Good Morning
朝日がカーテンの隙間から差し込んでくる。
目覚まし時計代わりとなっている雪男の携帯から、アラームが小さく鳴り響いてきたものの、ほんの数コールで音は止んでしまった。
枕元に置いてあった携帯を握りしめながら雪男がむくりと起き上がるのと同時に、クロも燐のベッドの上で目を覚ます。
『ゆきお、おはよう』
クロは雪男におはようと告げるべく小さく鳴いて、そのままペロペロと全身の毛繕いを始めた。クロはちゃんとおはようと言っているのだが、悪魔の言葉が伝わらぬ雪男にはただ「にゃあ」と鳴いているだけにしか聞こえない。それでも雪男はにこっと笑って、クロに応える。
「おはようクロ。クロはいつも早起きだね」
言葉は分からないながらも雰囲気は伝わるものなのだろう。雪男にはきちんと伝わらなくとも、クロは雪男の言っている事は理解できるので、コミュニケーションとしては困難ではなかった。
クロに声をかけながら、雪男は何よりもまず先に眼鏡を装着した。眼鏡は枕元に置いてあるが、燐と違って寝相の良い雪男が踏んで壊すようなことはなかった。例え壊してしまっても予備は沢山あるのでそう困る事もなかったけれど。
視界を確保した雪男は、そこでようやくベッドから抜け出した。
クロも前足の先から、肉球、腹部、股間と舌の届く範囲を丁寧に毛繕いを終えると、燐が眠るベッドから軽い足取りで飛び降りる。
二人揃って部屋を出て、真っ直ぐに水道へ向かう雪男の後ろをあくびをしながらクロは歩いた。
階段の踊り場前にある水道に雪男が到達すると、そこでクロは雪男とは別れ、食事の前に水を飲むべく食堂へと向かった。
寝起きのせいか、喉がカラカラだった。
朝でも薄暗い廊下を進み、足音もなく辿り着いた食堂は更に暗かったがクロは夜目がきくので問題はない。
クロの水飲み皿が用意してある場所へ真っ直ぐに向かって、透明なその液体をてちてちと舌を使って器用に飲んでいく。
床に置かれたクロ用の皿は、綺麗な青色をしていた。燐が買ってくれたものだ。本当は皿などなくとも、ちょっと外に出ればいくらでも水は飲めたし、皿に入っている水よりも水道から直接飲む方が好きではあるのだが、燐がくれたものなのでちゃんと使いたかった。
『ここで一緒に暮らすなら、お前専用の食器とか必要だと思ってさー』
クロが燐の元へやってきて間もなく、買い物からいそいそと帰ってきた燐はたまたま食堂にいたクロを捕まえ、笑ってそう言った。
『俺からのプレゼントだから、ちゃんと使えよ』
『おれはぺっとじゃないぞ!』
『んな事知ってるよ。だからこそ、専用の食器は必要だろ?俺にも雪男にも、自分の茶碗とかあるんだからクロにもねぇとな!』
その時差し出された青い皿は、クロにはなぜだかとても輝いて見えたのだ。
食事用の皿も色違いのお揃いで用意されていて、そちらの色は白だ。今は洗って乾かしてある。もう少しすれば、起きた燐がご飯をそのお皿に入れてくれて、おいしい朝食が食べられるのだ。
水を飲み干すと、クロは食堂から再び部屋へと戻る。ご飯は自動で出てくるわけではないので、燐を起こさねばならない。お腹がぺこぺこだ。
階段を駆け上がれば、そこでは雪男がちょうど歯磨きを終えたところであった。
「ああクロ、悪いんだけど兄さんを起こしてきてもらえるかな」
『まかせろ!』
そのつもりだったと勢いよく返事をして、ドアが開いたままの部屋へと飛び込んでいく。部屋に入って左側を見れば、燐はいまだ夢の住人だ。
布団から足をはみ出させて、気持ち良さそうに眠っている。
『りん、りーん!』
眠る燐の上に飛び乗り、クロは燐を呼び続けた。
『りん、あさだぞー、おなかすいたー!』
呼ばれた燐はううーんと唸りはするものの、起きる気配はなくクロは嘆息する。
『なあ、おきないのか、りん』
燐の上に乗って、頬に右前足で触れる。そこでようやく、燐にぴくりと反応があった。
眉根を寄せて不快そうにしながら動いた燐の手に、触れていた足を払われてしまう。
「うう、もう少し寝かせろよメフィスト……」
次いで燐の口から零れた言葉は眠っているせいか些か不明瞭であったが、明らかにこの場にはいない人物の名を呼んだ。
それが誰であるかは知っている。燐が時々、その人物と出かけて行くことも知っている。
夜遅くまで帰って来なかったり、朝になってようやく帰ってくる事だってある。ずっと遊んでいたい程、仲が良いのだ、きっと。
それは理解しているつもりだ。
(それでも、それでも……)
ぶるぶると体が震えているのは気のせいではない。
足を払われた事も、間違われたことも、クロにひどく衝撃を与えた。いつ巨大化してもおかしくはない。
『り……りんのばかーっ!』
感情の爆発と共に叫んで燐から降り、そのまま部屋の外へと飛び出た。廊下を突っ切り、出入り口にしている窓から屋外へと出てしまう。遠くで何か声が聞こえたけれど、止まる事はなかった。
朝日が照らす道をクロは目的もなく走り続ける。
何故こんなにもショックを受けているのか分からない。何がそんなにいやだったのだろうか。考えることなく、クロはどこまでも走り続けた。
周りをろくに見ないで右へ左へと走り続け、気づいた時にはどこからどう来たのか分からなくなっていた。
そう広くはないはずの街であっても、造りが入り組んでいる為に簡単に道が分からなくなってしまう。それが正十字学園町だ。
クロは立ち止まり、きょろきょろと不安気に辺りを見回した。
(ここ、どこだ……)
迷子の出来上がりである。
ぽつんと立っているのは嫌なので、足を進めた。見慣れぬ風景は、不安となってクロを脅かす。
以前も家出をしたことはあった。けれどその時は、最終的に燐と出会えた。ちゃんとすきやきも取っておいてくれた。
燐のつくるご飯はおいしいし、燐は時々意地悪も言うけど、やさしかった。
『りん……』
ここが何処だかは分からないが、また、見つけてくれるだろうか。
クロはとぼとぼと道を歩いて行く。薄暗い路地裏は、どこまでも続いているかのようだった。
――コツ、コツ。
不意に耳へと届いたその音は、人の靴音。
ひっそりと静まり返った道の先から響いてくる規則正しいその音は、石畳の上を軽やかに移動している。
段々と大きくなるのは、近付いている証拠だ。
人だろう。人のはずだ。けれどクロは、己の背中の毛が逆立つのを無視することは出来なかった。
『ひとじゃない』
未だ遠いその足音から与えられる重圧は、ケットシーをも軽く押し潰してしまいそうだった。
クロは足を止めて、近くの物陰に潜んだ。足音を立てずにここまで歩いていたけれど、向こうはこちらに気付いているだろうか。
コツ、コツ、と鳴る音は確実に近付いてきている。
ピンと立ち上がった尻尾は毛が膨らみ、ヒゲは前方へと向けられる。足音の主に、クロは全神経を集中させた。
――コツ、コツ、コッ。
ごく近くに、気配がある。足音は止んだ。
向こうからこちらの姿は見えていないはずなのに、見られている気がしてならない。
息を潜めて、相手がどう動こうとしているのかを探るが、うまくいかなかった。
「ククッ」
突然、笑い声が響いた。ビクリと体が竦むのは、本能のようなものだ。
「それで隠れているつもりか」
皮肉を含んだその声は、笑っているのにひどく冷たく感じる。そして、その声でようやく人物の正体に気付いた。クロはこれが誰であるか知っている。
『……かくれてない!』
勇気を振り絞って道の真中へ飛び出せば、目の前に立つ男はにやりと口角を上げた。怯まぬように、クロは己を奮い立たせる。
「飼い主はどうした」
『りんはかいぬしじゃない』
「では何だと言うのだ。お前がどう言おうとお前はあれの飼い猫。そして飼い猫は飼い猫らしく、自分の持ち場へ戻るがいい。消されたくなければな。主を持たぬ使い魔はただの悪魔、この学園に存在する事は許されない」
口元は笑っているのに、その視線は凍っている。
体が震えるのはその視線に当てられたせいだ。
それでも、この男にだけは負けたくなかった。
どんなに怖くても、ぜったいに敵わなくても、燐の一番がこの男であったとしても。
クロはしっかりと地面を踏みしめて、男を睨みつける。
『りんは……りんはおれのともだちだ!』
「クッ……クアーッハッハッ!」
クロがそう叫べば、目の前の男は体を折って笑い出した。予想外の反応に、クロはビクッと怯えてしまったけれど不可抗力だろう。おかげで、おかしくて仕方がないと笑い続ける男の後ろには別の気配があったのだが、クロはそれに気付くことが出来なかった。
「お前、クロ虐めてんじゃねーよ」
男の後ろから呆れた顔で現れたその人物を見た瞬間、クロは泣きそうな心地になった。
『りん!』
一目散に駆け出して、燐の胸めがけて飛び上がる。男の横を通ることになるが、そちらは見ないことにした。
燐に抱きとめられると、さっきまでの恐怖が嘘のように溶けていくのを感じる。
『りん!りん!』
「ったく、寝起きに飛び出していくなって。どうせ兄さんが何かしたんでしょって、朝から雪男に怒られたじゃねーか」
そう言いながら撫でてくれる手は優しくて、クロはにゃあにゃあと鳴き続けた。
「おかげで私まで巻き込まれましたしね」
「お前は勝手に巻き込まれに来たんだろ」
男の纏っている空気はいつの間にか和らいでいて、怖いことに変わりはなかったけれどそれでも今までのような重圧は感じなかった。残っているのは根源的な恐怖だけだ。
「そんでクロ、何があったんだよ。俺よく覚えてねーんだけど」
『おれがおこしたから、りんがいやがって、りんのほっぺさわってたあし、ぺってされたんだ。もうすこしねかせろって……なまえ、よんでた。でも、よんだのはおれのなまえじゃなくて……』
言いながら顔を男のほうへ向ければ目があってしまい、クロは急いで燐の懐へ顔を戻す。
男は相変わらず顔だけは笑っていた。それが怖い。
「私の名前……ねぇ」
「ね、寝ぼけてたんだよ!」
『りん、おれのこと、きらいか』
「は? メフィストだと思ったから嫌がったんであって、クロのことを嫌だとか嫌いだとか言ってねーだろ?」
『じゃあ、きらいじゃないのか!おこして、いやになってないのか?』
「何言ってんだ、そんな事ぐらいで嫌うかよ」
『りーん!』
ぐりぐりと頭を燐の体にこすりつけていると、突然首根っこをひょいと掴まれる。宙ぶらりんになった前後の足をばたつかせて、掴んだ手からどうにか逃げ出すと、燐の背中に回り、そのまま肩に向かってジャンプをする。いつものクロの場所に落ち着くと、クロを掴んでいた男の手がおろされるのが見えた。
『りん、もうかえろう! おれおなかすいた』
それに何より、男がいちいち怖いのだ。一刻も早く帰りたい。
「そうだな、まだ少し時間あるし、帰って朝飯にするか」
「では私もご一緒しましょう」
「なんでだよ」
「探すのを手伝って差し上げたのですから、朝食ぐらい作っていただいても罰はあたらないでしょう。さあ行きますよ」
燐の手を取って、男はすたすたと歩き出す。燐はその手を振り払わなかった。
クロは燐の肩にしがみつきながら、やっぱり仲が良いのかなと、モヤモヤした気持ちを抱える。
朝食はすぐそこなのに、お腹が空いているのに、二人を見ていたらそれどころではなくなってしまった。
けれど。
燐の顔を見れば、どこか楽しそうだったから。
それを認めるのはなんだか悔しくて、クロは燐の頬に頭を押し付け、自分の匂いをなすりつけた。
どうだと男にアピールするが、男は小さく笑うだけだった。
end
2011/10/25
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