ハミガキジョウズカナ
「兄さん、ちゃんと歯磨きして寝てよ?」
「わーかってるわーかってるっての。いーからさっさと風呂入って来いよ」
クロはいつものように燐の布団の上で、丸くなって眠っていた。そのクロから少し離れたところで、燐と雪男は会話をしている。直前まで眠っていたのと、聞き耳を立てていなかったので、クロは最後の方しか聞き取る事は出来なかった。
本当に分かってるのかなと不満を漏らしながら、雪男は着替えを持って部屋を出て行く。風呂に入りに行くのだろう。
それを寝ぼけ眼で見送ったクロは、ふわあああと大きな欠伸を一つした。
部屋に残った燐は、椅子にだらしなく座って漫画を読んでいる。歯磨きをしに、部屋の外へ行く様子は全く見られなかった。クロは四本の足を伸ばして起き上がると、そのままベッドから燐の椅子まで跳躍する。背もたれに上手いこと着地をすれば、驚いた燐がクロを見上げてきていた。
「どうした」
燐の青い瞳がクロの姿を映す。クロの目にも、燐の瞳は鮮やかに映っていた。濃く深いブルーが美しい。
『りん、はみがきしないのか』
「ん、あとでな」
『だめだ!ちゃんとはみがきしないと、むしばになるって、おれしってるんだ』
定位置である燐の頭の上に体を移動させながら、クロはぺしぺしと二股になっている尻尾で燐の後頭部を叩く。燐はいてっと声を漏らしはしたが、それは反射的に出たものであって実際には痛みなど感じていない。
「なんだよクロまで邪魔すんのか」
『むしばになったらこわいって、むかししろうがいってた!だから、はをみがこう、なありん』
クロはニャーと優しく燐を諭すものの、肝心の燐は聞く気がないようだった。
この時の燐は雪男にも同じ事を説教されたばかりであったから、所謂『いまやろうと思ってたのに言われたからやる気なくしちゃったなー』の状態だ。結局すぐに動くつもりなどない。更に、歯磨きよりも漫画を読みたいという気持ちの方が強いらしく、視線をまた手元の漫画に戻してしまった。
「ちゃんと寝る前に磨くよ」
だから心配するなと、頭上の小さな使い魔に向かって燐は言った。
燐は幼い頃から健康で、風邪は勿論虫歯にもなった事がない。悪魔と周りから恐れられ罵られ、雪男と違って勉強も出来ない燐にとって唯一の取り柄が健康だった。そんな燐にとって虫歯は驚異になり得ない。
『それなら、おれがしてやる!』
「クロが?」
『うん。おれがりんのはをみがく。りんをむしばになんか、させないんだ』
そう宣言したクロは前肢に力をこめて、燐の頭にしっかりとしがみつく。下半身は燐から離して、体重をぐっとかけていった。クロの重みで、じわじわと燐の顔が上を向いていく。これでは燐が漫画を読むことが出来ないが、クロはお構いなしに口を真上へと向けさせる。首を後ろへ九十度曲げさせることに成功したクロは、次に曲芸のようにその場で飛び上がって、燐の顔の上に着地を果たした。
「ぶわっ!」
クロの足が燐の額を踏んづけたかと思うと、その場で腰を落としてしまう。燐の視界が黒く閉ざされ、クロの毛が覆っているのだと気付く。
「何してんだクロ」
『はみがきするっていったよ。もー、きいてなかったのか?』
「歯磨きってこの状態でかよ。何も見えねー……。つーか歯ブラシは水道んトコだぞ」
『おれ、はぶらしなんて、にぎれない』
この手は物を握るようには出来ていない。挟むことは出来るけれど、それで人間のように歯ブラシをうまく動かせる筈も無かった。
人に化けることが出来れば、テレビで見るように燐を膝の上に乗せて、歯磨きを施すことも出来ただろうが、牙のない今ではそれも叶わない。
だからこうするのだと、クロの舌は燐の開いている口から覗く前歯に触れた。
「ぎゃっ!」
予想外の感触に驚いた燐からは、かえるが潰れた時のような変な声が漏れてくる。
燐はクロの体をタップして退け退けと訴えているが、クロは上半身も燐の顔の上に乗せて、口以外を体全部で覆ってしまう。
『じっとして!ちゃんとできない』
「こんなん歯磨きじゃねーって!」
『おれのべろは、ぶらしにもなるから、だいじょうぶだ』
ああなるほど、よく舌で毛繕いしてるもんな!だなんて思える筈も無い。ブラシと歯ブラシは違うものだ。燐がそんな事を考えている隙に、クロは歯をペロペロと舐め始めた。ブラッシングをする時の様に、舌を広げて全体で燐の歯の表面を舐め取っていく。
その刺激に、燐の体はぞくぞくと震えを催していた。クロにとってはあくまでもブラッシングの一環なので、この行為について深く考える事はなかった。燐が虫歯にならないように、綺麗にしてやるんだという意気込みでいっぱいだ。
前歯の表側が終わると、裏側にも舌を這わせる。姿勢の関係で下前歯は掃除しやすかったけれど、上前歯はやりにくい。あとで姿勢を変えて丹念にやろうと、とりあえず下の歯を全て舐め取ってしまうことにした。つるつるとした歯のエナメル質は気持ちがいい。燐は歯並びが良く、変な隙間もないので実に舐めやすかった。
クロが舐める度に、燐の体はびくりと跳ねる。特に歯の裏側や歯茎に舌が這わされると、震えは顕著だった。クロの体にも、燐の震えが響いてくる。それがどこかくすぐったくて、クロはくすくすと笑った。
前歯に奥歯、表も裏も綺麗に舐め取って、下の歯は完了だ。
最初はクロの体をタップし続けていた燐だったが、下の歯が完了する頃にはぐったりと力なく体を椅子に預けきっていた。クロは、そんな燐の顔の上からしなやかな体を退けて、そのまま真っ直ぐ燐の胸の方へと降りていく。燐は背もたれに対して斜めに体を預けているので、胸の上にも乗りやすい。
向き合う形に姿勢を整えると、クロは再び燐の口の中へとその薄く小さな舌を差し入れた。先ほどと同じように、丁寧に歯の裏側を舐め取っていく。
「はっ、あ……」
燐の口からは吐息が漏れている。さっきまでは体の下にあったせいで見えなかったが、真正面に移動したので今は燐の表情がよく見える。燐は眉を下げて、どこか苦しそうだった。心配になったクロは舌を抜いて、燐に尋ねる。
『りん、いきくるしいの?』
「あ、おわった、か?」
『まだだけど、りんがくるしいならやめる』
虫歯にはしたくないけれど、それとこれとは話が別だ。
『おれ、へたくそだった?』
「いや、むしろうめーんじゃねーかな……」
はははと乾いた笑いを漏らしながら、燐は体を起こす。クロを抱き上げるその表情にはいつものようなエネルギーが宿っていない。まるで生命力を吸われてしまった人のようだった。クロにはエナジードレイン能力は無いはずなのだが、いつの間にかそんな技を身につけてしまったのだろうか。心配からじっと燐を観察していると、燐は居心地が悪いのか体調が悪いのか、体をむずむずとさせている。
「わりぃクロ、俺ちょっとトイレ。ついでに残りの歯も磨いてくるな」
『うんわかった。つぎからは、ちゃんとじぶんでみがくんだぞ!』
クロは燐から退き、机の上に座った。一方の燐は分かってると言いながら、椅子から立ち上がって部屋を出て行った。体調が悪いのではなく、トイレを我慢していたのかと、クロは燐がおかしな理由がわかって安心する。出て行く時、姿勢が前屈みだったのは何故だろうと首を傾げながらも、クロは机から再びベッドの上へと戻った。
『おれ、やくにたてたかなぁ』
そうなら嬉しいと思う。燐の匂いが染みついた布団の上で丸くなりながら、クロはお兄さんにでもなった気分でいた。
いつかテレビで、歌に合わせて母親が子どもに歯磨きをしている光景を、クロは見たことがある。あのように出来ただろうか。燐はうまいと言ってくれたので、きっと出来たのだ。クロは満たされる心地になった。
ぱたぱたと足音がして、燐がもう帰ってきたのかと思ったが、ドアの向こうからやってきたのは風呂上がりの雪男だった。
「さっき廊下で兄さん何か叫んでたけど、何かあったの?」
『あのなー、ちゃんとゆきおがいったように、りんにはみがきさせたんだ。おれがしたんだぞ!』
クロはニャーニャーと雪男に答える。雪男は悪魔の言葉を解することが出来ないので、クロが何を言っているのかは分からないものの、クロの様子から何か良いことがあったのだろうなと推察する事は出来た。
「よかったね」
『うん!』
雪男がにこりと笑えば、クロはそれにちょっとだけ得意げに、大きく大きく頷いた。
――一方、廊下ではおかしな気持ちになった燐の戸惑いの叫びが、未だ続いていた。
【おわり】
2012/05/03
初出:SCC21で配布した文庫サイズ8Pのペーパー
もらって下さった方々ありがとうございました!
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