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キンモクセイノカオリ



 秋も深まり始め、そろそろ上着出さねぇとなあと呟く燐の横を、アマイモンは歩いていた。燐の手に握られた、エコバッグいっぱいに入った食材は、燐の歩調に合わせてゆらゆらと揺られている。
 自宅への帰り道、ふわふわと何処からから漂ってくる甘い匂いに、アマイモンは鼻をすんすんと動かして、これは何の匂いだろうかと首を傾げた。覚えのある香りだ。
 空気と同化しているかのように馴染んでいるその匂いが、どこからしているのかも分からない。
 ただ、とても甘く惹かれる香りだった。
「何やら甘いニオイがします。おいしいでしょうか」
「お前、地の王のくせに金木犀知らねぇの?」
 隣を歩いていた燐が、呆れたように言った。
「キンモクセイ?」
「こんだけするんだから、そこらで咲いてるんだろ。……見えねーけど」
 ちらちら辺りを確認したが、強い匂いを放っている植物の姿は見えなかった。燐も同じらしく、どっからしてんだろと呟いている。
「でっかくない木に、黄色いちっちぇ花がいっぱい咲くんだよ。んで、匂いすげーの」
「ああ、わかりました。osmanthusの仲間ですね」
「お、おすまん……? お前英語とか喋れんのか、スゲーな」
「別にすごくないですが、燐にそう言われるのは悪くないです。あと、キンモクセイ見つけましたよ」
 アマイモンの鋭い爪が指し示したのは、今立っている位置から大分遠い、住宅街の一角。庭に植わっているようだが、塀に囲まれていて直接姿を見ることは出来無い。
 しかしアマイモンにはそこにあることが伝わってくる。何しろキンモクセイ自体が自分はここにいて、この場所から匂いを放っているのだとアマイモンにアピールしてくるのだから、間違えようもない。先ほど声に出して名前を呼んだのが、キンモクセイにまで伝わったせいだろう。地の王の呼びかけに、応えぬものはない。
「見えないぞ」
 一方、悪魔ではあるものの地属性ではない燐に、キンモクセイのアピールは届いていないようだ。アマイモンの指し示した先を目を眇めて見ているが、どこにあるのかはわかっておらず、当然発見することも出来ていない。
「塀で隠れていますし、燐はちっちゃいですから見えなくても仕方ありません」
「ちっちゃくねーし! その尖りなくしたらお前と大して変わんねーだろ!」
「ちっちゃいです」
 アマイモンはきっぱりと言い放った。悪魔としては、燐はまだまだ小さく幼い。子供と何ら変わらない存在だ。だから自分はこうして燐の指導役を与えられている。
 人間としての燐を導くのは人間の仕事であり、悪魔としての燐を導くのは、アマイモンの仕事だ。メフィストからそう言いつかっていた。
 燐はとても人間くさく、悪魔の本性を晒すことは少ないけれど、確かにアマイモンの弟とも呼ぶべき存在ではある。普段必死に隠しているだけで、燐が悪魔であることは間違いが無い。その悪魔の部分を伸ばせと、メフィストからは色々と注文を受けていた。全て指示通りに行っているかといえばそんな事はないのだが、その辺もメフィストは織り込み済みだろう。小言をもらう事は多いが、虚無界への帰還命令もなければ、燐の指導役をクビになることもないので、それが答えだと思っている。
「燐はまだ子供ですから、ちっちゃくても構いません。それに、大きくなられるとボクが指導出来なくなるので、そのままでいてください。ボクはまだ燐と遊びたいです」
「勝手なことばっか言いやがって」
「悪魔ですから」
 悪魔とは欲望に忠実なものだ。悪魔とは自分に正直なものだ。悪魔なのだから、それで合っている。そこのところを理解しない燐は、やはりまだまだ人間寄りなのだろう。いつか指導を続けていれば、燐も立派な悪魔になってくれるだろうか。メフィストがそれを望んでいない事はよく知っている。しかしアマイモンは、燐を悪魔として仕立て上げたい。そうすれば、きっともっと楽しめるはずだからだ。今のように、メフィストの庇護下にいなければもっと遊べるだろう。メフィストにとって燐が大事な駒で有ることは知っていても、アマイモンにとっては違う。
 メフィストに逆らうつもりなどない。兄に勝てるとは思っていないし、そもそもそんな気持ちすら湧いては来ない。それでも燐とは、遊びたいのだ。
 時々メフィスト監督の元、手合わせという名目でなら遊ばせてはもらえるが、物質界で、更に厳しい制約下では存分に力を発揮することは出来ず、アマイモンは物足りなさを感じていた。
「燐、お腹が空きました」
 本当に空いているのは、もっと別のところだけれど、それを訴えても仕方あるまい。
「しょーがねぇなー」
 燐はごそごそと買い物袋を漁り、奥のほうから買ったばかりの板チョコレートを一つ取り出した。
「これでも食って我慢してろ。でも、今やるのはそれだけだからな」
「わかりました」
 板チョコレートを受け取る。ミルク味のそのチョコレートは、燐に強請って買ってもらったものだ。
 最初は渋っていたが、あとで兄上に請求してくださいと言ったら納得して買ってくれた。ちなみに、買い物袋の中には同じものがあと四枚入っている。全てアマイモンのおやつだ。
「うーん、甘いです」
「そりゃそうだろ」
「はい、おいしいです」
 さっさと包みを破って頬張れば、ミルクチョコレート独特の香りと甘さが口の中へと広がる。少し満たされる気持ちになったかと思えば、またすぐに足りなくなる。いつか満たされる時は来るのだろうか。
「キンモクセイはもっと甘いのかな」
 未だ空気と共に漂い香り続ける金木犀の強い匂いを、口の中へと入れたら、ずっとこの香りは続くだろうか。そうすれば、少しは満たされ続けるだろうか。
 ほんの少しの期待を込めて呟けば、何言ってんだと言われてしまった。
「金木犀は食わねーだろ?」
「そうなんですか。おいしそうなのに残念です」
「……いや、ちょっと待て。えーっと、ちょっと待てよ。いつだったか忘れたけど、昔食った気がする。なんだっけな」
 燐は歩きながら、いつだったかなーと頭を捻っている。食べられる可能性があると言うのなら、黙って見守ろうとアマイモンは残りのチョコを口の中へと詰め込んだ。やはり足りない。もっと、もっと食べたい。
「……あ!そうだ!中華!」
「ちゅうかですか」
「すっげぇ前だけど、メフィストに中華おごってもらった事あんだよ。そん時、デザートに出てきてたな、金木犀のジャムが乗った杏仁豆腐」
 何と惹かれる言葉だろうか。燐の紡いだ金木犀のジャムという言葉は、アマイモンの根源たる欲望に火をつける。
「ボクも食べたいです」
「そんなのメフィストに頼めよ。食ったことあるってだけで、俺は作れねぇからな」
「燐の作ったものがいいです」
「そんな顔しても無理なもんは無理だぞ」
 すたすたと早足で歩き去ろうとする燐を追いかけて、腕をつかむ。折れないように力は込めない。人の体はひどく脆いと知っているから、壊さないように制御するのはいつも大変だった。これでも少しは慣れたのだが、骨が折れる作業である事に変わりはない。
 掴んだ反動で燐の持つ買い物袋が大きく揺れ、アマイモンの体に直撃するが、衝撃はなかった。アマイモンの体には――だが。
「何すんだよ!お前、これ卵入ってんだぞ!?」
 燐はガシャッと中の物の擦れ合った音を聞いて、思わず大声を上げていた。すぐにアマイモンの手を振り払い、中を確認している。ホッと息を吐いたので、中身は無事だったようだ。
「割れたらボクが全部食べます」
「いや、それより新しいの買いに行けっての。割れてねぇからいいけど、急に引っ張んな」
「わかりました。では、引っ張らないのでキンモクセイを食べましょう」
「もうその辺の金木犀勝手に食ってろよ。お前なら腹壊したりしねぇだろ」
 燐が呆れたところで、それまでふわりと漂っていた香りが、むせ返るほどに強くなる。
 同時に襲い来る突風は、遠くからキンモクセイの小さな花をアマイモンと燐の元へと運んできた。
 決して少なくはないその花たちは、二人の顔や頭に直撃をして、そのまま風と共に去っていった。
 残ったのは、燐の髪に絡んでいる小さな花がいくつかだけだ。
 庭木として植えられていたキンモクセイは、その花の半分以上を今の突風で持っていかれたようだった。
「すっげぇ風だったな」
「キンモクセイが食べてと風を呼んだみたいですよ」
「は? 何言ってんだ」
 燐の頭へと手を伸ばし、ついたままの濃く黄色いそれを指先で摘む。そのまま口の中へと放りこめば、燐はぎょっとしていた。
「マジで食ったのか!? しかもそれ俺の頭についてたんだろ!?」
「燐の味もするかと思いましたが、しませんね」
「当たり前だ!」
 小さな花は、すぐになくなってしまう。香りはそれほど強くは感じなかったし、燐の匂いもしない。燐の頭にまだ残るそれを全て食べれば、少しは味がするだろうか。
 そう思って再び手を伸ばそうとすると、アマイモンが触れるよりも前に、パラパラと燐の頭から花が落ちて行ってしまう。
「何をしているんですか、あなた達は」
 燐の後ろから、傘を軽く振りながら現れたのはメフィストだった。燐の頭部から漂う僅かな魔力の匂いは、メフィストによって花が全て落とされてしまった事の証明だ。
 燐は気付いていないのか、髪に触れながらメフィストの方へと体を向けてしまった。
「なんだよ、お迎え?」
「そうですよ、あまりに遅いので何をしているのかと様子を見に来ました」
 メフィストの冷えた視線が、燐とアマイモンを交互に撫でていく。
「あーあ、食べたかったのに」
 はらはらと舞いながら地面へと落ちて行く花を見つめ、アマイモンは指をくわえた。
「冗談だったんだから生で食うなって。そんなに食いたいならメフィストに頼んでみろよ」
「今のが食べたかったです」
 燐とアマイモンの会話の流れが分からないメフィストは、首をかしげて燐を見た。
「何の話かお聞きしても?」
「こいつ、金木犀食いたいんだってさ。ずっと前に行った中華屋あるだろ?あそこで食わせてやってくんねえ?」
「はぁ、それは構いませんが、その言い方では貴方は来ないおつもりで?」
「もうじき集合時間だからな」
「ああ、今日は任務が入っていましたか。ならば急がねば、あまり時間がありません」
 メフィストはパチンと指を鳴らし、その腕の中に黒いコートを出現させた。
「今から家に行っていたのでは間に合いませんから、このまま向かって下さい」
 燐はメフィストから自分のコートを受け取り、持っていた買い物袋はアマイモンに向けて差し出した。
「ボクが持つんですか」
「卵割るなよ? 割らなかったら、ジャムの作り方覚えてやる」
「!」
 アマイモンは大事な物のように、驚くほど慎重に買い物袋を受け取った。
 およそ自分らしからぬ物の扱い方だとは自覚しているが、ゴホウビが待っているのだから仕方のないことだ。燐の作るものはなんだっておいしい。口にした時、満たされている時間が他のものよりも長いのは気のせいではない。
「約束ですよ」
「分かってるって。後頼んだぞ」
 コートに腕を通し、ボタンをしめれば燐の顔つきまで変わる気がするから不思議だ。
「じゃあな」
 颯爽と駆け出す後ろ姿に、アマイモンは無表情のまま手を振った。メフィストもまた、無言で見送る。
 どこかで悪魔を倒して帰ってきたら、燐は金木犀のジャムを作ってくれるのだろうか。悪魔を倒したその手で作り出されるだろう甘い味を、アマイモンは待ち望んでいる。
「アマイモン、行くならば連れて行ってやるがどうする」
「燐が帰ってくるまで待ちます」
「そうか」
 買い物袋を抱えて、メフィストと二人、帰路につく。
 卵だけは決して割ることはない。
 燐との約束なのだから、割るわけにはいかなかった。何があっても。
「お前だけのものではないぞ」
 歩きながら釘を刺してくるメフィストは、まるでただの人間であるかのようだ。兄上らしくないと思いもするが、この上なく兄上らしいとも、アマイモンは思う。
「金木犀のジャムがですか?それとも燐がでしょうか」
「……どちらもだ」
 ニィっと口端を上げたメフィストの余裕溢れるその笑みに、アマイモンもまた、口端をほんの少しだけ、上げた。




end
2011/10/16

兄弟は仲良し
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