SS2
「さみーっ!」
凍るように寒い廊下を通って部屋に戻ってくる頃には、風呂であんなに温まっていたはずの燐の体もすっかり冷えてしまっていた。
ここ数日は連日最低気温を更新し続けていて、気温は一体何と競い合っているのかと首を傾げたくなる程である。
日中はまだ太陽の日差しがあるのでマシだが、日が翳ってからは寒いなんてものじゃない。
これだけ寒いのなら雪の一つでも降ってくれればいいものを、窓の外はどこまでも澄み渡った冬の夜空が輝いていた。月もなく、暗いせいか星がよく見える。
こんなふうに、風が弱く雲ひとつない日はホウシャレイキャクで更に寒さが増すのだと、雪男が言っていたと燐は頼りない記憶を甦らせた。
その雪男は毎度おなじみの任務で出掛けている。この冬、無事に祓魔師になったものの、ペーペーである下二級の燐と上二級の雪男では出動要請に歴然とした差があり、今回も燐は呼ばれる事無く自宅待機だ。万年人手不足であるというのならもう少し活躍の場があっても良さそうなものだが、騎士團としても燐を持て余しているのかもしれない。
ちょうど風呂に入り始めた時に要請が来たというのも間が悪かった。燐が一人でのんびりと頭を洗っている最中に浴場へとやってきた雪男は任務で出掛けると言い残して、足早に去っていってしまった。言葉をかける暇もない。
この寒さの中をまさか裸で追いかける気にもならず、燐はシャンプーを洗い流し、たっぷりと湯の張ってある浴槽に沈んだ。
寒かろうが暑かろうが悪魔は関係なく人々に襲いかかってくる。こんなに寒い日ぐらいは休めばいいものを、悪魔も随分と勤勉なことである。そんな事を思いながら風呂から上がったのが、つい先ほどのことだ。
寒さが染みこんでくる窓辺から離れた燐は、部屋の真ん中に鎮座しているストーブの前に陣取った。
この見るからに年代物のオンボロなストーブが、この部屋唯一の暖房器具であり、兄弟の生命線であった。
夏はまだ耐えられる。ずっとクーラーなどない生活を送っていたから、扇風機やアイスで乗り切る事が出来た。しかし寒さは無理だ。ましてや今年のこの寒さは異常で、例えオンボロなストーブであっても、有るのと無いのでは雲泥の差だった。なければ既に凍死していてもおかしくない。
出掛ける時に雪男が電源を落として行ったから、またこうしてストーブに電気を通して暖かくなるのを待たなければならないのだが、その間ですら寒い。
まだかまだかと待ち続けること三分、五分……十分。
半ば意識を失いかけていたのは寒さのせいか、それとも眠気のせいか。電気ストーブは、どれだけ時間が経っても目の前にいる燐を温めてくれることはなかった。
「どうなってんだ!?」
電源ボタンをカチカチと入れては切ってを繰り返すが、ストーブはうんともすんとも言わずに沈黙を守り続けている。少し前までは稼動音にしては変な音を立てて燐と雪男を不安にさせていたものだが、今はカチカチと燐がスイッチを押したり戻したりする音しか聞こえてはこない。
「……壊れた」
それは即ち、兄弟への死亡宣告でもあった。
ともかく寒さを少しでも凌がなければならないと、燐はタンスをひっくり返す勢いで発掘した厚手のズボンと靴下に足を通す。
任務でもないのに祓魔師のコートを羽織ったのは勿論寒さ対策だ。
寒い寒いと震えながら、もう一回のぼせるぐらい風呂に入ろうかとも思ったが、またあの冷たい廊下を通るのかと考えるとそれすらも億劫になる。
どうしたものかと凍える手をポケットへと無造作に突っ込めば、チャリと金属の擦れる音がした。指先に触れる感触は硬く冷たい。何か入れていただろうかとポケットの中身を取り出せば、それは鍵だった。
「あー……」
祓魔師に合格した祝いだとメフィストが半ば無理矢理寄越した、小さく冷たい冷たい鍵。勿論普通の鍵ではない。正十字騎士團に所属している祓魔師なら誰もが使用している、空間を繋ぐ鍵の一つだ。
父から譲り受けた神隠しの鍵は常に首から下げている。塾や祓魔屋へと続く鍵も別にちゃんと持っている。しかしこの鍵だけはチェーンなどには一切つけておらず、むき出しのままポケットに入っていた。扱いこそどうでもいいようだが、その実使用頻度は高い。
燐がこの鍵を最後に使ったのが任務の報告書を提出する時であったから、こうしてコートのポケットに入っていたのだろう。任務があったのは三日ほど前のことだから、つい最近使ったばかりと言えた。
この鍵の繋がる先は、メフィストの部屋だ。
以前は押しかけたり押しかけられたり、はたまた迎えに来られたりしていたものだが、最近は専らこの鍵を使用して燐が赴くことが多かった。メフィストもあれでいて忙しい立場にあるので、部屋にこもっている事も多いが、仕事であちこちに飛び回っている事もまた多い。電話でいるかいないかの確認を取ってから屋敷へと赴けば良いのだが、燐は行ったほうが早いとアポを取らずに押しかけるので、すれ違うこともままあった。そんな燐の無駄足を減らすのがこの鍵だ。
どういう理屈なのかは燐には分からないが、来客中だとか、何か仕事の関係で燐に来て欲しくない時は鍵を差し込んでもメフィストの部屋に繋がることはないし、メフィストが部屋にいない場合も開ければすぐに不在かどうかが分かるので、わざわざヨハン・ファウスト邸まで行ってから取って返す事はなくなった。欲しいと思ったことは一度もなかったし、受け取らされた最初こそ使うことはないだろうと思っていたが、これはこれで慣れると便利なものだと実感している。
そうして燐は、この鍵の繋がる先にある布団の暖かさを思い出した。
ふかふかと柔らかく、軽く、あたたかな羽毛布団と優しい肌触りで包んでくれるふわふわの毛布。燐が使っている煎餅のように固く薄っぺらい掛け布団と、固くごわつく毛布とは全く違う。雪男は何時に帰ってくるかわかったものではないし、今夜はクロもお出かけしていて姿を見せていない。それならいっそ、泊まりに行くのも手かもしれないと燐は思った。このままここで寒さに震えるぐらいなら、そうした方がいいに決まっている。ついでにストーブを直してもらうべく陳情も出来る。アンティークで素敵ですよねとオンボロストーブを持ってきたのはメフィストなのだから、修理ぐらいしてくれたっていいはずだ。
燐は手の中の鍵を改めて握り直し、部屋のドアの前に立った。
本来ならばまず入らないはずの鍵穴に鍵をぐっと奥まで差しこめば、ぴったりとはまるような手応えが返ってくる。
そのまま鍵を九十度回せばメフィストの部屋へと続く扉の完成だ……というところで、カリカリと扉が引っかかれるような音が燐の耳に届いた。それは扉の向こうから確かに聞こえてくる。
『りーん、どああけてくれー』
更に追い打ちを掛けるように聞こえてきたのは、クロの声だった。頭に直接響いてくる言葉と、鼓膜を震わすにゃあという猫の鳴き声。燐は差し込んでいた鍵を引き抜き、扉を開けてやる。僅かな隙間があいた瞬間、影のようにクロが室内へと入ってきた。
『ただいま!』
「おかえり、どこ行ってたんだ」
『おとこのしゃこうばだ』
それがどこかは燐にはわからないが、クロはひどく誇らしげに言っているから、猫にとっては大事な場所なのだろう。
『そともさむかったけど、へやもさむいなー。りん、すとーぶつけてくれ!』
先ほどの燐のようにストーブ前に陣取ったクロは、その肉球でべしべしとストーブを叩いてアピールをしているが、燐は首を横に振ることしかできない。
「それがよ、ストーブ壊れちまったみてーで、俺もさっきから困ってんだよ」
『ええー!こわれちゃったのか!?じゃあさむいまんま?なおせないのか?』
「俺には無理だな。だからこれからメフィストんとこ行こうかと思ってたんだけど……まあ明日でもいいか」
『よくないぞ!はやくなおしてもらわないとさむい!』
「だからさ」
鍵をポケットに仕舞い、燐は部屋の真中を突っ切ってコートを脱いだ。いつもそうしているようにハンガーに掛けて、いつもと同じ場所にさげておけばシワになることもない。そのまま、きんと冷えている布団に身を震わせながら体を滑り込ませた。
『りん?』
布団に入ってしまった燐を見て、クロは首を傾げた。もう寝るのかと尋ねているかのようだ。
燐は寝転がり布団の端を持ち上げると、そのままこっちに来いとクロに呼びかけた。一人では寒くとも、クロと二人ならきっと暖かくなるに違いない。
「もう用事終わったんだろ?なら一緒に寝ようぜ。俺もー寒くてさ」
『しょうがないな』
口ぶりは燐に呆れているかのようだが、クロの足取りは軽く二本のしっぽはゴキゲンに揺れていた。ぴょんと音もなくベッドに飛び乗り、そのまま燐と共に布団に入ってしまう。
最初こそ冷たい布団であったが、暫くじっとしていれば次第に二人分の体温でじわじわと暖かくなってくる。クロの体温は高く、毛並みはさらさらと気持ちが良い。燐はクロを撫でてやりながら、うとうととし始めていた。クロは既に目を閉じて、規則正しい呼吸を繰り返している。
「おやすみ、クロ」
『んにゃぁ』
テレパシーなのに猫の鳴き声が聞こえてきて、燐は笑う。
暖かくなった布団の中で、燐とクロは共にゆっくりと穏やかな眠りについた。
「……遅い!」
カツカツと黒く長い爪で机を叩きながら、メフィストは痺れを切らして思わず声を吐き出した。
視線の先には部屋の出入り口である重厚な扉がある。その扉が先ほどどこかと繋がりかけた気配を察知したメフィストは、手にしていた漫画を机の上に置いて、扉が開くのをひたすらに待っていた。
メフィストが部屋の中にいる今、この部屋への直通ルートを選択出来る鍵を持っているのは弟であるアマイモンと、末の弟である燐の二人だけであった。
しかしアマイモンは現在虚無界に戻っており、物質界へ来るような用事もない。ましてやメフィストの結界の外に一度出ている以上、メフィストの許可無く再度結界内に足を踏み入れることは不可能だ。となれば、鍵を使ったのは一人しかいなかった。
この時間に鍵を使うという事は、泊まっていくのかもしれない。燐は、ここの布団は気持ちよくていいよなとベッドに寝転がるたびに言っているから、また布団が目的である可能性は高い。本来であればメフィストのみが眠ることを許されたこだわりの布団に入り込む事は例え燐と言えども簡単には出来ず、貸すからにはそれ相応の対価を頂くことになる。その対価が何であるかは言わずもがなだ。
メフィストはそのお楽しみタイムが来るものと思って、発売されるのを待ちに待っていた漫画ですら手から離したというのに、肝心の扉は一向に開く様子がない。それどころか、鍵が回されて完全に繋がった様子もなかった。鍵を挿すことにより扉同士の軸を指定し、鍵を回すことによって完全に固定され、そうする事によって空間同士を繋げるのが鍵の大まかな仕組みだ。今、メフィストの部屋の扉は外側から軸を一旦指定されたものの、その後の入力がなく放置された状態となっている。
既に鍵自体、抜かれてしまっている可能性が高い。あまりにも静かであることと、現在の扉からは何も感知できないからだ。
メフィストは右手側に置かれていた仕事用に使用しているタブレット端末を操作し、現在任務に駆り出されている祓魔師のリストをチェックし始めた。先ほど正十字学園町の端の方で事件が発生し、数人の祓魔師が召集されていたはずだ。それに呼ばれているのなら、来られなくなったのも無理はない。しかし、招集者リストの中に奥村燐下二級祓魔師の文字は見当たらない。あるのは奥村雪男上二級祓魔師の名前と、他数名分の名前だけだ。
メフィストは端末を閉じて、椅子の背もたれに倒れこんだ。指を胸の前で組み、深くため息を零す。任務にあたっている訳ではない。来る気配をさせておき、こうしてメフィストを待ちぼうけさせておきながら、自分から姿を見せる様子も一切ない。実に不満である。
焦らしているわけではないのだろう。ならば気が変わったのかもしれないが、それならそうと一言あってもいいものではないか。もっとも燐は鍵が挿し込まれた時点でメフィストに感知されていることを知らぬので、行くことを取りやめたと知らせる義務もまた、無い。それを承知のうえで、メフィストは不満を抱いている。燐にしてみれば言いがかりも甚だしいが、それもまた知ったことではない。
最初に鍵が差し込まれた気配からそろそろ三十分。時間の流れに鈍感であるはずの悪魔が、たった数十分に苛立ちを覚えることになるとは思いもしなかったことだ。メフィストはそう独りごちて、ガタッと大きな音を立てながら椅子から立ち上がる。メフィストにしては乱暴な動きだが、その目には苛立ちと決意の炎が揺れていて、そんな事に気を使っている余裕がないのだと傍目からでも見て取れる。
「アインス・ツヴァイ・ドライ!」
ぼふんと音を立ててピンク色した煙が立ち上り、メフィストの周りを一瞬で包み込む。長身をすべて隠した煙が薄れていくにつれ、先ほどまでそこにあったはずのメフィストの体は姿を消し、最後には入れ替わるようにちょこんと一匹の犬が現れた。テリア犬はその毛並みを確認すると、濡れた鼻からフンと満足そうに息を零す。
どこからともなく取り出した一つの鍵を咥え、犬になったメフィストは結局燐が潜ることのなかった重厚な扉に向けて、その柔らかな足を前進させた。
奥村兄弟の部屋に侵入者が現れたのは、燐がクロと布団に入ってから三十分程経った頃のこと。
侵入者は足音を立てずに、入って左手にある燐の寝床の様子を確認した。寝付きのいい燐は、ほかほかに温まった布団の中でクロと共に夢の世界に突入していた為に、扉が開いたことにも誰かが部屋の中に入ってきている事にも気付いてはいない。それはクロも同じで、燐の腕を枕にしながらムニャムニャと寝言を言っている。
侵入者――犬の姿をしたメフィストは、それを実に面白くなさそうな目で眺めた。
見上げた先には完全に油断した表情で眠る燐とクロがおり、緊張感のなさは今さらながら、人をこれだけ待たせておいて暢気に寝息を立てているその態度が苛立ちを募らせる。
「まったく……」
不満を隠すことなく、メフィストはベッドの上へと飛び乗った。硬く冷たいベッドはメフィストが自室で使用しているものとは全く違い、本当にベッドという名称で合っているのかと疑問を抱かせる。普段このようなところで眠っていれば、燐がメフィストの部屋で眠るときに羨ましいと呟くのも納得だ。こんな場所で眠れる気はしない。だからといってメフィストには今日のことを許してやるつもりは毛程もなかった。
「私を待たせるとは、随分と偉くなったものだ」
クロを避け、燐の頭の上を飛び越えて、メフィストは僅かに空いているベッドの奥へと小さな体を移動させる。
「その上起きる気配もないとは。三つ指ついて迎えろとは言わんし、してもらいたいとも思わんが、面白くはないな」
これだけはっきりと声を出していても、燐にもクロにも起きる気配はない。いよいよお仕置きが必要かとメフィスト犬が構えようとした瞬間、布団の隙間からしゅるりと音を立てて何かが這いでてきた。黒く長いそれは、燐の尻尾だ。
尻尾はまっすぐにメフィストの体へと向かって伸びてきて、じゃれるように触れてくる。狙いを定めたようにメフィストの右前足にしっかりと巻きついた燐の尻尾は、そのままぐいぐいとメフィストの小さな体を引っ張って、布団の中へと導こうとしていた。
「これは……」
一緒に眠れという事だろうか。
メフィストは燐の顔を覗き込むが、相変わらず油断しきった寝顔を晒し続けている。
文句ついでに嫌がらせの一つでもしてやろうと乗り込んできた訳だが、寝ぼけた燐に嫌がらせをするよりはこのままここで夜を過ごして朝驚かせた方がきっと楽しいだろう。そう思い至ったメフィストは、尻尾に誘われるまま薄い布団に潜り込んだ。
中は暖かかったが、燐の匂いが充満しており何故だか体がむずむずとしてくる。安眠には程遠い匂いだ。
クロと向かい合うように眠っている燐は、メフィストには背中を向けている。メフィストは燐の肩を引き寄せて仰向けにさせ、更に腕を広げさせればそこに顔を乗せてしまう。枕が変わると眠れないデリケートな体質なのに、ここにはお気に入りの枕はないので苦肉の策というやつであると、言い訳じみた事を考えている。誰への言い訳かと言えば、メフィスト自身へのものだが本人はそれに気付いてはいない。
燐の腕に顎を乗せると、燐の体を挟んだ向こう側ではクロが頭を完全に預けているのが見て取れる。使い魔と主人(きちんと契約をしている訳ではないので正確には違うが)にしては随分と距離が近い。
「仲の良いことだ」
こんな風に同じベッドで共に眠るなど、本来はあり得ない。寝ている間に何が起こるかわからないという事もあるが、普通手騎士は用のある時にしか使い魔を呼び出すことはないし、用が終わればすぐに帰還させる。
クロは召喚するタイプの悪魔ではないし、先程も述べたように契約関係にはないせいか、まるでペットと飼い主だ。
しかしメフィストは気付いていない。今、傍から見れば自分もまた燐のペットのように見える状態にある事を。
大の字になって眠る主人と、左右それぞれ腕枕で眠る猫と犬。実にほのぼのとした光景である。
「あなた方はもう少し緊張感というものを持たねばなりませんよ」
自分をしっかりと棚に上げてそう呟くと、呆れているメフィストへ、一度は離れていた尻尾が再び寄ってきた。
燐の尻尾はメフィストの頭を撫でるように、しゅるしゅると動いて眠りへと誘う。
燐の手に撫でられているようで心地良いが、やはり匂いのせいか落ち着かぬ。しかし、明朝に見られるであろう驚く燐の顔を思えば、この程度のこと等どうという事もない。
メフィストは嘆息しながら、燻る体を宥めて目を閉じた。
帰宅した雪男が珍しく声を上げて驚き、それによって全員が目覚め、夜中の大騒ぎが始まるまであと一時間――。
end
2012/02/14
<戻る