェシー、せん、せ』
はぁはぁと荒い息の中、途切れ途切れに呼ばれる自分の名。
理解した途端に己の血が一カ所に集まるのを感じる。
ジェシーは一瞬で先遣りを戻すと、足早に職員寮へと足を踏み入れた。
今はとにかく、頭をもたげ始めている自分の処理をする事が先決だ。
階段を上がり自室へ到達した時、ジェシーはようやく息を一つ吐いた。
「最っ低」
電気を灯すことなく、ジェシーは壁により掛かりベルトのバックルに手をかけた。
カチャカチャと音を立ててもどかしげにベルトを緩め、パンツの釦を外す。
ジッパーを下ろす音がやけに響いたように感じたが、部屋が静かなせいだろう。
晒された下着越しにも、しっかりと勃起している事が見て取れる。
忌々しそうにその様を見ながらも、ジェシーの高ぶりは収まる事はない。
溜息混じりに下着を下ろせば、ジェシーの屹立したペニスが空気に触れる。
ドクドクと脈打つペニスを見るのは随分と久しぶりに思えた。
あれだけの事でこんなにも高ぶっている自分に、失望すら抱きかねない勢いだ。
ジェシーは目を閉じ、ペニスへ手を伸ばす。
熱く震えるペニスを握りこみ、ゆるゆると刺激を始める。
瞼の裏にはルカの痴態がはっきりと映り、鼓膜には聞こえるはずもないルカの声が響いてくるかのようだった。
自分を思って己を慰めるルカに、嫌悪感を抱きこそすれ興奮を覚えるとは夢にも思わなかった。
これが夢だったならどれ程救われる事か。
そう思いながらも、ジェシーの手はペニスを擦るのを緩めたりはしない。
「ふ……ん……」
小さく吐息が漏れる。
ゆるゆるとしていた手の動きは次第に滑らかに、緩急をつけてペニスを刺激する。
『ジェシー、せん、せ』
浮かび上がる声が自分をどうしようもなく煽る。
荒い息の中から聞こえる、ルカにしては酷く珍しい甘えた声は、腰にぞくりと快感を走らせる。
くちゅりと手元から音が聞こえだした。カウパー腺液が先端からトロリと溢れてきている。
手の動きをカウパーのぬめりが助け、快感が増していく。ぬちぬちといやらしい音がジェシーの鼓膜を震わせた。
布団にくるまり、背を丸めているルカの姿を思い浮かべながら、ひたすらに手を動かす。
そんなにしっかりと観察したわけではないというのに、ハッキリと思い出される。
眉をひそめどこか泣きそうな顔をして、体は熱に煽られ震えていた。
上気した頬が子供らしさを強調しながらも、その表情は快感に耐える男のものだった。
あんな顔も出来るのかと、自分の冷えた部分が感心しながらも、欲求を求める自分にはそんな表情はスパイスにしかならない。
目の前であの表情をされたら、どうしようもなく犯したくなるだろう自分が簡単に想像出来る。
ルカに触れたい。彼もそれを望んで、一人でしていたのだろうか。
声が届いてしまう程に、強く。
けれどそれだけ望まれるのは、悪い気はしない。
(なんて、何を考えているのかしらね)
さっさと達してしまえば、この奇妙な気持ちからもきっと解放される。
そう思えば、自然と手の動きも速まる。
どうすれば快感を高める事が出来るのかは、誰より自分が一番判っている事だ。
上下に緩急をつけながらペニスに刺激を与え、足の裏から股間までをビリビリとした快感が抜け始めた。
重心を壁に預け、安定した体勢を確保しながら限界へ近付いていく。
『せん、せ……』
ルカの声が先程からずっと離れない。熱を含んだ声音はそれだけで快感を与える。
あの声を誰に聞かせるでもなく、ただ夜に紛れさせてしまうのは惜しい事だ。
もっと、近くで。
そう、直接耳に吹き込ませよう。
一人で処理をするぐらいなら、最初から自分を求めてくればいい。
次からは勝手に呼ばせたりはしない。
今のような醜態も決して晒しはしない。こんな事は、今日限りだ。
びくびくと足の筋肉が震え始める。
手の動きを早めて、ペニスの根本辺りを重点的に上へ導くように何度も擦り上げた。
目の奥で何かがチカチカ弾けるのを感じながら、陰嚢が収縮し堪えきれずに快感が上り詰める。
「くっ……ルカッ……!」
視界が一瞬だけ白く染まる。
ペニスからビュクビュクと精液が勢いよく溢れ出るのを受け止めながら、ジェシーは呟く。
「やっぱり最低だわ」
こんな自分には二度とお目に掛かりたくない。
翌日、彼はいつものように医務室へ顔を出した。
朝はやたらと無気力な顔をしている事が多いが、今日は随分と元気そうだ。
「おはよう先生」
声にも覇気があり、昼を過ぎた後の彼を見ているようだ。
「いらっしゃいルカ」
元気そうなところ以外は変わったところもなく、昨夜の事は夢だったかのように彼はごくごくいつも通りだ。
じっとつま先から頭の先まで舐めるように観察をすれば、ルカはどこか居心地が悪そうに眉を寄せた。
「何だよ。何かついてる?」
「いいえ、ただの観察。そうそう、今日の授業あんたに当てるわよ」
「はっ!?」
「……昨日の放課後にもわざわざ教えてあげたのに、あんた全然予習してないわね」
「そういえばそんな事言って……こ、今回はパス、とか」
「構わないわよ。その代わりにレポートをあんたにだけ出してあげるわ」
「ああ……」
ガックリと項垂れるルカを眺めながら、ジェシーは目を細める。
本当に、何事もなかったかのようだ。それとも、ルカの中では何事もなかったのだろうか。
昨夜のあれが日常なのだとしたら、今日もいつもと変わらないのは当たり前なのかもしれない。
「今課題出していないんだから、予習ぐらいなさいよ」
「先生が出さなくても他の授業で出るんだよ」
「ちなみに?」
「いや、昨日は……何もなかったけど……」
ごにょごにょと語尾が消えていく。
夜の自習時間を一体何に使っているのか。わざとらしく溜息を一つついて、呆れた視線をルカへと送る。
ルカは視線から逃げるように一歩後退った。
「それでも、俺だって色々忙しいんだって!」
「予習も出来ないほど忙しいの。へぇ?」
ジェシーは椅子から立ち上がり、すっとルカへと体を近付ける。
ルカがびくりと体を震わせるのが伝わってくる。
ジェシーより二十センチ程背の低いルカに合わせて腰を曲げ、ルカの耳元へ唇を寄せた。
「マスターベーションをする時間はあるのに?」
ルカの耳にだけ注ぎ込まれる声は、彼を凍らせるには十分すぎたようだ。
瞬きすら出来ず、緊張からかルカはごくりと喉を鳴らす。
喉の動きに視線を馳せ、齧り付きたい衝動を覚えるが理性がそれを止めた。
「……先生、そういうのセクハラ」
「あら、言ってくれるじゃない。最中に私の名前を呼んだのは、どこの誰だったかしら」
ルカの体が完全に硬直している。軽口を叩くことすら出来ないようだ。
ルカの手へ視線を落とせば、真っ白になる程拳が強く握られている。
そっと、手を重ねた。
「なん、で……」
「あんたに刻んだ標は、あんたを他の夜徒から守るだけじゃないのよ。私の一部があんたの中にいるってこと、説明しなかったかしら」
「……」
言っている事を理解しているのかしていないのか、ルカの表情は固まったままだ。
こうまでショックを受けられると、虐めている気分になってしまう。
ゆっくりと、ルカの顔が伏せられていく。
露出する項を眺めながら、ジェシーはそこに口づけを落とした。
ルカはビクッと大きく体を揺らしたものの、逃げたりはしなかった。
「そんな顔しないでちょうだい。虐めてるみたいじゃないの」
「いや、虐めだろ。ものすごい虐めだと思う」
「自分で撒いた種でしょ」
ルカは強く握り混んでいた手の力を抜き、包んでいた手を握ってきた。
「先生、嫌じゃねーの?」
「別に」
一言で返事をすれば、ルカは驚いた顔をこちらに向けた。
「嫌だったら今頃あんたは動いていないし、ましてや手なんて触らせないわよ」
ギュッと手を握り返せば、ルカは少し安堵したような表情を浮かべた。
「そっか」
「でも、二度としないでちょうだい」
一瞬にして表情が凍り付くのが見て取れる。表情がコロコロ変わるにも程があるというものだ。
「ちょっと違うわよ、勘違いしないで。一人でするなって言ってるのよ」
「は?」
理解出来ない事を隠そうともせず、背中に大量のクエスチョンマークを背負っている。
しかしこればかりは、理解できなくても仕方ないかもしれない。
ジェシーはルカの額に自分の額をコツンとぶつけた。焦点が合わない程近くにルカの顔がある。表情は読み取る事が出来ない。
「我慢出来なくなったら言いなさいって事よ。いくらでも抜いてあげるわ」
「何言って……!」
そのまま、ルカの薄い唇を塞ぐ。柔らかく湿った口内に舌を差し入れ、歯列をなぞる。
ゆっくりと上あごを擦れば、ルカは腕の中でくすぐったそうに身を捩った。
「んっ」
鼻から抜ける声は苦しげで、自分を煽る。
互いの性を刺激する前にと、ジェシーは唇を離した。
ルカの頬を両手で覆い、最後にもう一度だけ軽い口づけを落とす。
「仕事の邪魔さえしなければ、いつでも構わないわ。夜中なら呼びなさい。行ってあげるから」
「本気かよ」
「夜徒は嘘をついたりしないって前にも言ったはずだけど、あんたのおつむは覚えていないのかしら」
「覚えてるよ! でも、冗談は言うだろ」
「安心しなさい、本気よ。こんな冗談、口が裂けたって言わないわ。ただ、私に黙ってまた同じ事をしたら……判ってるわね?」
「どうせバレるんだろ。だったらもう、しねぇよ」
「そ」
ルカを解放して、ジェシーは自分のデスクへ戻る。
椅子はギィッと音を立てて、ジェシーを受け入れた。
「何か最近の先生、ちょっとおかしいよな」
ポツリとルカの零した言葉は、ジェシーを振り向かせるには充分な威力を持っていた。
「あんた失礼ね。どこがおかしいって言うのよ」
聞き捨てならないわねえとルカ見遣れば、ルカは眉を八の時にして困惑しているようだ。
うーんと唸りながら、言葉を選んでいる。
「何て言うか、前は下ネタとか言わなかっただろ。そういうの嫌いそうっていうか」
ルカの言わんとしている事は判る。
ジェシーとて、己の変化に戸惑っている部分はあるのだ。
少し前まで己の性になど興味なんてなかった。誰かを欲しいと思う事も、興奮して高ぶる事もない。
夜徒としての空腹を感じなくなってから、それは更に顕著になったように思う。
研究と夜の事だけを思い長い時間を過ごしてきた。それ以外の事なんて、本当にどうでも良かったのだ。
それなのに、ルカとこうして共にいるようになってからというもの、忘れていた何かが沸々とわき上がってくるのを実感していた。
それが性欲であると気付いたのは最近の事で、最初はじわりじわりとした緩やかな変化だったものが、気付いてからはそれこそ坂を転がり落ちるように、あっという間の変貌を遂げた。
夜徒は欲望に忠実だという事を、ジェシーは身をもって思い出す。
それはルカのせいであり、その対象もまたルカだけである。
「別に下ネタを言ってるつもりはないわよ。性欲は人の三大欲求の一つで、ましてやあんたぐらいの歳なら一番旺盛なんじゃない?」
「それはそうかもだけど」
「あんたが欲情した相手が私だったから、私はそれを手助けするだけ。何かおかしいかしら」
「実験の一環?」
「ま、私の趣味でもあるわね。あんたが私の事を考えてするのは別に嫌ではないけど、どうせなら私が直接したいのよ」
わかるかしらと問いかければ、ルカの頬に朱が走る。
「先生、やっぱりおかしい」
「何とでもおっしゃい。私をこんな風にしたのはあんただもの。その責任はとってもらうわ」
「俺のせいかよ!」
「そうよ。当たり前じゃない」
ジェシーはどこか晴れやかに笑う。ルカは不満そうだったが、きっぱりと言われたせいか何も言っては来なかった。
時計に目をやれば、そろそろ予鈴の鳴る時間が差し迫っている。
些かゆっくりしすぎたようだ。ここから教室までルカが間に合うのかどうかは、ルカの足次第。
「ちょっとルカ、そろそろ予鈴が鳴るわよ。いつまでここにいるつもり?」
「え!? そういう事はもっと早く言ってくれよ!」
タイミング良く、予鈴の鐘が校内に鳴り響く。
「やっべぇ!!」
ルカは鞄を掴むと、突風のようにドアへと向かっていく。もう少し落ち着けばいいものを。そんなに慌てたところで、無駄な動きが多くなるだけだ。かえって効率が悪い。
ドアを潜る前に視線だけこちらに送り、ルカは叫んだ。
「先生、また放課後にな!」
バタバタと走り去る後ろ姿を見送りながら、ジェシーはハァと息を吐いた。
「その前に授業があるでしょう。バカね」
《密約 -end-》
2008/08/18