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2012年1月発行の同人誌「Glitter」の続きというかオマケ的なお話。
Glitterあらすじ:数十年後、騎士團を出奔したメフィストと燐くんとクロちゃんが、雪国で雪に埋もれつつ生活してみたり悪魔退治してみたりしてたら、騎士團に見つかったのでまた新しい土地(今度は南)へ行くよ!




みなみのしまにて☆




 南の島は本当に南の島だった。
 青く透き通る海は底まで丸見えで、砂浜の砂は日本の海岸でよく見るような灰色で重いものではなく、白くさらさらとしている。色鮮やかな小魚が泳ぎ、形も様々なサンゴやイソギンチャクが透明な海の底に覗けた。
 今、燐の視界いっぱいに広がっている小さな入り江は、プライベートビーチだと言う。メフィストと燐以外の人の姿は一切ない、誰もいない空間。目の前にはどこまでも青い青い海と水平線、そして三日月のような形をしている湾をぐるりと取り囲む岩場しかない。これと似たような風景をテレビでなら見たことはあっても、実際に目にするのは初めてだ。こんな場所が現実に存在したのかと感動すら覚えた。現実感の供わない、夢のような場所。
「すげー……」
 広がる光景の美しさに、燐はただただ感嘆の声を漏らすばかりだった。
「しかし、こんだけ海が似合わねぇとは思わなかった」
「何を失礼な」
 ピンクのデッキチェアに寝転がり、来た早々すっかりくつろぎモードのメフィストを見ながら燐は笑った。不健康な程に白い肌と、くっきりとした目の下の隈は、爽やかな南国の雰囲気には不釣り合いに見える。つい一週間前まで雪深い北国にいたが、あちらの方がメフィストには似合っていたように思えた。
「なあ、海に入ってもいいのか」
「構いませんよ。プライベートビーチだと言ったでしょう。裸で泳ごうが溺れようがお好きなように」
「溺れねーよ」
 靴を砂浜に脱ぎ捨て、カーゴパンツの裾を捲り上げて燐は海に入った。海水は思っていた程冷たくはなく、本当にこのまま泳いでも問題はなさそうだ。あれだけ寒い土地から一転、暑いまではいかないまでも心地よい暖かさに包まれた島は、天国のようにも思える。
『りーん!ほし!ほしがおちてた!』
 そうはしゃぐ幼い声はクロのもので、波を掻き分けて燐の方へと飛び跳ねてやってくる。口には明るい色をした星型の生き物、ヒトデを咥えていた。黄色いそのヒトデは動かないが、そもそもヒトデが動いているところを燐は見たことがないので生きているのか死んでいるのか判断は出来なかった。クロは燐の前までやってくると、自慢をするようにヒトデを見せびらかしてくる。
『くえる!?』
「ヒトデを!?俺は食ったことねーな」
 一人と一匹は揃って後ろを振り返り、メフィストに問うような視線を送る。二人の探究心にらんらんと輝く瞳に見つめられ、メフィストは面倒そうに口を開いた。
「食べられる種類もいるにはいますが……それは毒持ちですね」
『ぎゃー!』
「うわー!吐き出せ!ペッてしろ!」
 メフィストの言葉に慌てて口からヒトデを離したクロは、海に向かって顔を突っ込み、ぶくぶくとその口をゆすいだ。しかしすぐに顔を上げて、小さな猫又は再びぎゃーと叫ぶ。
『なんだこのみずしょっぱい!』
「そりゃそうだろ!」
 むしろ今海から飛び跳ねてきたくせに、しょっぱいことに気が付いていなかったのかと燐はそちらに驚いた。
『どうしようりん!おれしぬのか!しんじゃうのか!なんかくちのなか、びりびりする!』
「死なせるかよ!でもどうすりゃいいんだ、悪魔の毒に対する血清は持ってるけど、ヒトデの毒の血清なんて俺持ってねぇぞ!メフィストォー!」
「はぁ……」
 離れた場所にいるメフィストは、大騒ぎをしている一人と一匹にため息を零した。仮にも悪魔がその程度の毒でどうにかなると思っているのなら、あれらは正真正銘のバカではないだろうか、と。そもそもクロがさっき咥えていたヒトデは致死毒は持っていない種類だ。しかしそれを告げるのも面倒なので、どうしようと慌てふためき、メフィストのところへ助けを求めて必死の形相で駆け寄ってくる燐とクロを頬杖をつきながら眺めた。
 馬鹿な子ほど可愛いとは、まあ間違ってはいない。


「なんともなくて良かったなぁ、クロ」
『うん!あいつのおかげだ!おれいままで、あいつのことこわいやつだっておもってたけど、いいやつだったんだな。わるいことした』
「ああ、意外だよな。俺もつい最近そう思ったとこだ」
 燐の脳裏によぎるのは雪に埋もれた町の景色。そこで発揮されたメフィストの手回しの良さに感動した記憶。直後にその優しさ(と燐は思っていた)の対価を要求された事も記憶に新しいはずだが、燐の幸せな頭はすっかりそれを忘れ去っていた。あまつさえ唇を奪われていることなど知る由もない燐は、クロの意見に素直に同意してみせる。
 今から三時間ほど前、メフィストに助けてやってくれよと懇願した燐と、おねがいしますと飛びついたクロに、メフィストはアインス・ツヴァイ・ドライのカウントと共に小さなガラス瓶を出現させた。毒々しいほど鮮やかな青い液体で満たされているその小瓶を親指と人差指でつまむと、メフィストは絶望を匂わせた深刻な顔をして告げる。
「いいですか、一時間以内にこの解毒薬を飲ませないと、いくら悪魔でもあの毒には耐えられません。そう例えそれがどんな悪魔でも……この私ですら死にかけてもおかしくはない。ましてや若い猫又など一溜りもないでしょう。良くお聞きなさい、唾液と共に腹へ入ったヒトデの毒は、胃に到達すると胃酸と反応をして猛毒を作り始めます。そこで作りだされた強酸性の猛毒のせいで最初に胃が、そして胃から溶け出した毒は体内の臓器という臓器を全て溶かしていくでしょう。その苦痛たるや、とても言葉では言い尽くせないと言います。苦しい、痛い、いっそ死なせてくれと半狂乱になって訴える程の苦痛、溶かされていく恐怖が止むこと無くいつまでも続くせいで、痛みに耐えかね自ら死を選ぶ者も少なくありません。そうでなくとも、あまりの苦痛故に最後のほうは形相が変わってしまうそうです。しかし、最期の顔は誰も知らない。臓器を焼き、筋肉を焼き、骨をも溶かし、その間ひたすら溶かされている痛みと恐怖に怯えること数日間。最終的に皮膚まで到達した毒は、毒を摂取してしまった者の何もかも全てを溶かして、そして海へと還っていくのです。だから毒に冒された者の最期の顔は誰も知らないし、遺体すら残ることはない。これはそういう猛毒なのです」
「……嘘、だろ?いつものつまんねー冗談だよな?」
『うそだっていってくれ!』
 顔面蒼白の一人と一匹に、メフィストは目を伏せて首をゆるく左右に振った。絶望の二文字が彼らの前に現れて、二人を打ちのめしている。
『そんな……!』
「人々はあのヒトデを人食いヒトデとして恐れ、現地では見かけたとしても誰も近づきませんでした。一匹見かけただけで、島中に大警報が鳴り響き人々は家に篭もってヒトデがいなくなる事を待つしかなかった。しかし!長年ヒトデに苦しまされて来た人々は、近年あのヒトデを駆除する事にやっと成功したのです。血の汗が滲むほどの苦労に苦労を重ねた結果、安心して泳げる美しいビーチが出来たことで、この近郊は観光客の溢れる栄えた観光地となり人々は万々歳です。彼らの熱心な駆除のおかげで、人食いヒトデは普通のビーチでは既にその姿を消していました。ですがここはプライベートビーチで管理する者もいなかったので、こうして生き残っていたのでしょうね……大変に恐ろしいことです」
『わあああああああ!』
「メフィスト!さっさとそれ寄越せよ!」
「しかし、これは私が持っている最後の一瓶。駆除に成功したお陰で毒に怯える人もいなくなった為に、この解毒薬は既に地球上に残りは僅かと言われています。実はこの解毒薬、人食いヒトデを唯一捕食することの出来た魚から抽出されたエキスなのですが、人食いヒトデが消えたことにより食べるものの無くなってしまった魚もまた、海から姿を消すことになってしまったのです。皮肉なものですね。いいですか、原料となる魚がいないという事は、この解毒薬を新しく作ることはもう出来無いと言うことなんです。そんな貴重なこれを譲るには条件がある……」
 瓶をちらちらと振りながら、メフィストは燐をじっと見据えた。重い雰囲気が辺りに満ちていこうとしていたが、それを吹き飛ばすように燐が身を乗り出してメフィストの手を掴んだ。
「どんな条件だって良い、俺に出来ることなら何だって聞くから!早くそれクロに飲ませてやってくれよ!頼む、メフィスト!この通りだ!」
「……わかりました、貴方がそこまで言うのなら仕方がない。いいですか、一気に全部煽るんですよ」
「おう」
『わかった!』
 覚悟を決めた燐は厳かに、絶望と恐怖の前に大量の涙でぐしゃぐしゃになったクロは、大きく決意をして頷いた。
 メフィストから慎重に小瓶を受け取った燐は、コルクの蓋を外してクロの口の前へと持っていく。青い液体はちゃぷんと揺れた。仄かに甘い匂いが燐の鼻孔をくすぐる。どこかで嗅いだことのあるような匂いの気もするが、気のせいだろう。人食いヒトデを捕食する魚の匂いなど燐が知るはずもない。
「口を上に向けろ、零したら大変だからな」
『こうか?』
 真上を向いて、大あくびをするようにクロは口を開いた。この間にも腹の中では体内を溶かす猛毒が着々と作られているかもしれないと思うと、泣いて震えだしそうだった。燐の優しい手が、そんなクロを宥めるように撫でる。それに少しだけ、クロは落ち着いた。大丈夫だ、燐とメフィストがちゃんと救ってくれると、クロはそう信じている。
「いくぞ」
『こい!』
 燐の手が小瓶を傾ける。大きさの割に口の広いその小瓶は、クロの口内めがけて一気に液体を流し込んだ。
 ごくんとクロの喉が上下し、液体が食道を通り胃へと落ちて行く。口の中に広がる爽やかな甘さはクロの緊張を一気に解きほぐした。安堵で涙がまたぽろぽろと零れていく。
「どうだクロ!痛くねぇか!?」
「その解毒薬が効き始め、完全に解毒するのに三十分はかかりますから、ここで大人しくしているといいでしょう。動いては毒の生成を早めるだけで、解毒が間に合いませんからね。奥村くんはクロを抱いて、このデッキチェアで寝ていてください。いいですか、三十分ですよ」
「分かった」
 神妙な顔で頷いた燐と、その腕に抱かれたクロはメフィストに言われた通りデッキチェアで大人しく横になったものの、体にはガチリと力が入っている。メフィストはそんな燐の肩にそっと手を置いた。
「リラックスしていて構いませんよ。大丈夫、ちゃんと助かります。しかし他にあのヒトデがいるかもしれませんから、私は駆除の準備をしてきますね。もう解毒薬はないんです、もし何かあってからでは遅い。時間になったら様子を見に来ますから、安心してお眠りなさい」
「メフィスト……本当にサンキューな」
『ありがとう!ありがとう!』
 感動に目を潤ませている燐と、メフィストの優しい笑みに感動で震えるクロは、メフィストに感謝の言葉を心から告げていた。
 こくりと頷いたメフィストは、どこかふらふらとした足取りでプライベートビーチを抜け、壁が真っ白く色鮮やかな屋根をした四角い建物へと入っていった。そこが、これから二人と一匹で過ごす新たな家だった。この辺りの家はどこもそんな色と形をしていて、実に南国らしい。家の扉が閉じたのを確認した燐は、腕の中で僅かに震えるクロの後頭部に顔を寄せた。
「大丈夫だぞ、クロ。俺が、俺とメフィストがついてるからな」
『うん……うん!』
 泣きながらクロは大きく何度も頷き、そんなクロの背中を燐は慈しむように優しく優しく撫で続け、メフィストの帰りを馬鹿正直にビーチで待ち続けた。


 一方家の中に入ったメフィストは、扉を閉めるとパチンと指を鳴らす。たちどころに空間に結界が張られ、結界内にいるメフィストの声は外には漏れない仕組みだ。
「くっ!」
 結界内で体を折ったメフィストは、腹を抱えて小刻みに揺れている。この場に誰かメフィスト以外の人物がいれば、思わず大丈夫ですかと駆け寄ってしまいそうな様子だった。
「く……く……く……!」
 メフィストの口からは、息が漏れている。それはとても、苦しそうだ。メフィストは前のめりになっていた体を勢い良く反らせ、手を広げて天を仰いだ。天井では、空気を循環させるためのシーリングファンがくるくると回っていた。
 そしてとうとう、メフィストは我慢しきれずに大きく声を上げる。
「あーっはっはっはっ!グァッハッハッハッ!おかしい!ダメだ!よくぞここまで耐えたものだ!おかしくて息が!出来ぬっ!ハハハハハハ!ワハハハハハ!」
 涙を目尻に浮かべながら、メフィストは文字通り笑い転げた。まさかあそこまで信じるとは一体誰が思うだろう。あんなどこにでもいるようなヒトデにそんな毒があると、あの悪魔と使い魔は本気で信じていた。おかしい。メフィストこそ腹が焼け落ちてしまいそうだ。近年ここまで笑うことがあっただろうか。声を大にして笑うのは、なかなかに疲労を伴うものだと、痛む腹を抱えながらメフィストは思った。しかし笑いは止まることなく、いつまでも続いていく。やはりこちらの方が余程毒ではないか。
 あまりにも荒唐無稽なことを話していたので、いくら燐でも途中で気付くだろうとメフィストは思っていた。しかし実際はどうだ。みるみるうちに青ざめていく一人と一匹。一匹は恐怖に涙を流していたし、一人は絶望を顔全体で表現していた。気付くどころの話ではない。
 普段、燐はメフィストの事をを胡散臭いと怪しみ警戒しているくせに、どうでもいいようなくだらないモノに関してはいとも簡単に信じ込む。愚かだ。あまりに愚かすぎて腹が痛い。笑い死ぬのではないかと言うほど笑いは止まらず、腹は引き攣れてメフィストに痛みをもたらす。笑いすぎて顎も痛いし、呼吸もままならぬ。
「く、苦しい……!」
 そうして気が済むまで笑い続けたメフィストが二人を迎えに現れたのはきっちり三十分後で、大丈夫、よく頑張りましたねと言葉をかけてやれば、一人と一匹は感動に咽び泣く。その横で、メフィストは腹の底から溢れてくる笑いを堪えるのに必死であった。
 ちなみに、クロに飲ませた夏を具現化したような青い液体はかき氷のシロップである。味はブルーハワイだ。


 メフィストの思わぬ優しさに触れ、満たされて家の廊下を歩いていた燐とクロの視界に謎のトンガリが入ってきたのは、海に夕日が沈み始めた頃のことだった。
『りん!あれ!』
 窓の外にはプライベートビーチが広がり、そこには一人の人間が立っている。正確には、人間に憑依している悪魔、しかも八侯王の一人である上級悪魔だ。燐とはすっかり旧知の仲である。出会った当初は互いに血を見ることが多かったものの、最近では戯れに拳を交える程度になっていた。燐とメフィストが共に騎士團を出奔する時にはメフィストを手伝っていたようだが、燐はその時アマイモンに会っていないのでこうして姿を見るのは実に久しぶりだった。相変わらずぼーっとしている。
「アマイモンじゃねーか。何やってんだあんなとこで」
『ちがうりん!あいつがもってるの!』
 アマイモンの出現に驚いた燐とは対照的に、クロは焦りを見せていた。燐に伝わっていないのが焦れったくて仕方ないように窓をパシパシと肉球で叩いている。
「持ってるの?」
 クロに指摘されたようにアマイモンの手元を見た燐は驚きに目を見張る。黄色く愛らしい星のようなフォルムのそれは、昼間クロが口に咥えていたものと、全く同じだ。そしてあろうことか、アマイモンはそれを口に運ぼうとしている。何でも食うやつだとは思っていたが、いきなりヒトデを生で食うなんて信じらんねぇ!と燐は急いで、目の前の窓の鍵を下ろし、勢いをつけてめいっぱいに開く。
「やめろーーー!」
 窓から身を乗り出した燐の悲痛な叫びに、アマイモンがゆっくりと振り返った。
 口に、ヒトデを咥えながら……。
「ああ!バカ!今すぐ吐き出せ!唾液も飲むな!」
 燐の忠告も、距離があるせいでアマイモンには届いていなかった。目視で燐の姿を確認し、燐じゃないですか、お久しぶりですねと呑気なアマイモンは、もぐりとヒトデを噛み千切りそのまま飲み込む。甘くないし、おいしくもないなと思いながらも、二口目に取り掛かろうとしたところで、とんでもないスピードで飛んできた燐とクロにヒトデをはたき落とされた。
「あ。食べ物を無駄にしてはいけないと、いつも言っているのは燐なのに」
「ばか!そいつは食べ物じゃなくて毒なんだぞ!しかも猛毒!いいからすぐ吐き出せ!いくらお前でも人を溶かすような人食いヒトデの毒にやられたら……」
「人食いヒトデの毒?」
 慌てふためく燐の言葉から、引っかかったものを口にしたアマイモンは、はたき落とされたヒトデをじっと見て、何を言っているのだろうと首を傾げた。
「これにそんな毒はありませんよ」
「は!?」
「そんな毒はありません。周りの眷属たちがそう教えてくれますし、ボク自身口周りが少し痺れているだけで、他は何ともありません」
「なん……だって……」
「これはほんの少し痺れさせて相手を動けなくした隙に逃げるための毒で、小魚一匹死なないと言いました」
「でもメフィストが……」
 混乱している燐の言葉に、アマイモンはああと頷いた。表情は最初から一切変わっていない。その無表情さが、かえって何でもない真実を口にしているのだと燐に知らしめるようだった。
「きっとそれは兄上の冗談でしょう。――燐、からかわれたんですね」
 ブチンと何かの切れる音が辺りに響いた。音は大小二つ分である。
「燐?」
「……アマイモン、サンキューな……あとで好きな飯と作れるだけの菓子作ってやるから、ちょっと待ってろ」
「わーい」
「……いくぞ、クロ」
『うん』
 燐が振り返れば、普通の猫の体から燐を乗せられる程大きな体へと変わったクロの姿がそこにはあった。
 砂浜には大きなあしあとが残され、実に可愛らしいがそれに目を留める者はいない。
 真っ赤な夕日に染まる砂浜をすたすたと歩き出した一人と一匹が向かうのは、飛び出してきた白い家の中。そして、その最奥部で笑い転げているであろう真っ白な憎き敵だ。
「メフィストォオオオオオオオオオオオ!」
 真っ赤な怒りに青い炎を吹き出した燐と巨大化したクロが、メフィストと家を崩壊させたのはそれから僅か三分後のこと。


「反省しろ!」
『はんせいだ!』
「反省ですね」
 壊れた家を黙々と修復するメフィストの後ろには怒りを隠そうともしない燐とクロ、それに無表情で便乗しているアマイモンの姿があった。
「あんな荒唐無稽な話、騙される方が悪いに決まっているでしょう。アマイモンが現れなければ未だに気付いていなかったであろう事が私は何よりも恐ろしいですよ」
「お前があんな顔で脅かすからだろ!人のせいにすんな」
『そーだ!すごくこわかったぞ』
「兄上は人が悪いですからね」
「いや人じゃねーじゃん」
「それもそうですね。それでは兄上は悪い悪魔ですから」
「いい悪魔なんていんのかよ」
「いますよ、ボクとか」
「お前がいい悪魔だったらクロなんか天使じゃねーか」
『え!おれてんしだったのか!』
「いやこいつがいい悪魔ならって話で、お前はちゃんと悪魔だぞ」
「それはボクがいい悪魔ではないということでしょうか。ボク、いい悪魔ですよ?少なくとも虚無界での評価は兄上よりずっといい悪魔です。兄上は実力はあるくせに物質界に留まり人間に傅くような変わり者として、虚無界においての人気は低いんですよね」
「うん?あれ?いい悪魔ってどういうことだ?」
「悪魔として良いってことでしょう?」
「いや違うだろ、あれ?」
「……えーい!集中できん!暫く黙っていろ!」
 こっちまでバカになりそうな程バカ丸出しの会話を真後ろで繰り広げている弟たちに向かって声を荒げれば、一様に冷たい視線がメフィストに向けられる。
「いいから黙ってやれ」
『やれ』
「兄上、余裕がなさすぎますね」
 この弟たちを消さなかった自分の鋼の精神力をメフィストは褒めてやりたかった。
 家が完璧に修復されたのは、それから三十分後のこと。三十分後には弟らも怒りを忘れてさあ飯にしようぜと呑気に復元されたキッチンへと向かっていった。相変わらず揃いも揃っておめでたい頭をしている。その切り替えの早さは、悪魔らしいと言えば悪魔らしい。
 騎士團に気付かれぬように魔力を行使し、これだけの建造物を再建するのはなかなかに骨の折れる作業であったが、褒めてくれる者は誰もいない。ちょっとした冗談であったというのに、とんだことになったものだ。
 少し疲れたとメフィストは寝室へと足を向ける。
 寝室のど真ん中に置かれている大きなベッドはふかふかで、優しくメフィストの体を受け止めた。最近魔力を使い通しだったせいか、少し疲弊しているのかもしれない。
 メフィストはそのまま三十分程眠りにつき、目覚めた時には月明かりが大きな窓から部屋に差し込んでいた。
 ベッドに体を横たえたまま、明かりをつけることもなく、メフィストはその場で時間を過ごした。再び眠ることはなかったが、キッチンの方から聞こえてくる弟たちのはしゃぐ声がひどく遠く感じた。
「おい、メフィスト」
 軽いノックと共に部屋に入ってきたのは燐だ。
「どうしました」
「飯、無くなるぞ。アマイモンのやつとんでもねースピードで食ってるから多分あと五分ももたねぇ……って、何だよ体調わりーの?」
「いえ、少し休んでいただけです。しなくてもいい筈の無駄な労働をしましたからね」
「自業自得だろ」
 呆れながら、燐は後ろ手に扉を閉めてベッドへと近付いてくる。そのままベッドの縁に腰を下ろして、メフィストの顔をじっと覗き込んできた。青い瞳の中央で赤が煌めく。
「なんです?」
「次あんなくっだらねー嘘ついたら、出てくからな」
「出ていくって、貴方一人で騎士團から逃げられるとでも思っているんですか」
「元々はそのつもりだったろ。お前がついてくるなんて言わなきゃ、今頃クロとどっか放浪してたろうなー。少なくとも、こんなキレーなとこには居なかった」
 窓からはプライベートビーチが一望できる。一定のリズムで寄せては返す波の音が、部屋にまで届いていた。部屋を照らしている月は、海にも写り込んで波が起こる度にゆらゆらと揺れている。
「うん、やっぱキレイだよな。夢みてーにさ」
「夢ではありませんよ。窓から見える景色も、今のこの時間も、全ては現実のことだ。もっと綺麗なものが見たければ、私の横に入るといい。まやかしながら、これ以上に最高に美しい夢をお見せしますよ」
「これだって俺には十分すぎるよ」
「貴方は欲が無いので、誘惑のし甲斐がない」
 つまらんと背を向けるメフィストに、燐は笑った。
「そんなつまんねー俺といたって、アンタに良い事ないだろ。なんで俺と一緒にいんの」
「誘惑のし甲斐はありませんが、退屈は本当にしませんからね。それは私にとって、最重要項目なんですよ」
「悪魔って、やっぱよくわかんねーな」
「よく分からないと言えば、何故アマイモンがここに」
 家の壊滅騒ぎですっかり忘れていた。いつの間にか当然のような顔をして加わっているが、どうやってここを嗅ぎつけてきたのだろうか。
「さっき飯作りながら話聞いたら、俺達に約束守ってもらうために必死に探したって言ってたぜ。こんな遠くまで来るなら最初から伝えておいてくださいって文句言われた」
「約束……ああ」
 あれは騎士團から出奔した日のこと。タイミング良く地震を起こしてもらうその報酬の約束を、そういえばすっかり忘れていた。その時に提示されたのが……。
「飯と、菓子な。俺、菓子はあんま作れねーけど、あいつはおいしいですって夢中で食ってくれっから、あいつに作るの嫌いじゃねーんだよな」
「私には滅多に作ってくれないというのに」
「飯は毎日作ってんだろ。他に出来ることねーから、それはいいんだけどさ」
 それに、メフィストもまた燐の作る食事をうまいうまいと褒めながら食べてくれる。それはこの二ヶ月ほど、どれだけ食事を共にしても変わらないことだった。だから燐は、メフィストのために食事を作るのも嫌いではない。口にはしないけれど。
「なあ、昼間の交換条件、何言うつもりだったんだ」
 嘘がバレて結局有耶無耶になってしまったが、メフィストはクロを救う代わりに燐に対して交換条件を持ちかけようとしていた。その内容を、燐はまだ聞いていない。
「あれはもう、終わったことでしょう」
「だから、興味本位で聞きたいだけだって」
 燐に背中を向けていたメフィストは仰向けになると、燐の顔を静かに見つめた。燐もまた、メフィストの顔を見つめている。その瞳は今の波のように穏やかだった。
「私は……」
 メフィストが口を開き、同時に燐の手を掴もうとした時、扉がバタンと勢い良く開く。二人は揃って扉の方を見つめ、そこに立っている男の名を呼んだ。
「「アマイモン!?」」
「おかずがなくなりました、次を作ってください!」
 アマイモンの左手にはご飯が山盛りに盛られた茶碗が、右手には箸が握られている。おねだりのために急いできたのだろう。燐は苦笑して、ベッドから立ち上がった。
「……はぁ、わかったわかった。今作ってやるからちょっと待ってろ。メフィストも、腹減ったら来いよ」
 そしてそのまま連れ立って部屋から出ていってしまう。
 一人残されたメフィストは燐の手を掴みかけた己の掌を握りしめて、目を伏せた。
 ――今回の家では、同じ寝室に。
 その一言を飲み込んで、メフィストは心地よい波の音に包まれた。



end
2012.02.05

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