のぼせる病



※もしもアカデミーにお風呂があったらというパロ設定


「ねえルカ」
「ふぁい」
「あんたほんっとうにバカだわ」
「……仰る通りです」
 そろそろ帰ろうと準備をしていた医務室に運ばれてきたのは馴染みの顔で、ジェシーは深い溜息を吐いた。
 夕食前のこの時間、校舎には他に人の気配もなく廊下はしんと静まりかえっている。
 医務室以外は既に電気も落とされており、夜の気配が辺りを包み込んでいた。
「無理して長風呂なんかするからのぼせるのよ。あんた長風呂は苦手だって言ってた気がするけど気のせいだったかしら」
「あんまり得意じゃないってだけで別に苦手じゃねえ」
「それを苦手って言うのよ。覚えておきなさい」
 ルカは真っ白なベッドに横になり、額から目にかけてを濡れたタオルで覆っていた。
 運び込まれた時点では顔を真っ赤にしていたが、今は落ち着いてきたのかほんのり染まっている程度だ。
 脈も平常に戻りつつあり、あとは時間が彼を癒すだろう。
 脈を測るために持ち上げていたルカの手首をベッドへ戻し、ジェシーは帰り支度を再開する。
「落ち着いたら送っていってあげるから言いなさい。無理はするんじゃないわよ」
「あー、先生が優しく見える」
「それじゃあまるで、普段は私が優しくないみたいな言い方じゃない?」
「優しいつもりだったのかよ!」
 思わずと言った呈で、ルカは体を起こしてしまった。
 ルカの顔の上にあったタオルが、ビタリと膝の上に落ちる。
 タオルの下から現れたルカの瞳は驚愕に充ち満ちて、それはジェシーのこめかみを刺激するには充分すぎた。
「ふぅん」
 たった一言。
 それだけを口にして、ジェシーはじっとルカを見詰める。ルカの素直な表情はあからさまに怯んでいた。
 やばい!という文字を背負っているのが見えるほどに判りやすい。
 鈍い頭をどうにか動かして、状況の打開を考えているらしいルカの百面相を見ているのは悪くはなかった。
「えーと、嘘ですごめんなさい。先生は普段から生徒思いのいい先生だなー」
 考えた結果のお粗末さはさておき、ルカのわざとらしい物言いに、ジェシーはフッと表情を和らげた。
「……生徒思い、ね」
「?」
 意味ありげに言葉を切って、ルカを窺えば予想通り間の抜けた顔がそこにはあった。
 こういう期待は決して裏切らない人間の子供をいっそ愛おしくすら感じる。
 ジェシーはその長い足を踏み出して、ルカとの距離をさっと縮めた。
 こちらの言葉を待っているルカの額にそっと手を伸ばし、彼の前髪を優しく上げながらジェシーは言う。
「私は生徒思いなんじゃなくて、ルカ思いなのよ」
 一度目を合わせてから、露出させたルカの額に唇を寄せた。
 濡れタオルが先程まで乗っていたせいだろう。額は冷たく、湿っていた。
 唇を離し一拍おくと、みるみるうちにルカの顔が赤く染まる。
「………………うわっ! うわっ! うわああ!」
 折角一度収まったというのに、あっという間に運び込まれた時のような茹で蛸状態に逆戻りだ。
 ルカは前腕で目元を覆うと、背中からベッドに思い切り倒れ込んだ。
 ばふんと、マットレスが衝撃を吸収する音が耳に届く。
「ちょっと、何よその反応」
 面白くなさそうに尋ねれば、ルカは表情を隠したまま短く叫んだ。
「のぼせる!」
 先生恥ずかしすぎるだろ!と悶えているルカの膝から黙って濡れタオルを拾い上げると、ジェシーはそのまま喧しい口めがけて濡れタオルを放った。
 ルカが少し呻いたが気にせず、帰り支度を終わらせるべくジェシーは自分の机へと体を戻す。
 机の上に散乱していた書類をざっとファイルへ投げ込み、必要なものだけ持ち運び用のファイルケースへと移していく。
 時々中身を確認しながらの作業を繰り返し、気付いた時には三十分近く時が流れていた。
 帰り支度だけのつもりが、机周りの整理まで少し兼ねていたせいだ。
 後ろを振り返りルカを窺えば、彼はじっと天井を見上げている。
 静かだとは思っていたが、眠ってはいなかったようだ。
「動けるなら帰るわよ」
「ああ、うん」
 体を起こし、ルカは手に持っていた濡れタオルをジェシーに手渡す。
 すっかり温くなっているそれは端が既に少し渇いている。
「目眩やふらつきは?」
「ない」
「そ。歩けるわね」
「歩けないって言ったらここで寝かしてくれんの?」
「お望みならお姫様抱っこで寮まで連れて行ってあげるわよ」
「先生、それ笑えねえ」
「別にあんたを笑わすつもりはないもの」
 ルカの手を取り、ベッドから降ろす。
「行くわよ」
 右手に持っていたタオルを机の上に置き、ジェシーはルカの手を取ったまま歩き始める。
 ルカは特に何も言わずそれについてきた。
 ちらりとルカを見遣れば心なしか耳元辺りが赤く染まっている気がする。一晩のうちにどれだけ顔に血液を集中させるつもりなのか。
 医務室の扉をくぐり、鍵をかける。
 施錠の音が響いた廊下を、二人は靴音をたてて歩き出した。
「そうそう、聞き忘れていたけど、長風呂の原因は何なの」
「えっ!」
 静かな廊下に、ルカの声はたった一言なのにもかかわらず大きく反響した。
 明らかに狼狽した声が返ってきて驚いたのはジェシーの方だ。
「何よ」
「いや、今更っていうか、もう治ったしどうでも良くねえ?」
 話したくないのだろう。目が泳いでいる。本当にどこまで判りやすいのかしらとジェシーはそっと息を吐いた。
「良くないから訊いてんのよ。なあに、私にも言えないような事なの」
「むしろ、先生だから言えねーっつうか。あ! 今のやっぱりナシ!」
「だったら口に出さないでちょうだい。あんた致命的に遅いのよ。それから言ってしまったものは仕方ないんだから、さっさと言っちゃいなさい。今夜安心して眠りたいなら、ね」
「脅迫かよ!」
「どうせ勿体つけるだけ無駄なんだから、早くして」
 急かせば、ルカはピタリを足を止めた。ジェシーも足を止め、体を少しだけ後ろに向ける。
「ちょっとルカ」
「……先生の事、色々考えてたんだよ」
「は?」
 眉をひそめ、ルカを見る。
 ルカは俯いて、耳を今度こそ真っ赤にしていた。冗談で言ったのではないらしい。
 まだ続いているらしく、聞き取りにくい声でぼそぼそと喋っている。
「なんで俺の事選んだんだろうとか、どこまで本気なんだろうとか、今何してるのかとか、その、色々、考えてたらなんかクラクラしてきて、気付いたら倒れてたんだけど……」
 言葉を切ったかと思えば、ルカは両手で頭を抱えてギャー!と悲鳴を上げる。
「ああー! もう! すっげえ恥ずかしい!」
「バカね、恥ずかしいのはこっちよ。あんたバカだわ。正真正銘のバカ」
「バカバカ言わなくたって判ってるよ! それでも言えって言ったのは先生だろ」
「馬鹿正直に答えたのはあんたよ。……はあ」
 ジェシーは重く溜息を一つ吐くと、ルカの手を引いてまた歩き始める。
 校舎を出て、寮へと向かおうとすればルカの足取りが急に重くなった。
「なあ先生、そっちは職員寮だろ」
「そうよ」
「そうよって、送ってくれるんじゃなかったのかよ」
「気が変わったの」
「はあ? まあいいけどさ。じゃあ俺はここで」
「何言ってるの。あんたも来るのよ」
「はあ!? なんで?」
「気が変わったって言ったでしょ。寮長には適当に誤魔化しておいてあげるから、今夜は泊まっていきなさい」
「職員自らそういう事していいのかよ」
「たまには構わないんじゃない。それに、あんたの病気診てあげる必要がありそうだもの」
「病気って、湯当たりはもう」
「そっちじゃないわよ」
 一瞬何の事だという表情を浮かべたものの、思い当たったのかすぐに狼狽えだした。見ていて飽きないが、いつまでも外にいるつもりもない。
「私にしか、治せないでしょう?」
 そう尋ねれば、ルカはぐっと言葉に詰まりそのまま黙り込んでしまうが小さく本当に小さく、頷くのを見逃しはしない。
 ジェシーはルカをつれて自分の部屋へと足を進めた。
 二度と湯当たりなどしないように、バカなルカでも判るように自分の事を体で教える必要がある。
 ルカが嫌だといってもこちらの気が済むまで付き合わせよう。
 それが今夜の課題だ。
 ジェシーがニヤリと人の悪い笑みを浮かべた事を、ルカは知らない。



《のぼせる病 -end-》
2008.08.13





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