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金木犀を君へ。



 人気のない校舎二階に、メフィストは居た。
 廊下に面した窓からは、学園の中庭の隅で、燐が一人ベンチに座っているのが見えた。
 木の影に隠れるように設置されている木製のベンチは、夏場にはその立地から涼しさを演出するが、この時期には不要のものだ。その証拠に、日向のベンチには何組かの生徒達が腰を落ち着けているが、木陰のベンチには燐しか座っていない。
 秋も深まってきた最近は、昼休みに外へ出る人数もじわりじわりと減ってきている。
 子供は風の子と昔は言ったものだが、最近はそうでもないのだろう。
 皆、空調の効いた校内で過ごす事の方が多い。
 食堂では金銭的な理由で食べられるものがないと言っていた燐は、今日も中庭で手製の弁当を広げていた。
 燐の体力が売るほどある事は知っているが、寒さにも強いのだろうか。寒いと囁き合う他の生徒のように、燐が寒さに震える様子はなかった。
 無心で箸を動かしているのが見て取れる。
 義務のような食事は、楽しいだろうかとそんな事を思ってしまう自分に、メフィストは緩く首を振る。
 どうも毒されすぎている。
 名目上は後見人として子供たちの様子を見る為、実際は燐の作る夕食を目当てに時折訪れる旧男子寮。
 燐と、雪男と、メフィストの三人で囲う食卓の空気は驚くほどに生ぬるい。
 悪魔と、目覚めたばかりの悪魔と、祓魔師の三人が揃った食卓だ。それがこんなに生ぬるくていいのだろうかと思ってしまう程、三人の食卓はぬるかった。
 料理を褒める雪男とメフィストに、得意げになる燐。今日あった面白い出来事や、軽い喧嘩も含めて実に他愛無い会話が食卓では交わされた。
 家族ごっこのようなその空気に、いつの間にか慣らされてしまったのかもしれない。
 三人で食事をする時と、一人で食事をしている今の燐の姿はあまりにかけ離れているとは言え、まるで心配でもするかのような自分の思考に、正直引いている。
 どうもあの子供にはペースを乱される。
 ――しかし、愉快な気持ちにしてくれるのもまた、あの子供だ。
 メフィストは徐に窓を開き、外の空気を取り入れる。
 少し冷たい風が、頬と髪を撫でていった。
 同時に香ってくる独特の匂いは、秋を知らせる金木犀の香りだ。
 まるで三人での食卓のように、甘ったるいその香り。
 近くに繁る金木犀の木に向け、メフィストは手にしていた傘を差し向けた。
「アインス、ツヴァイ、ドライ☆」
 カウントが終わると同時に、それまで鈴生りになっていた金木犀の花が、少しを残して木から消え去ってしまう。
 それを確認したメフィストは開いた窓から身を乗り出し、ふわりと中庭へ向けて舞い上がった。
 その姿は誰にも見られる事無く、校舎から幻のように消えた。金木犀の香りと共に。


 大きな常緑樹の枝に立ったメフィストは、足元を見下ろす。
 真下には、弁当を食べ終わろうとしている燐の頭頂部が見える。いつもより余計にぴょこぴょこ跳ねている黒髪は、寝坊の跡だろうか。
 燐がこちらに気付いた様子はなく、メフィストはそのまま気配を殺し、影にもならぬよう、己の身を木から地面へと向かわせる。
 重力など存在ないかのように、燐の真後ろへと身を置いたメフィストの足は、僅かに地面から浮いていた。
 これだけ近くにいると言うのに、燐はやはり気付いていない。いくら気配を消しているとは言え、あまりに油断している。当の燐は、弁当箱をしまうのに忙しいようだ。
燐の鈍さにフッと笑い、メフィストは目を閉じた。
 右手でばさりとマントを広げ、燐に聞こえない程度の声で呟く。
「アインス、ツヴァイ、ドライ」
 微かな白煙が広げたマントの内側で上がったかと思うと、パラパラと何かがマントから燐へ向かって降り注いでいく。
 小さく黄色いそれは、先ほど頂戴した金木犀の花だ。
 燐の髪に、顔に、体にと、黄色い花が落ちて行く。
「なんだ!?」
 突然降り注ぐ黄色い花に、燐は驚いて振り返った。
 マントの内側には何もないのに、そこに金木犀が植わっているかのようにパラパラと、次から次へ金木犀の花は燐に降り注ぎ続ける。
「メフィスト!? 何やってんだお前」
「ほんの少しのサプラーイズ☆というところでしょうか」
 ウィンクをして見せれば、驚いた表情のままだった燐は少し顔を顰めた。が、すぐにマントの内側を覗きこんでくる。
「どうなってんだこれ?」
「それは秘密です! あまり人の内側を覗こうとするのは感心しませんね」
 燐を巻き込まないように避けてマントを下ろせば、ぴたりと金木犀の雨は止んだ。覗き込んでいた燐の頭上に、最後の一つが乗ったのが見える。
 最後のもの以外も沢山乗っている燐の頭は、まさしく黄色で彩られていた。
 一つ一つならば弱いその芳香も、これだけの量があればそこそこ香ってくる。甘い匂いに包まれた燐は、理解出来ぬという顔をしてメフィストを見ていた。
「何がしてーんだよ」
「貴方の驚く顔が見たかっただけです」
「そーかよ。満足したか」
「ええ、そこそこ」
「物足りねぇ顔してるくせに」
 燐はメフィストへ向けて挑戦的な笑を浮かべるが、頭に小さな花を沢山乗せているせいで全く格好がついていない。
 その事に本人は気付いているのかいないのか。……多分、気付いていないだろう。
 スイっと、燐に向けて手を伸ばす。燐は避けなかった。左頬に触れればぴくりと僅かに強張ったが、何でもないかのように振舞っているので気付かない振りをしてやる。
 親指の腹で頬骨の辺りをなぞると、燐はそこでようやく嫌そうに眉根を寄せた。
「嫌なら嫌と言っても構いませんよ。嫌がっても続けるなんて事は、紳士はしませんから」
「紳士なら最初から変なイタズラすんなよ」
「それとこれとは別です☆」
 耳にかかる毛についている金木犀の花を取ってやる。ごくごく小さなその黄色い花は、燐の黒髪に良く映えていた。
 けれど――。
「黄色もいいですが、やはり貴方には青ですねぇ」
 脳裏に浮かぶのは、この物質界で唯一青い炎を纏う事の出来る燐の姿。
 まだまだ未熟なその青は、けれどその不安定さが美しい。
 未だ成長しきれずに居る、この子供そのもののようだ。
「俺はあんま好きじゃねぇ」
 そう呟く燐の拳がぎゅっと握りこまれるのが、メフィストの視界の端に映る。
「似合う似合わないとは、また別問題じゃないですか」
 痛いぐらいに握りこまれた拳を両手で包んでやると、ふっと力が抜けていくのがわかる。
「貴方がどんなに嫌おうと、似合っている事に変わりはないのですから、受け入れてみては如何ですかな」
 色も、炎も、全て受け入れてしまえばいい。それはそのまま、燐の力となるはずだ。
 けれど燐は、ふるりと頭を横に振った。
 ハラハラと落ちて行く黄色い花が、美しい。
「うわっ、お前どんだけ落としてんだよ」
 ようやく頭いっぱいに金木犀が乗っている事に気付いたらしい燐は、メフィストの手から逃れて髪をくしゃくしゃにしている。
 その度に落ちていく金木犀は、芝生の敷き詰められた地面へと落ちて、緑から黄色へ染める。
「……今はまだ無理だけど、ちゃんと使いこなせるようになったら、いつかな」
 頭から花が落ちてこなくなったのを確かめ、ボサボサになった頭のまま、燐はぽそりと呟いた。
 背を向けているので、表情は見えない。養父の事を思っているのかもしれないと、そう思う。
 どこか頼りなげな背中を晒している燐に触れてみたいという衝動が、メフィストの体を駆け巡っていく。
 無性に、触れたかった。
 しかし実際に触れる事はなく、そんな衝動があった事も感じさせない態度で、メフィストは言った。
「なに、急ぐことはありません。我々には、時間はたっぷりとあるのですから。――もっとも、お約束の期間までに祓魔師になって頂かない事にはその時間も得られませんが」
「ぜってぇなるから、心配すんな」
「期待しています」
 体にもいくつかついていた金木犀を払いながら振り返った燐のその表情に、既に翳りはない。
 いつも通りの空気を纏っている。金木犀と共に、燻っていた気持ちも落としたのだろうか。
 ベンチの上に放り出していたらしい弁当箱を拾い上げ、片付けをしている燐に知らせるべく、校舎の方から昼休み終了を告げるチャイムが響いてきた。
 もともと少なかった人気は既になく、手荷物をまとめた燐もまた、中庭から去ろうとしている。
 五分後には授業が始まるので当然だ。
「じゃ……」
「そうそう。期待と言えば、今夜は私、治部煮など食べたい気分なのですが」
 じゃあなと言うために口を開きかけた燐に被せるよう、些か強引にメフィストも口を開いた。
 別れを告げ損ねた燐は、メフィストの言葉に首を傾げる。
「何だよ飯来んの?」
「勿論、貴方が招いてくだされば、ですけどね」
「食材差し入れんならいいぜ。ちょうど鶏肉買わねぇといけなかったんだよな」
「すぐ地鶏など手配させましょう。塾が終わった頃にお届けしますよ」
「やった! じゃあお前の分も作ってやるか、しょうがねーなー」
 しょうがないと言う割に、燐の顔は楽しそうなそれだ。
 こういう顔をしている時の燐は、本当に幼く見える。そしてどこか、血の繋がらぬ彼の養父にも似ている気がした。
「ではまた、あとで」
「じゃあな」
 今度こそ別れを告げて、燐は校舎へと走っていく。
 その背中を見送りながら、肩のところにまだ金木犀の花がついている事に気付いたが、呼び止めはしなかった。
 遅れてやってきた香りは、金木犀の甘い香りと、燐の残り香。




end
2011/10/20
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