迂闊さの代償



 ルカは一人、降夜祭まっただ中のアカデミーを闊歩していた。
 廊下を歩く誰も彼もが楽しそうで、各所で売られている食べ物の何もかもが美味しそうに見えるから不思議だ。
 賑わう降夜祭を満喫しつつ、ルカは医務室から出られないでいる保健師代理に差し入れをするべく、物色しながらアカデミー内を歩き回り続けた。
 どれも魅力的には違いないのだが、いまいち決め手に欠け無駄にウロウロとするばかりだ。
 そもそも彼の保健師代理が喜びそうな物が分からない。何を持って行っても文句を言われそうではあるが、この時のルカには差し入れをしないという選択肢はなかった。
 世話をかけたお礼を少しでもしたかったのかもしれない。
 悩みながら進んでいると、急に腹を刺激する匂いが強くなった。
 カフェテリアが近いのだ。
 さっき一度覗いたものの、その時はマジックショーを軽く見ただけで、食事はしていない。
 そういえば昼食がまだだったと、ルカはカフェテリアに足を向けた。匂いも人の勢いも、どんどん強くなっていく。
 空腹は急に存在感を増し、早く早くとせがんでいるのを感じる。
「うわ、さっきより人増えてないか」
 アカデミー内のどこも人で溢れているが、カフェテリアの混雑振りもまたすごい。
 ほぼ満席と言っていい程、各テーブルには人がみっしりと詰まっている。
 そんな人口密度の高い中を、すいすいと歩いてくる人影に気付いた。
 無駄にでかい体なのに、よく他の人に当たらないものだと感心する。
 締まりのない口元と、その周りを囲む無精ひげの男は、ニヤニヤしながらルカの傍で立ち止まった。
「よおルカ、生きてるな」
「当たり前だろ! おかげさまでピンピンしてるよ。フォルは忙しそうだな」
「まあな。限定メニューも売れまくりよ! お前は昨日のうちに食ってたみたいだが、今日はどうするんだ」
「うーん、何にしようかな」
 視線をメニューに走らせようと思ったが、些か遠い。人が多い事もあって、とても読めるとは思えなかった。
 メニューを思い出そうとするが、これだというものも思い浮かばない。
 悩んでいるルカを見て、フォルはぽんと手を打った。
「ああそうだ、折角だから生き残った祝いに試食していけ」
「折角生き残ったので、遠慮しておきます……」
「何だよ、せめて見るとか聞くとかしてから決めろ」
「じゃあ見せてくれよ」
「いいぜ、こっち来い」
 また人を器用に避けながら、フォルは厨房へと向かって歩き出した。
 ルカもフォルの後ろを歩くが、フォルのようにはすいすいと歩く事が出来なかった。
 途中で何度か人にぶつかったり、朝の使者と声を掛けられながら、どうにか厨房の入り口まで辿り着く。
 そんな様子を、フォルは腕を組んで厨房の入り口に背中を預けながら見ていたようだ。
「人気者だな」
「今日だけな」
 ニヤニヤしているフォルに続いて、厨房の中へと足を踏み入れる。
 少し奥まった所に、フォルの新作は置かれていた。
 見た目は悪くない。何だかよく分からないが、立ち上る湯気と香り、バランス良く配置されている色とりどりの食材はとても美味しそうに見える。
 何かの炒め物らしいが、何の炒め物かは分からない。
 そして今までの経験から、こういう場面で分からないという事はとても問題なのだが、空腹のルカに食べてと訴えかけてくるものは大きい。
「どうだ、うまそうだろ」
 ルカの様子を見ていたフォルは、自信満々に笑った。
 自信作らしい。とは言え、フォルの新作はいつだって自信作なのだ。それが一般に受け入れられるかどうかはまた別の話。
「うん、見た目は悪くない」
 素直に感想を述べれば、フォルはどこからか大きなスプーンを取り出してきた。
「ほれ、四の五の言ってねえで食えよ」
 ルカはそのスプーンを受け取ろうと手を伸ばす。
 しかしフォルは動きを一瞬止めたかと思うと、突然スプーンごとルカの手を握り込んだ。
「何すんだよ」
「……なぁルカ、一つ聞きたいんだが、お前あの陰険眼鏡とはもう契約したのか?」
 突拍子もない質問に、はあ?とルカは首を傾げた。ついでに、何言ってるんだという眼差しもセットだ。
 何故このタイミングでその質問なのか、ルカには理解しかねる。
 今思いついたからとか、多分そういう事なのだろうとは思うが、質問に答えない限りはどうやら試食にはありつけないらしい。
 自分の胃袋のため、溜息混じりにルカは答えた。
「折角契約から解放されたってのに、なんでまた契約しなきゃいけないんだ?」
「という事はお前、今は標がないんだな」
「は?」
 スッと音もなく互いの距離を縮めてくるフォルにどうしようもなく恐怖を感じる。
 昨晩ユースに感じた恐怖と似ているようで違う。
 例えるなら、腹を空かせた獰猛な獣を前にしているような感覚。瞬間的に食われるという思いが体中を駆け巡る。
 そしてそれは、的中だった。
「なあ、俺に食われろよ」
 口調は巫山戯ているが、目は真剣そのもので、そのギャップに肌が粟立つ。こいつは、本気だ。
 己の立たされている状況を思うと、目眩がしそうだった。
 試食に来ただけなのに、反対に食われそうになっている。
「バカ言ってんじゃねえ!」
「俺は本気なんだがな。それが分からないお前じゃねーだろ」
ルカの手を包んでいるフォルの大きな手に、力が籠められる。
「……や、めろって。ここ厨房だぞ」
「ああそうだ。そしてお前は食材だな。それもまたとない、至高の、な」
 お前を食べるのに、これ以上適した場所があるか?とフォルは笑った。
 フォルの手は一度離れたかと思うと、ルカの手首をしっかりと掴み直した。その方が抑えやすいのだろう。
 ものすごい力で押さえ込まれても、以前のように自分を守ってくれるものは既にない。
 どんなに暴れたところで、夜徒であるフォルに力で対抗出来るはずもなく、己の手首が立てるミシッという音を聞いているしかできない。
「いっ!」
「ああ、痛いか。痛いよな。痛いのは、嫌だよな」
 なら苦しまないように楽にしてやるよと、耳元で囁かれる。
 注ぎ込まれた彼の低い声は、己の体内を恐怖で満たしていく。
 喉が引きつるのが自分でも分かった。
 口の中がカラカラになる。
 それでも、抵抗をやめたりはしない。
「やめろ! フォル! ふざっけんな!」
「生きの良い食材は大歓迎してやるが、もうちょっと大人しくしてた方がお互いのためだと思うんだがな」
 どうよ?なんてふざけた口調で問いかけてくるフォルめがけて、ルカは自由になる足で精一杯の抵抗を試みるものの、全く効いていない。
 まるで蹴られてなどないような素振りで、フォルが覆い被さってくる。
 口元は酷く楽しそうに嬉しそうに歪められていた。
「い、やだ! やめろフォル! フォル!」
「うるせえよ」
 ギリギリと締められる手首は、既に感覚がなくなりかけている。
 自由にならない体がもどかしく、抵抗出来ない自分が惨めで悔しい。
 ただ喚く事しかできない自分に、自分で呆れる。それでも諦めはしない。こんなところで死んでたまるかと、意味はないのだとしてもフォルを蹴り続ける。
 恐怖と悔しさの中、ふと頭の中に過ぎる影は、昨晩自分を救ってくれた人物。
 気付いた時には、口が勝手に彼の名を叫んでいた。
「……っ先生! ジェシー先生!!」
「ああ?」
 フォルの動きが止まると同時に、カフェテリアの入り口からものすごい音が響いてくる。音は厨房へと近付いてくるようだった。
 割れる食器の音と、生徒のざわめきが一気に広がる。同時に、近くで鈍い音がした。
 フォルの背中からぐわんぐわんと音を立てて、金属製のボウルが近くに転がる。鈍い音の正体だろう。
「ってえな! 何しやがる!」
 ルカから手は離さずに、フォルが顔を上げた。
 フォルの大きな体のせいで見えないが、誰かが厨房まで乗り込んできたらしい。
「あんたそれ、本気で言ってんのかしら。自分が今何をしているのか理解していないようね。これだから脳みそが筋肉で出来ている奴は困るのよ」
 すっかり聞き慣れたその声に、ルカの体から一気に力が抜けていく。
 体中の血が巡り出すのを感じ、口はやはり彼を勝手に呼んでしまう。
「先生!」
「あーはいはい、そんなに大きな声で呼ばなくても聞こえてるわよ」
 黒いスーツ姿のバージェシアはいつも通りだ。涼しい顔と鋭い眼光で、フォルを見ていた。
「勝手に厨房に入ってくるんじゃねえ!」
「私の物を取り返しに来ただけよ。そうでなきゃこんな所にわざわざ来る訳ないでしょう」
 フォルの視線はバージェシアからルカへと移動し、顔を歪めたかと思うと大仰に溜息を吐いた。
 ルカの手首が解放される。
 そのままフォルはルカから退き、厨房の台に腰掛けた。
「すっかり懐いちまいやがって。……興醒めだ」
「は?」
 解放された手首をさすりながら、ルカは首を傾げる。フォルから遠ざかる事も忘れない。
 バージェシアの隣まで移動すると、フォルの姿は背中しか見る事が出来なくなった。その背中は、少し項垂れているようにも見えた。
「はー……お前の顔みたら、食う気が削がれちまったんだよ。あからさまにホッとした顔しやがって。目の前でジェシーせんせー! なんて叫ばれてみろ、そりゃ萎えるだろ」
 咄嗟の叫びだったとはいえ、蒸し返されると恥ずかしい事この上ない。
 カッと顔に朱が走る。
 大体、そう叫ばせた原因は誰だと思っているのか。こちらだって必死だったのだ。
「言わせておきなさい。ほら、さっさとこんな所から出るわよ。空気が悪くて仕方ないわ」
「さっさと行け。テメエがいると食材が腐る!」
 バージェシアは忌々しそうに背を向けた。フォルも、背中を向けたままだ。
 ルカは一歩だけフォルに近付き、呼びかけた。
「フォル」
「あんだよ」
「さっきのは忘れてやるから、お前も忘れろ!」
「…………」
 少しの間を置いて、フォルは頭の横で黙ってひらひらと手を振った。
 それを確認し、ルカは既に歩き出したバージェシアを追いかける。
 ひっくり返った皿の数々を避け、痛いほどの人々の視線を浴びながら、二人はカフェテリアを後にした。
 カフェテリアの喧噪は当分、収まりそうにない。



「私とした事が、迂闊だったわ」
「フォルの事?」
 手首の手当てを受けながら、ルカはバージェシアの顔を窺う。
 眉間に寄っている皺が、不機嫌さを如実に表している。名前も聞きたくないと言わんばかりだ。実際、聞きたくないのだろう。
 会話を交わすことなくルカの手当てが続き、手首に保護のための包帯を巻いた後、バージェシアは不機嫌なままの顔を上げた。
「ルカ」
「な、何だよ」
 手首を優しく持ったままのバージェシアが、ルカの顔を真っ直ぐに覗き込んだ。
 眼鏡の奥で光る眼差しは、痛いほど真剣だ。
「契約するわよ」
「マジで!?」
 思わず声を上げてしまったが、冗談でない事はいくらルカでも分かる。
「あんた、他の夜徒に食われたいの?」
「まさか! 何のために生き延びたと思ってるんだよ」
 そう、何のために生き延びたのか。間違っても、夜徒に食われてやるためなんかじゃない。
「なら、私と契約なさい。私はあんたを研究対象としては見るけれど、餌としては見ていないわ。今のままじゃ、他の夜徒に食われておしまいよ。さっきみたいにね。それは私の望むところじゃないし、あんたの望むところでもないでしょう?」
 彼の口調はいつも通りだったけれど、声音には真摯さが含まれているように聞こえた。
 ルカの願望かもしれないし、そうでないかもしれない。まだまだルカにはバージェシアを理解する事が出来ない。それでも本気で言っているのだという事だけは、確信が持てる。
「ああ。先生に協力までしてもらって、俺は今日生きてるんだ。そう簡単に死んでたまるかよ」
 目を伏せ、思い出すのは新学期が始まってから昨晩までの事。あまりに色々ありすぎて、とてもじゃないがまだ整理しきれていない。
 それでも死ぬはずだったルカは今生きている。今のルカには、それが全てだ。
 ここで死んでしまったら、意味がない。
「契約しよう、先生」
 真っ直ぐにバージェシアを見詰め返すと、彼は少し首を引いて頷いた。
「私の標をあんたに刻むわ。どこがいいかしら」
 ルカのつま先から頭の先まで、舐めるようにバージェシアの視線が這う。
 あまり見られる事に慣れていないので、緊張してしまうのは仕方のない事だとルカは思う。
「それより、いつまで手首握ってんだよ」
 照れ隠しにそんな事を口走るが、実のところそんなに気にはしていない。
 握っているというよりは支えているという感じであったし、別に痛いわけでも不快感があるわけでもない。
「あら、治療の一環よ。痛みはどう?」
「まだ痛い。フォルの野郎思いっきり掴みやがって」
「まあ、本気じゃなかったみたいだけど。本気だったらあんた、今頃手首ついてないわよ」
 想像をするだけでクラクラしそうだ。夜徒とはつくづく恐ろしい。
 しかし、本気でなかったという事は食う気はなかったという事だろうかとルカが考えたところで、バージェシアが口を開く。
「力に関しては本気じゃなかったにせよ、食う気は満々だったでしょうね。そりゃあ最高の餌がホイホイ舞い込んで来たんだもの。そういう気にもなるんじゃない」
「うう」
 それは俺が悪いということなんだろうかと、ルカは呻いた。
 確かに、他の夜徒に食われるなんて考えてもいなかった。
 前日まではユースの贄をどう回避するかでいっぱいであったし、その間傍にいてくれた夜徒であるバージェシアは、人間に対する食欲がない。
 だからユースの事さえ回避してしまえばそれで終わりのような気がしていた。
 その油断が大きな間違いであったとルカは身をもって知る事となったが、バージェシアのおかげでやはりこうして生き延びている。
 とてもじゃないが、頭が上がりそうもない。
「痛みが取れても無茶するんじゃないわよ。暫くは通いなさい」
「面倒くせえけど、助けられたもんな。しょうがないか。そういえば、先生なんであんなにタイミング良くカフェテリアに来たんだよ」
 ぴくりと、バージェシアの体が僅かに揺れた。
「そんな事どうでもいいでしょ。それより、どこに標を刻むか決めなさい」
 ごまかし方が彼にしてはえらくぞんざいだ。触れられたくない話題なのかもしれない。
 それでも気になる事なので、ルカはめげずに踏み込む。
「そんな事ってのはないだろ。思い出してみれば、すげータイミングだったよな。どこかで見てたりした?」
 バージェシアは面倒そうに溜息を吐いた。やはり、聞かれたくない話題だったようだ。
「あんたをいちいち見張ってるほど暇じゃないわよ。あんたと違ってこっちは仕事中なの。ただ、さっきあんたが医務室に来た時、あのバカの話をチラリとして いた事を思い出しただけ。あのバカ、食に対してだけはやたら執着してるようだから、そこに抵抗の手段を何も持たない無防備なあんたが行ったらどうなる か……いくらルカでも分かるでしょう」
「……心配してくれたんだ」
 ルカがそう言えば、バージェシアの柳眉が面白くなさそうに思い切り潜められた。
「バカじゃない? 何度も言ってるけど、あんたは私の研究対象なのよ」
「それでも、結局は心配してくれたんだろ? 校内走ってまで来てくれた事実は、変わらないんじゃねえ?」
 バージェシアは溜息をついて、ルカの手首を握り直す。
 チリッとした痛みが、ルカの体を走った。
「そうね、事実は変わらないわ。私は校内を走っていないし、心配は研究対象として。それ以上でもそれ以下でもない」
「それでもいいよ」
 ルカは顔を真っ直ぐにバージェシアへ向ける。その表情は、どこか晴れやかだ。
 バージェシアも、そんなルカを訝しげに見詰めた。
「ジェシー先生、助けてくれてありがとう」
 ルカの言葉に、彼にしては珍しく面食らったような顔をしたかと思うと、重い溜息が一つこぼれ落ちる。
 上げた顔には呆れとほんの僅かな笑み。
「はぁ、あんたは心底バカね。あんたみたいなバカ、放っておけやしないわ」
「だから契約するんだろ」
「そうよ。さあ、どこに私の標を刻みたいのかしら、おバカさん?」



《迂闊さの代償 -end-》
2008/04/10





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