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のぞむもの



 真夜中に差し掛かろうとする時間。燐は一人、旧男子寮の屋上で剣を振り回していた。勿論鞘から抜くような事はない。
 鍛錬なのでわざわざ剣である必要もなく、木刀だとかひのきの棒だとか、それこそバットでも良かったのだが、すっかり手に馴染むようになってしまった剣を握っていると、それだけで落ち着く心地がする。逸る気持ちを落ち着けて、刀を振り上げた。
 師匠であるシュラは、これだけ覚えておけばどうにでもなると、いくつかの型を燐に授けた。それ以外に、燐がシュラから剣技の手解きを受けた事はない。実にいい加減だと思うが、燐は地道にその型を繰り返した。これで実際に強くなっているのかどうかは分からないけれど、気持ちが引き締まる気はしているので、全くの無意味という事はないだろう。今日はクロがいないので相手をしてくれる者もなく、燐は集中し、黙々と脳内で描いたイメージ通りに体を動かし続けた。
 突くような動作を何度か繰り返している最中、燐は上空から殺気にも似た何かを感じ取った。それが何であるのか確認しているような余裕は微塵もない。一瞬のうちに真上へと現れた影を振り払うべく、燐は迷わずに剣を素早く突き上げる。
 が、狙い通りにはいかず、相手の拳で弾かれてしまった。ガツッと重い衝撃が剣を伝って燐の腕へと響いてくる。同時に、目に飛び込んできた影の正体に、燐の体からふっと緊張が解けた。
「よう、どうした」
 声をかければ、相手は拳を下ろし、屋上の床にふわりと着地する。
「暇なので遊びに来ました」
 いつも通りの無表情で、アマイモンは燐を見た。
 燐もまた鞘にしまったままの剣を下ろし、臨戦態勢を完全に解除する。
「お前と遊ぶとメフィストが怒るから相手出来ねぇぞ」
 それを示すように、燐は剣――倶利伽羅を刀袋へと収めてしまう。アマイモンには倶利伽羅を奪われた過去があるので、不要だとは知っているのに少しだけ警戒してしまうが、これはもう習性のようなものなので、そうやすやすと修正されることはない。
「ボクも兄上から勝手に燐と遊ぶなと言われています」
 メフィストが禁じているのは、二人が遊ぶと周りが無事では済まないからだ。
 以前に軽い気持ちで二人で遊んだ時には、二人のいた建物に相当の被害を負わせてしまった。崩壊しなかったのが奇跡だとメフィストに言わしめたが、結局その建物は取り壊しとなってしまった。
 修理するよりも取り壊してしまった方が早いし安いし安全だからだとはメフィスト談。それ程に壊滅的な惨状であった。
 解体だとてタダではないのだと、あれほど私の学園を壊すなと言っていただろうと、こんこんと説教をされた思い出が燐の脳裏に蘇ってくる。わざわざ正座をさせられて、二人並んで延々メフィストの小言を聞かされたのは、なかなかに嫌な思い出だ。
 燐は途中で正座に耐えられなくなり、そこで余計に小言を食らいもした。
 正座に慣れていないであろうはずのアマイモンが、燐の横でけろっとしていた事は未だに腑に落ちない(反省している素振りが見えないという理由で、アマイモンはアマイモンで個別に小言を食らっていたけれど、それとこれとはまた別だ)。
 メフィストのチクチクとした小言は、にっこり笑顔で鬼のような事を言う雪男の説教や、テンションは定まらず激しさを伴った養父の説教とは違って新鮮だった。
 そういえばいつからだろうか、メフィストが自分に説教などするようになったのは。出会った頃は、小言を言われるような事もなかった。いつからなのか燐は思い出そうと試みるが、うまくいかない。
「なあ、お前ってメフィストに怒られたりすんの?」
「一度燐と一緒にお小言を頂きました」
「それよりも前の話だって。俺がお前やメフィストに会うより前とか、初めて会ったばっかの頃とか」
 燐の言葉を確かめるように、アマイモンは無表情のまま右上を見るようにしながら考えこむ。
 悪魔は時間の感覚が薄いと言っていたから、そう言われても思い出すのは容易ではないのかもしれない。
「……そうですね、物質界に来てからも来る前も、怒られてばかりです」
「やっぱそうなのか」
 メフィストはアマイモンを弟であると燐に紹介していた。二人が二人でいるところを目撃したり、共に過ごしているうちに、メフィストとアマイモンが兄弟である事には納得している。メフィストの態度が他の人間にするものとは全くと言っていいほど違ったからだ。自身も弟を持つ燐は、そんな二人に兄弟ならではの遠慮のなさのようなものを感じ取り、本当に兄弟だったのだなあとしみじみ思ったものだった。
 そして、メフィストのアマイモンに対する態度と、燐に向ける態度には似通った部分がある。説教はその最たるものだ。
 アマイモンは、燐に対してキミの兄のようなものですと最初に自己紹介をしている。メフィストもそれを否定するような事は言ったことがなく、ならば自覚はないながらも、燐もまたメフィストやアマイモンと兄弟なのだろう。未だに実感がわかないが、メフィストは燐の事を弟であるとしっかりと認めていて、その結果として現れたのが、お説教なのかもしれない。小言を言われるようになったのも遠慮のなさを表しているのだとすれば納得も出来る。
 と、そう考えはしたけれど、モヤモヤとした感情もまた燐の奥底から湧いてきているのに気付いた。
 燐とメフィストの間には、兄弟とは別の関係があった。
 それが、今の考えを素直に受け止められない理由だと言うことは分かっている。
 燐にとっては兄弟よりも、もっと別の関係である方が意識としては強い。兄弟だと思ったことがないのだから、それも当然だ。
 しかしメフィストにとってはどうなのか。燐に対して遠慮なさが現れるようになったのは、兄弟だからなのだろうか。
 今までのメフィストの言動を思い起こし、つい一時間ほど前まで繰り広げていた行為についてまで思考が及びそうになると、振り払うように頭の上で手をばたつかせた。
 そうやって考え事をしていたせいで、燐はアマイモンに近付かれていた事に気付くのが遅れてしまった。気付いた時には、驚くほど間近にアマイモンの無表情がある。
「兄上のニオイがしますね」
 すんと鼻を鳴らして、アマイモンは言う。間近で匂いを嗅がれた燐はびくりと体を震わせたが、それは匂いを嗅がれたこと自体に驚いたのではなく、アマイモンのセリフに驚いたからだ。
 思わず首筋を押さえたものの、既に嗅ぎ取られているのだから意味は全くないだろう。
 燐から漂っているらしい匂いは正真正銘メフィストのもので間違いがない。つい三十分程前まで一緒にいたのだから、匂いが移っていても何もおかしくはない。
 そうは思うのだが、何だか妙に照れくさかった。
 さっきまで一緒にいて、していた事がしていた事だからだろうか。それが誰かに知られるのは遠慮したい。今のように、自分では気付くことの出来ない匂いでバレてしまうのはまずいと言うより無かった。
「悪魔って鼻もいいもんなのか」
「鼻がいいかどうかはわかりませんが、兄上のニオイならわかります」
「俺はわかんねーけどなあ」
 二の腕を鼻に近づけて嗅いでみるが、匂いらしい匂いはない。自分の匂いは自分ではわからないし、あえて言うならシャツ自体の匂いがするぐらいだろうか。メフィストの匂いは感じ取ることが出来無い。思い出すことは容易だが、自分からあの香りがしているようには思えなかった。
 アマイモンは再び顔を近付け、今まで燐が嗅いでいた二の腕に鼻を寄せた。
「燐のニオイはニオイでわかりますが、その上から兄上のニオイが染み付いているんですね。二人の匂いが混ざっていて、変な感じがします」
「なんでお前が俺の匂い知ってんだよ」
「?……仲間の匂いはわかるものでしょう?」
「俺には分かんねぇや」
 燐が二の腕から顔を上げると、アマイモンの顔がひどく近くにある事に気付いた。
うわっと声を上げながら、思わず後ろに飛び退る。
「お前近ぇな!」
「さっきからずっとこうだったのに、なぜ急に怒るのでしょうか」
 アマイモンは首を傾げているが、近さに疑問は持っていないようだ。
 もしこんな状態をメフィストに見られていたら、きっとひどい目に遭わされる。燐は想像だけでぞくりと身を震わせた。
「今はいねぇからいいけど、もしメフィストに見られたら面倒だろ」
「それが、こういう時に限って近くにいるのですよねぇ」
 燐の真後ろから突如掛けられた声は、今一番聞きたくないと思っていた声に他ならない。
「兄上、こんばんは」
 後押しするように、目の前のアマイモンが燐の後ろに立つ人物へ向けて、挨拶を放った。燐は固まったように動くことが出来無い。刀袋にしまわれた倶利伽羅を、ぎゅっと握るので精一杯だ。
「メフィ、スト」
「ハイ☆」
 つい三十分程前に別れたばかりなのに、なぜここにいるのだろう。
 もう今日はおやすみを告げているので、会う予定はないはずだ。燐は恐る恐る振り返る。
「なんで?」
「貴方が忘れ物をしたので、わざわざ忙しい中届けに来たのですが……おや、顔色が悪いですね、どうかしました?」
 白々しいとはこういう時のためにある言葉なのだと、燐は実感させられた気分だ。声からも表情からも心配なんてしていない事は分かり過ぎるほどに分かる。
「随分と青ざめていることですし、今夜はもう戻った方がいいかと思いますが、どうでしょうね?」
「おう……そうする」
「ええ、そうしてください」
 これは忘れ物ですと、燐の手のひらに何かを握りこませて、メフィストは燐とすれ違うようにして離れた。
 燐はギッギッと油をさしていない機械のような動作で、手のひらに視線を落とした。
「ああ、忘れてた」
 手のひらの上にあったのは、お小遣い――二千円札だ。
 そもそも今日の夜、メフィストの元を訪れたのはお小遣いをもらうためであった事を思い出す。紆余曲折の末祓魔師の資格を認められた燐は、既に給料も得ているのだが、この後見人からのお小遣い制度はまだ続いていた。お金に困っているわけではなく、月に一度でいいから必ず顔を見せに来いという、メフィストからの要望だった。お小遣いはいわば口実だ。
「ありがとな」
「ええ、ではまた来月、忘れずに取りにいらしてくださいよ」
 楽しみにしていますとメフィストは笑う。
 会話だけであればいっそ祖父と孫のようにも見える微笑ましい光景のはずなのだが、実際はそんな優しいものではない。メフィストの目は笑っていない。絶対に忘れるなと、燐の脳へと太い釘を刺しているのだからそれも当然だ。
「さて、それでアマイモン、ここで何をしている」
 燐への用件はこれで終了らしい。ホッと息を吐くものの、アマイモンに向けられた視線はどこか冷ややかで、関係のないはずの燐まで少し緊張してしまう。
「兄上はお忙しいようでしたので、燐に遊んでもらいに来ました」
 アマイモンはアマイモンで、いつも通りの態度を崩すことはない。
 さっきも怒られてばかりだと言っていたので、慣れているのだろう。スゲーなコイツと、燐は感心してしまう。
「二人で遊ぶことは禁じていたはずだが」
「今回は壊しませんから大丈夫です」
「今まで大丈夫だった事がないだろう」
「大人しく遊ぶので大丈夫です。ですよね、燐」
「俺に振んな!」
 矛先から逃れられたのに、また目を付けられては敵わないと否定をするが、めでたく同罪になったようだ。メフィストにグイっと首根っこを掴まれて、引き摺られたかと思うとアマイモンの横に立たせられてしまう。
「やれやれ、二人とも全く懲りていないようですね」
 メフィストはこれ見よがしにため息をつくが、明らかに言いがかりだ。
「言っとくけど、俺は遊ぶって言ってねーぞ!?」
「遊んでくれないんですか?折角来たのにつまらないです」
 弁明をしようとすれば、アマイモンが間に入ってきて台無しにしてしまう。これでは意味が無く、むしろ状況が悪化しかねない。先にアマイモンを黙らせる必要があると判断し、燐は顔を正面から横へと向けた。
「お前も遊ぶなって言われてるっつってただろうが」
「燐も建物も壊さなければいいのでしょう?」
「私は、二人だけで、遊ぶなと、言わなかったか」
 馬鹿にも分かるようにとでも言いたげに、単語を区切りながらメフィストは言う。メフィストから発せられている重圧は、慣れていないものには恐怖となって襲いかかってくるだろう。目に見えないはずなのに、メフィストの後ろの空間が歪んで見えてくるのだから不思議だ。
 しかしアマイモンは一向に気にした様子もなく、相変わらずケロリとしていた。
「それなら兄上もご一緒にいかがですか。それなら構いませんよね?」
「え、そういう問題なのか!?」
「私の見ている範囲でならばいいだろう」
「そういう問題なのか……」
 悪魔たちの考えは、燐には理解出来無い。
「やりました。では燐、早速遊びましょう」
 メフィストに向けていた顔を、ぐるっと横に並ぶ燐に向けて、アマイモンは明らかに浮かれている。表情には出ないものの、そのぐらいの感情の機微は短い付き合いながらも分かるようになった。
 そんなアマイモンに水を差すのは、やはりブレーキ役であるメフィストの仕事だ。
「待て、今日は駄目だ。またにしろ」
「なぜですか兄上。折角遊びにきたのに遊べないなんて嫌です」
 アマイモンは不満を隠すようなことなく、兄であるメフィストに食ってかかった。興奮のためか、ずっと銜えていたキャンディがバキィッと音を立てて割れる。
 その音は燐の耳にもはっきりと届いた。メフィストはアマイモンの口から落ちたキャンディの棒部分を拾い上げ、落とした本人に手渡す。
「ゴミは捨てるな。それと、今日はもう帰らせると言ったはずだ。お前も遊ぶならば、相手の体調が万全の時のほうがいいだろう?疲労状態のままで遊んでも、長くは楽しめないぞ」
「それもそうですね」
 メフィストの説得に拍子抜けする程あっさり退いたアマイモンは、ポケットから新しい棒付きキャンディーを取り出し、包装を剥き始める。丸いキャンディはピンクと白のマーブル模様を描いている。ゴミはポケットに戻したので、その辺りはきちんと躾けられているらしい。
「では仕方ないので今日はボクも戻ります」
 一瞬で屋上の柵の上へと体を移動させたアマイモンは、飴を銜えながらぺこりとお辞儀をする。
 月を背負ったその姿は、禍々しさと幼さが混在した不思議な光景に映って見えた。人ではない雰囲気を確かに醸し出している。
「オヤスミナサイ、兄上、燐。次に来たときには遊んでください」
「ああ」
「おう、おやすみ」
 二人に見送られるように、シュタッと効果音を口に出しながら、アマイモンは何処かへと飛び去ってしまった。姿形も、影さえも既にない。
 屋上には燐とメフィストがぽつんと取り残される事となった。
「さて、戻りますか?」
「そうだな」
 握っていた二千円札をポケットにしまい、燐は寮内へ戻ろうと歩き出す。が、二歩ほど進んだところで動けなくなってしまった。後ろから伸ばされた腕に、閉じ込められる。
「メフィスト?」
 振り返ろうとするが、うまくいかない。押し付けられたメフィストの上半身が、燐を固定してしまっていた。
 燐の後頭部はメフィストの胸にすっぽりと覆われている。
 メフィストの顎が、燐の頭頂部に触れた。
「あまり、無理はしないように。今日は控えめにしたつもりでしたが、まだ体が辛いのでしょう?」
 さっきまでとは違い、本当に労るような声音に燐は体が硬直してしまった。こういう態度を取られると、燐は動けなくなってしまう。嫌味の一つでも言ってくれていた方がずっとマシだった。
「別に、お前のせいじゃないだろ。俺が勝手に、あれの後にも修行してたからであって……」
「貴方が丈夫なのは知っていますがね、随分と久しぶりでしたし、今日は準備もままなりませんでしたから。いつものように快楽だけではなかったはずだ。そんな貴方を休ませる為に帰したと言うのに、修行に出かけた挙句アマイモンと遊ぼうとするなど呆れて物も言えません」
「遊ばねーって俺はちゃんと言ったって」
「知っていますよ。それでも、随分と親しげでしたので」
 ぎゅっと、腕に力が込められる。痛くはないが窮屈だ。
 燐は体の力を意識的に抜いて、その重みをメフィストに預ける。そうすると、腕の拘束が少しだけ緩んだ。
「仲良いつもりはねーけど、俺はあいつのこと嫌いじゃない」
「そうでしょうね。あれと遊んでいる時の貴方は、随分と楽しそうですから。嫉妬しますよ」
「なら、お前も俺と遊べばいいだろ。強いんだし、稽古つけてくれよ」
「そういう泥臭い遊びは私には向いていませんので、私の見ているところで、アマイモンとしてください。二人が多少じゃれたぐらいでは壊れないような場所を提供しようじゃありませんか」
「俺、楽しそうにするぜ」
「当然、その後沢山構っていただきますのでご心配には及びません」
駄々っ子のようなことを言うメフィストに、燐は少し呆れて笑った。
 結局のところ、メフィストは燐にもアマイモンにも目をかけている。それが兄としてなのかどうかは燐に知ることは出来ないけれど、特別な位置にあるだろう事は間違いがない。
「なあ、俺ってお前の弟?」
「貴方は藤本の息子で、奥村先生の兄ですよ」
 何を今さらと、メフィストは言う。燐はあくまでも魔神の息子ではなく、魔神の炎を持っている存在、それだけだ。父親は藤本獅郎その人だけであるし、弟は奥村雪男ただ一人。燐にとってはそれが正しい立ち位置で、魔神を倒すのならば尚更忘れるわけにはいかない。事実がどうであれ、燐の中にはそれ以外の答えは存在してはならなかった。
「じゃあ、アマイモンと同じように説教したりすんのは弟としてじゃねーんだな」
「全く弟だと思っていないわけではありません。が、私は貴方の兄よりももっと別のものでいたいので、ここでは違うとお答えしておきましょう」
「別のもの?」
「ええ、別のものです」
 ちぅっと首筋に落とされる唇の感触に、燐は首を竦めた。
「兄弟では、こうした行為は出来ませんから」
 燐は頭を真上へ持ち上げて、メフィストの顔を見る。燐の顔を見つめてくるメフィストは、薄く笑っていた。
「俺の何になりてーの」
 尋ねれば、メフィストは人差し指をたてて、唇にあてた。
「それは言わぬが花というものですよ、燐」
 ああ望むものは同じなのだと、燐は口角を上げた。




end
2011/10/10





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