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無題



 いつか目覚める日が来ることを、メフィストは知っていた。

 始まりは十五年前の冬の夜。
 後に「青い夜」と呼ばれ、世の聖職者達を死と恐怖で彩った悪夢とも呼ぶべきサタンの降臨せし夜のこと。
 世界中が阿鼻叫喚の渦中にあった頃、メフィストと藤本獅郎の二人は大きな秘密を抱えた。
 その時のメフィストには明確な目的があった訳ではない。存在自体が忌まれるべきその秘密が、楽しみに花を添えてくれさえすればそれで良かった。秘密の存在そのものが、既にメフィストを楽しませた。
 身の内に抱いた秘密はいつの日か甘く熟れ、メフィストを今以上に楽しませてくれるかもしれない。それを思えば騎士團から造反行為と取られてもおかしくはない秘密を抱える事など、なんという事もなかった。秘密が明かされたとしても、言い訳はなんとでも出来る。
 秘密の共有者であり、友人であり、自ら養父を買って出た藤本獅郎からは、その後不定期に報告という名の親ばかっぷりを披露させられ辟易する事となるが、それもまた楽しみと言えば楽しみだ。悪魔の子供を人の子供のように育てるなど滑稽でしかない。それに振り回されている友人の姿もまた滑稽だ。笑ってやらねばなるまい。
 藤本は秘密を共有するに至るまでは、ギラギラしたものを抱えたおかしな人間であったが、秘密を共有するようになってからはギラギラが抜け落ち、ただの親ばかでおかしな人間になってしまった。
 藤本がその庇護下で育てている子供達は、藤本とは血の繋がりなど無い他人の子。いくら母親と面識があったとしても、他人である事に変わりは無い。ましてや人間たちが畏怖するサタンの血を引く子供達だ。それなのに、藤本は我が子のように――もしかしたらそれ以上に、二人の子供を愛し育んでいた。
 そんな藤本の愛情に応えるようにすくすくと育った子供達は、一方は出来損ないの兄として、もう一方は優秀な弟として評価をされている。
 優秀な弟に関しては、メフィストも既に見て知っていた。
 生まれながらにして魔障を受けた彼には、悪魔に怯えて暮らす日々を過ごすか、祓魔師となって悪魔を殺す日々を過ごすかの二択しか存在していなかった。そうして選んだのは後者だ。
 養父の指導の下、祓魔師となるべく切磋琢磨している彼を何度か目撃した事もある。その優秀さはメフィストの耳にも届いており、自身が塾長を務める祓魔塾においての成績も申し分なかった。史上最年少で祓魔師の資格を得るのも夢ではあるまいと思っていた矢先に、彼はその偉業を成し遂げ今は祓魔師として忙しく働いていた。
 そんな優秀な弟を持っている兄は、これが本当に出来損ないであった。
 藤本からの近況報告の度に、何かしら問題を起こしている。弟と違って頭の出来も良くはないようで、通っている学校の成績も最悪だ。そもそも最近では学校に行くことも少なくなっているようだった。完全に社会からドロップアウトしようとしている。それも、悪魔の血を引いたが故だろうか。
 それでも藤本にとっては大事な息子で、報告の際には困ったもんだと笑っている。そして、このまま何事もなく過ぎてくれればいいと、口に出すことはなく目で語っていた。
 お前と引き合わせなきゃならんような事態にならん事を祈ってるよ。
 そう、笑っていた。
 それが儚い希望であることは、百も承知であったろう。いつか……それもそう遠くない未来に、必ず降魔剣では抑えきれなくなり、物質界に青い炎が降臨する事は既に伝えてある。それでも藤本は望まずにはいられなかった。愛した子供達が幸せでいられるように……望んでいたのはそれだけだった。

 ――かくして運命は動き始める。

 ドンドンと荒いノックと同じように呼吸も荒げて、配下である祓魔師がメフィストの部屋へと飛び込んできた。顔面は蒼白で、とんでもない事態が起こったことを告げている。
 しかしメフィストは、彼が伝えようとしている事を既に知っている。物質界にサタンの気配が降りたことを、しかも虚無界の門を開いた事を、この近距離で感じないはずがなかった。そしてそれが、何を意味するのかも。
「フェレス卿! 聖騎士が!」
「とうとうこの日が来ましたね」
 メフィストが降魔剣に施した封印は完璧ではない。あの青い炎を完璧に封印することなど出来はしない。むしろこの十五年間よくぞもったものだ。机上に肘を立て、組んだ指に顎を乗せながら、メフィストは目を閉じた。さあ、これからがお楽しみタイムだ。
 藤本が望んでいなかった展開へと事態は進み、その結果藤本は命を落とした。
 残された双子のうち、炎を継いでいない優秀な弟は既に祓魔師として確立していた事もあり、問題は無かった。養父亡き後も、予定通り高校へ進み、一般的な勉学の傍ら祓魔塾では教鞭を執り、祓魔師として働く忙しい日々が待っている。
 問題は兄の方だ。
 殺さねばならない。
 なぜなら彼は、悪魔として覚醒してしまったのだから。
 顔を上げて、指示を待つ祓魔師へ向けて指令を与える。
「朝までに出来うる限りの武装を。ただし、例の子供の事はヴァチカンには気付かれぬように。聖騎士・藤本はサタンの憑依により死亡。あちらに必要な報告はそれだけだ」
「……かしこまりました!」
 一瞬不安気な表情を垣間見せたが、覚悟を決めるように返事をした祓魔師は、部屋から飛び出ていった。そのまま配下中に指令を伝えるだろう。メフィストは立ち上がり、窓の外を見た。じきに日が昇る。
 始まりの朝だ。



 翌日しめやかに執り行われた藤本の葬式は雨模様であった。どこまでも降り続ける雨は、ともすればメフィストの気分すら沈ませかねない。
 修道院の周りを、それと気付かれないように大勢の祓魔師で取り囲む。
 青い炎の片鱗は今のところ伺えないが、何が起こるかわからない。事が事だけに、取り逃がしましたでは済まないのだ。
 引き連れてきた精鋭の配下達は、一般の弔問客から隠すように墓地へと配置をする。藤本の眠るその場所に、目的の子供はいた。相手はこちらに気づいてはいない。準備は整った。
 藤本獅郎の墓の前で、ただずぶ濡れになっているあの子供を殺せばそれで終了だ。この十五年間の秘密も、それに付随した努力も全て。藤本の死さえも。
 しかしメフィストは、未だ己の行動を決めてはいなかった。
 このまま表向きは調伏したことにしつつ駒として秘密裏に生かし続けるか、あるいは本当に殺してしまうか。逃がすというのも面白いかもしれない。サタンの子はサタンの子らしく追う者全てを焼き払いながら逃げるのか、それとも人として逃げ続けるのか。興味はある。どこまで逃げられるだろう。まだ悪魔として生まれたばかりの幼い存在に負けるメフィストではないので、逃亡劇が起こったとしても茶番でしかない。メフィストが飽きたらそこで終了だ。子供の命はメフィストの掌の上にあると言ってもいい。
 もしくは、自分がどういう存在であるのかを知った上で、おとなしく殺される事を選ぶのならそれもいいだろう。死んだ藤本の手前だ、問答無用であろうとは思っていない。その程度の情けならばかけてやる事もやぶさかではなかった。
 命乞いをしてくる可能性はどうだろう。末の弟とも言うべき存在が、惨めに命乞いをしてきたら、その時は一体どうするだろうか。落胆するだろうか。それとも楽しいだろうか。
 色々な可能性が浮かんでは消えていく。愉快だった。
 いずれにせよ全ては子供次第だ。
 ずぶ濡れのまま携帯電話を取り出す子供を見つめる。
 ボタンを操作し、耳に当てている事からどこかにかけたのだろう。間もなく、メフィストの携帯が鳴動を始める。携帯には見知らぬ番号。間違いなく、目の前の子供だろう。
 通話ボタンを押せば、ショータイムの始まりだ。
 さあ、お前は一体、どんな言葉を綴って楽しませてくれる。
「はじめまして、奥村燐くん」
 メフィストは笑った。


 2013.12 初出

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