空腹にさよならを
時刻は深夜。
明日の下拵えを終えたフォルスラコスの耳に届いたのは、聞きたくなかった足音だ。
何の遠慮もなく聖域である厨房へ土足で踏み込んでくるような人物は一人しかいないため、確認する必要もない。
足音が複数でなく軽くもないから、今は大きい方なのだろう。
面倒くせぇなあと思いながら、フォルスラコスは振り返った。そこには予想通り、長い銀髪の青年の姿。
ミンミだ。
「カフェテリアの営業時間はとーっくに終了してるんだがな。なんでここに来るんだよ」
「腹が減っているからに決まっているだろう」
バカなのかとそのまま続きそうな台詞を遮るべく、フォルスラコスはその辺りにある食材を投げ渡す。
夕食の残り食材だが、調理はされていない。
「なんだこれは」
「お前が腹減ったっつーから分けてやってんだろうが! 生憎と火は落としちまったんでな。そのまま噛みちぎってくれ」
「ありがとう」
お礼を言った後渡されたウィンナーやハムの塊を素直にかじり始めたミンミをみて、これがあのミンミねえとフォルスラコスは心の中でこっそりつぶやく。
いつの間にかルカにすっかり躾られてしまったようで、基本は変わっていないものの、時々こうしてひどく驚くことがある。
かつては素直に礼を言うような奴ではなかった。ありがたいという気持ちすら、持っていなかっただろう。
そんなミンミが、自分に食料を与えられてお礼を言うだなんて、少し前なら信じ難い光景だ。
「それ食ったら戻れよ。お前も今は一応生徒って事になってるんだろ」
「知らない。ルカはそう言っていたが、興味はない」
「そのルカちゃんが心配するだろーっつってんだよ。今頃布団の中で寂しがってんじゃねぇの」
「部屋から出る時にどこに行くかは言ってきた。遅くなるなよとは言われたが、寂しいとは言われていない。それに……」
「それに?」
「今は……腹が減っているから一緒にいない方がいい」
「なんだよ、今はお前と契約してんだろ。だったら食っちまえばいいじゃねぇか」
「良くないからこうしてここにいる」
「俺様も一応忙しい身なんですけどねえ」
「お前の予定など知るか」
へぇへぇそうですねーと流して、再び頬張り始めたミンミを観察する。
そこでふと、違和感を覚えた。
「……お前、なんで勃ってんだ」
「なにがだ」
「ちんこ」
「さっき、ルカと寝ようとしたら急に腹が減った。それからずっとこうだ」
「普通腹が減っても勃たねぇよ。っていうか時間経ってるのにいつまでも勃ったるってお前の体おかしーんじゃねーの」
フォルスラコスの言葉に気分を害した様子もなく、ミンミは黙々と肉を咀嚼している。
呑み込むと同時に口を開いたが、声音はどうでも良さそうなそれだった。
「最近はずっとこうだ。どうもルカといると腹が減って仕方ない」
「……それ、本当に空腹か」
「どういうことだ」
「あー、まー、でもなあミンミだもんなあ。そういう事もあり得るか。だがいくらなんでも」
「どう言うことだときいている!」
「今度そういう風に腹が減ったらな、ここに来ないでルカを押し倒しとけ。ベッドに寝かせて、ルカにずっと触ってろ。そのうち収まるか、うまくいきゃあいつが処理してくれんじゃないの」
「処理だと?」
「お前のその空腹を満たしてくれるって事だよ」
ミンミは不機嫌そうに顔を歪めた。
「今ルカを食う気はないと言っているだろう」
「だーかーらー、いいから聞け!それは空腹じゃねーの!」
「空腹ではない?」
お子様だお子様だと思ってはいたが、本当にどこまでもお子様だ。食欲と夜への敵意でしか今まで生きてこなかったのかと思わせるほどだ。
「あのなぁ、お前、今まで誰かに対してでも自然現象ででも何でもいいが、そうなった事ねぇの?」
「ない」
気持ちがいいほどの即答で、ミンミは少し焦れたようにフォルスラコスとの距離を縮める。
「さっきから何だと言うんだ」
「ああん。おこちゃまにゃーわっかんねーこともあんだよ」
「死ぬか?」
「お前はまずその短気をどうにかしろ。それから、今すぐ部屋に戻ってルカと一緒に寝てこい」
「一緒に寝ようとすると怒る」
「そんなのは知らねぇよ。いいからお前のしたいようにしてみろ。変に遠慮なんかしてっから進展しないんだよ。お前そもそもそんなタマじゃねーだろ。遠慮すんならルカじゃなくて俺にしろ!」
「何故オレが貴様に遠慮する必要がある。だが、わかった」
恐ろしく素直に頷いたミンミは、かじっていたハムを食べきり、指をなめながら立ち上がった。
「戻る。ああそうだ、ごちそうさま」
もう用はないとばかりにすたすたと厨房から出ていく背中へ、ほんの少しだけ声援を送ってやるのはミンミのためでも勿論ルカのためでもなく自分のためだ。
「せいぜい頑張れ」
ミンミには聞こえていなかっただろう。
彼の背中はもう見えない。
明日の朝にはぐったりしたルカが恨みがましくカフェテリアにやってくるか、それともミンミと連れだって妙にそわそわしてやってくるか。もしかしたら、カフェテリアに来られない可能性だってあるが、そこまではフォルにもわからない。
わからないものの、ミンミが腹を空かして夜中の厨房にやってくることは減るだろう。
それだけで万々歳だ。
それを思えば、いつかやってくるだろうルカの恨みがましい愚痴などかわいいもの。
「さってと、とっとと終わらせちまうかね」
フォルは袖をまくりあげ、一度は終わった明日の下拵えに再び取りかかる。
明日のマル秘スペシャルは、魚肉バーガーに変更だ。
《空腹にさよならを -end-》
2010/03/14